ゼロと無限で楽しむ
    2006年05月17日


トップページに戻る  目次ページに戻る 


 一度買って捨てた本を何年か過ぎて読み切るときがたまにある。宮部みゆきの『理由』とかテレビドラマの『英語の歴史』などがある。今回読み終えたチャールズ・サイフェの『異端の数ゼロ』(林 大訳、早川書房、2003年)も同じである。副題は、「数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念」とある。3年前は読み始めて、哲学や宗教に寄り道するのがまどろっこしくてほっぽり投げた。今回は後半の宇宙論でくじけそうになったがガマンして読み終えた。

 この本は図解も多く、数式が少ないから抵抗なく読めた。苦手な数学や物理は人間の考え方の移り変わりとみれば読み切れることがある。数式がどこから生まれどのように使われてきたかを知ると親しみが湧くのも不思議である。この本ではゼロはバビロニアから発生したことになっている。それがアレクサンダー大王の東方侵略によりインドに伝わり、イスラム教のヨーロッパ侵攻に伴い西欧に取り込まれてギリシャ哲学を基礎とするキリスト教を根底からゆすぶったという。ゼロはインドで発明されたと習ったわたしには意外な展開である。

 数直線に慣れているから正(+)と負(ー)のあいだにゼロがあるのは当然と思う。でも、数えるときは1、2、3であって0は出てこない。9の次に10が出てきて気がつくぐらいだ。これは数え年が生まれた日から1歳になるのと似ている。つまり、ゼロやマイナスは人工的な面がある。この本を読んで「くらい取りのゼロ」と「原点としてのゼロ」の二つの意味があることを再確認した次第である。昔からなじめないのは、ある数に0を足したり掛けたりしても0になるが、0で割ることはできないことだ。不定とか無限という回答が出てくるけれどキツネに化かされたような気になる。この本の著者は0と無限大を対(ペア)で説明するのもひっかかる。だから、数学や物理学についてはこれ以上立ち入らない。この本の面白いのは0と無限大の関わりを問題にして数学や物理学の流れを解説するので興味がある人はぜひ読んでほしい。

 わたしの関心は神話や宗教は無から始まることである。混沌(こんとん=カオス)の中から神がかき混ぜて国や人を創造する。旧約聖書や日本書記を始めとして東洋では当たり前の思考だ。でも、無から有は生じないと考えるわたしにはこの発想がなじめない。へ理屈を並べるつもりはないが、かき混ぜる前に無の中に何かがあったから生まれ出るものがあるのではないか。また、ゼロを無と関わらせる考えもなじめない。無と有の対立としてとらえる必要は果してあるのだろうか。だからといって、世界を優雅な有理数で成り立つと考えたギリシャのピタゴラスの世界観を美化する気もない。人間は面白いことを思いつくものだと改めて関心した。

 意外さにひかれて読み切ったものの無と有の関わりに立ち入ってこれ以上困惑したくない。また、相対性理論や量子論に慣れたから読み切れた面もある。雑学程度しか分からない者としては深く立ち入れないのが歯がゆい。

文頭に戻る