元祖成金:大倉喜八郎の一生
    2006年04月29日


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 越後の新発田(しばた)から江戸に出向き、鉄砲商人から政商となり財閥を作り上げた大倉喜八郎の一生が描かれる大倉雄二著『鯰(なまず)』(単行本1990年7月文藝春秋社、文春文庫1995年3月)をようやく読み終えた。サブタイトルは「元祖"成金"の混沌たる一生」である。ちなみに、この人物については紀田順一郎『カネが邪魔でしょうがないー明治大正・成金列伝ー』(新潮選書、2005年7月)にも出てくる。 この『鯰』は60歳違いの妾の子ども(喜八郎が82歳で生んだ)によって書かれたことに特異性がある。身内によるリアルな描写が作家や評論家の人物像にないものを補う。ひょうひょうとした顔付きをしながら、繊細で用心深い人物を「鯰」にたとえているのも面白い。

 成金という言葉は金はあっても品がないイメージが付きまとう。成り上がり者が金を稼ぐ(財を成す)という侮蔑も含まれる。太閤(たいこう)とあやされた豊臣秀吉に似て賛美されつつも出身の低さゆえに蔑視やねたみを伴う。越後から出て総理大臣になった田中角栄を成金と呼ばないが立身出世は似たようなものだろう。最近でいえばバブル期に土地転売や株式売買で荒稼ぎした人やITバブルで人気者になったホリエモンほかの長者である。でも、ひとつの道の成功者であり、憎めないキャラクターも多く、無視できない人物に違いない。

 ともあれ、大倉喜八郎は一過性の成金でなかった。幕末から明治維新の動乱を巧みに乗り切り、大久保利通、伊藤博文、井上馨、山県有朋などの明治の「元勲」(金や女にルーズで賄賂も平然と受け取った)とのパイプを活かし、昭和初期まで自ら朝鮮や中国まで進出したスケールの大きな活動は目を見張る。もっとも、著者は商人の視野にとどまったゆえに、安田善次郎や岩崎弥太郎が近代的な資本家として企業体を組織して「大財閥」として飛躍したほどに拡大しえなかった面や判断や権限が喜八郎に集中した個人商店的でドンブリ勘定な経営も指摘する。それが乱世にあっては素早い行動力で利益を得た原動力であったものの、多額な資本を要すとともに多角的な行動に対応できない欠点でもあった。著者は触れていないが、成金的な行動が目立つのも江戸期の町人が栄華を色道や道楽で散財した側面に似ている。それゆえ、政商という忌み嫌われる行動をした喜八郎を散財を通じて人間味のある人物にさせることも忘れてはなるまい。

 経営理念史や経済史を学んだわたしは江戸時代以後の人物誌をたまに読む。井原西鶴の『日本永代蔵』に描かれる商人も憎めない。でも、面白いのは幕末から明治に至る商人の行動だ。安田善次郎、浅野総一郎、高島嘉衛門そして大倉喜八郎は無視できない人物である。彼らはカリスマ性がただよい、乱世には欠かせない大胆さと抜目なさを併せ持つのも魅力である。それとともに浅野と大倉は学校を興したことも忘れてはなるまい。利益追及だけでなく後進を育てようという意識もあったことは単なる長者や成金と異なる。著者が「名誉欲の産物」(p197)とする大倉が葵町の自宅の隣に作った商業学校は東京経済大学として国分寺市に残っている。ちなみに、1900年代初頭のアメリカの資本家が学校、図書館、天文台を寄付しているのも奇妙な一致で面白い。

 余談になるが、彼の別荘あとは神戸や横浜に「大倉山」という地名に残っている。元は元勲に使用させるための別荘だったが広大な敷地は名をとどめている。横浜と喜八郎の結びつきはモダンな街路や桜並木だけでなく、武器の仕入れ先であり、彼の財を拡大したターニングポイントであった場所であることも忘れられない。ちなみに、大倉喜八郎は、天保8(1837)年9月24日に越後平野の新発田の質商の三男として誕生し、昭和3(1928)年4月23日に関連企業100数十社を擁する男爵として満90歳で亡くなった。

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