葉桜


 はじめて彼女の存在に気づいたのは、確かJRのダイヤ改正が行なわれた四月上旬の頃だった。例年以上に寒い冬だったため、四月に入ってようやく、淡いピンクの小さな花が、僕の家の前に続く桜並木につき始めた。桜花のアーチの下、花弁が風に乗り、美しく雪のように舞っている、そんな頃だった。


 桜散らしの冷たい雨が降った日、いつも通り家を出た。家の前から駅まで続く桜並木の道は、この雨により、ピンクの小さな花弁が所々道路にはり付き、或いは水溜りに小さな貝殻のように浮かんでいた。すでに誰かに踏まれ泥に塗れているものもあれば、まだ真新しいものもあり、僕は気をつけて道に足を下ろした。

 最寄りの私鉄の駅にだいたいいつもの時刻に着き、いつもと同じ電車に乗った。雨が降っているためか車内は窮屈で、異常に高い湿度のせいもあり、いつも以上にいやな気分になった。終点のM駅まで私鉄で行き、そこからJR線に乗り換えた。ダイヤが改正されたため、前よりも乗り継ぎ時間に余裕があり、僕は降り頻る雨を駅のホームからぼんやりと見ていた。ひんやりとした風が気持ちよく、火照った体を冷ましてくれる。一息ついたとき、満員電車が進入して来て、乗車客の人波にさらわれ、押したり、押されたりして、僕はまた渦の中に巻き込まれた。そして、体が固定すると僕の目の前にはひとりの女性が人の壁に囲まれていた。

 彼女は肩に触れるくらいの髪を神経質に左手で掻き揚げながら、右手に持った文庫本に目を落している。アイボリーのスプリングコートが人波に揺れ、僕の右手を撫でつづけた。O駅に着き、人が一気にドアから吐き出されると、車内は初春日の海岸のように長閑な雰囲気になった。僕の周りには数人の人間しかいなくなり、彼女は開いたドア側の一番端の席に文庫本に目を落したまま座っていた。僕はその反対側のシートに腰を下ろした。

 僕は何気なく、真向いに座ったその女性の観察を始めていた。地味で影の薄い感じの女性だった。恐らく人ごみの中で彼女を見たら、知り合いでもその存在に気づくことはないような気がした。それほど彼女はくすんで見えた。僕は現在二十九歳だが、彼女もそんなものだろう。身長は高くもなく、低くもなく、体型もやや痩せ型で、それほど印象に残るところはなかった。

 僕はその女性を真正面に見ながら、いつしか電車の心地よい揺れによっていつものようにうとうとした。やがて、電車はT駅に着き、下りようとすると彼女もドアの前に立っており、それが開くのを待っていた。僕は自然と彼女の後をつける形になり、改札を出たところで彼女は東口に、僕は西口にと分かれた。それが僕の記憶に残っている彼女との初対面だった。


 その日以降、朝の通勤電車で毎日のように、その女性と顔を合わせるようになった。ダイヤの改正により、それまで近くを走っていたが決して交わることのなかった二本の線が交差を始めたのだ。

 僕はほとんどいつも同じ時刻の同じ車両に乗る。それは僕だけでなく、会社に通勤する人間は同じような性質があるらしく、O駅を過ぎ車内が閑散とすると、そこに乗っている人たちはだいたいいつも同じような顔ぶれとなり意識せずとも、彼らを覚えてしまった。毎日、オレンジ色のウインドブレーカを着ている年齢不肖の男性だとか、神経質そうに周りに目を配っている痩せぎすで蟷螂のような中年の女だとか、何となくあやしい雰囲気の会社員とその会社でアルバイトをしているらしい若い女性のふたりづれだとか。

 初め彼女は、そんな人たちの中のひとりに過ぎなかった。しかし、毎日、毎日、顔を合わせているうちに、何となく彼女のことが気になりだし、姿が見えなかったりすると、寂しく感じるようになった。それは不思議な感覚だった。

 いたって普通で印象に残らない女性、何故そんな彼女に心が動いていったのだろう。いや、そんな女性だからこそ、僕の心は彼女に傾いていったのかもしれない。ときに男というものは、いや僕はといったほうがいいかもしれないが、健康的で闊達な光りを放っている女よりも、何処かに影のある薄幸そうな女に興味を引かれたりする。また年齢が近そうだということも、何となく彼女が気になる理由だったように思う。

 また僕の中に、自分の手に余る猛獣よりも、運命に従順な弱い草食動物を狙うといった気持ちもいくらか含まれていたかもしれない。下世話な言い方をすれば、寂しい女のほうが落しやすいといった見下ろした考えだ。そして何より、彼女に僕と同質の匂いを感じたからだと思う。それは、孤独の匂いである。

 いつしか僕は彼女の私生活を、想像するようになっていた。若い女性に似つかわしくないくたびれた黒い革靴は、苦しい経済状態を象徴しているように思えた。ほとんど素顔のように見える薄化粧で、こだわりの感じられない髪型、そして寂しげで何処か自信のない目。蜂を引き寄せる甘美な花の匂いを、彼女からあまり感じることはできず、週末を楽しく過ごせる異性がいるようには思えなかった。或いは結婚していて、夫に相手にされなくなった主婦かとも考えたが、入念に観察したところ左手の薬指に指輪はなく、またどの指にもそれはなく、その可能性は低いように思われた。

 彼女の服装からは、仕事を推測しようとした。基本的に地味な服装で、白のブラウスの上に黒のカーディガン、暗いグレーのスカートに黒のタイツといった冴えないOL風の服装の時もあれば、着古したGジャンを羽織っていたり、カジュアルを通り越してラフと思われるような格好をしていることもあり、会社の事務といったあまり人前に出る必要のない仕事をしているように僕には思えた。それも、大きな会社ではなく、零細企業だろう。零細企業の冴えない事務員という結論を出したりして、僕は勝手な想像をしていた。

 彼女を意識し始めてから、一月くらい経った五月上旬のことである。その日、電車が定刻よりもやや遅れたこともあり、車内の混雑はいつもに増して酷かった。電車に乗り込み、押したり押されたりしていると僕の目の前に彼女がいた。僕はちょうど彼女を真横から見るような形になっていた。いつもは文庫本を片手に持っているのだが、混雑のため読むのを諦めたのか、それはバッグの中に仕舞われたままになっているようだった。

 久しぶりに間近で彼女を感じ、僕の心は揺れた。彼女の生まれたままの色の髪の毛は、以外と美しく健康的に光りを反射し、車内のエアコンからの風が仄かにフローラルの香りを運んできた。切れ長の細い一重の目は相変わらず寂しい光りを灯していて、風雪に耐えてきたような冷たい諦めと警戒心からくる怯えのようなものが感じられた。それに反して、紅を塗っていないように見えるやや大きめの口は官能的で、唇の皺ひとつひとつが妙に艶かしく、僕は引き込まれた。その唇が微かに開き、唾液に濡れた内側が見え、そこから洩れる吐息を感じると、僕は吸い込まれてしまうような錯覚に陥り、初めて彼女に欲情した。

 自分でも憐れなほど気持ちが動揺したとき電車はO駅に着き、一気に車内は潮の引いた状態になり、彼女は座ることの多いドアのすぐ横のシートに腰掛けた。いつもは彼女を視界に捕らえることのできる位置に座るのだが、この日は自分の気持ちを押さえるためにわざと影になるところを選び、僕は座った。このような気持ちになるのは、久しぶりのことで、明かに僕は彼女に興味以上の気持ちを感じ始めていた。

 季節が進み、初夏のような陽気が続くと、自然と服装は軽くなり、彼女の中の女が現れてきた。繭に包まれ実体を隠していた生物がそこから這い出し、本来持っている機能を見せつけ始めた。貧弱そうであまり性的なものを感じることのできなかった彼女の体は意外と均整が取れていて、十分に女だった。小さいが形のよさそうな胸、締まったウエスト、そして以外と豊かなヒップから太ももにかけてのライン。蜂を誘惑する甘美な匂いは少ないが、彼女にも蜜があることを僕は知った。

 彼女は僕のことをどう想っているのだろうか。そもそも、僕の存在に気づいているのだろうか。毎日、毎日、こうして電車の中で会っているのだ。顔くらいは覚えてくれているのではないだろうか。それとも、見知らぬ人々の中のただのひとりなのだろうか。あのオレンジ色のウインドブレーカを着た年齢不肖の男性と同じなのだろうか。そんなことを考えると、胸が締めつけられるような狂おしい気持ちに襲われた。運命に従順な弱い草食動物の前に、僕は完全に跪いていた。

 僕がいつも乗っている朝の通勤電車はT駅に八時四十四分前後に着く。そして、会社は九時始まりのところが多い。それを考え合わせると、彼女の職場はT駅東口からすぐ近くの可能性が強い。僕は昼休みにわざわざ東口まで行き、女性が入りやすそうな飲食店を周ったりした。ファーストフードの店から、手頃な値段でランチが食べられる喫茶店、または落ち着いた雰囲気の洋食の店やコンビニエンスストアなどにも寄ってみたりした。しかし、彼女と出会うことはなかった。


 どうにかして、この女性と親しくなりたい。仕事中もそのことだけが、思考を占拠して僕を苦しませた。僕は恥ずかしながら生まれてこのかた「ナンパ」というものを一度もしたことがない。したがって、親しくなる上手い方法が、全く思い浮ばないのである。こういう場合は一体どうしたらいいのか、どうすれば成功するのか、いくら考えても答えは霧の中に隠れたままだった。

 僕にいい知恵は無く、こういうことに詳しい会社の同僚に相談してみることにした。その同僚は以前、同じように通勤電車で毎日のように乗り合わせていた女性に告白した経験があるのを僕は知っていた。結果は失敗に終わったようであるが、藁にもすがる気持ちというのはこういうことをいうのだろう。昼休み、いつものように先輩の社員と彼と三人で、駅前のビルの一階にあるこだわりの野菜を使った洋食の店に入り、事情を話した。

 「どんな感じの女なの?」とその同僚は興味津々といった感じだった。僕は彼女のことを話すのを躊躇った。何となく、それが彼女を汚してしまう行為に思われたからだ。
「でも、どんな女かによって攻略法は変わってくるぜ。うまく遊んでいそうなタイプか、真面目なタイプかによってアプローチの方法は違うしさ。わかるだろ?」と彼がさらに食い下がるため、僕は「たぶん真面目なタイプだと思う」とだけ言った。彼はさらに容姿のことをしつこく訊いてきたが、適当にあしらった。彼女のことはできるだけ胸にしまっておきたいと思った。

 「朝の電車で毎日、顔を合わせているのなら、簡単だろ。‘いつも、会いますね’とか笑顔で言って、親しくなっていけばいいんだよ」
それができるのなら苦労はしない。それに、いきなりそんなことを言って彼女に気持ち悪く思われ、電車を変えられてしまったら終わりだ。顔を合わせるようになって一〜二週間目くらいだったら、いい手かもしれない。だけど、もう一ヶ月以上経っているのである。唐突にそんなことを言うのは不自然ではないだろうか。僕は不満を口にした。
「そんなこといっていたら埒が開かないよ。女の方はどうなんだよ。お前のこと、知っているのか?」
顔くらいは、覚えてくれているかもしれないが、僕に興味があるような素振りを全く彼女から感じることはできなかった。
「そんだったら、もう思い切って正直に‘僕はあなたのこと、ずっと見ていました。よろしかったら連絡ください’とか言ってさ、携帯の番号書いたメモ用紙を渡したら。文学的でいいかも」
これは以前に彼が行なった方法であり、失敗に終わっていた。僕は、そんな丁半博打のような一か八かの方法はとれない。さらにこの博打は負ける可能性が大だ。僕の携帯に電話がかかってくることはなく、次の日から電車を変えられてしまうだろう。そもそも、そんなメモ用紙など受けとってくれないのではないか。それに僕自身に、そのような勇気もない。
「だったら、どうしようもないよ。どんな方法だって、相手にその気がなければだめなんだし」と同僚は呆れ顔で僕を見つめた。

 確かにどのような巧妙な手段をとっても、彼女にその気がないのなら失敗するだろう。しかし、手段の巧拙によって、結果に違いが出ることもあるはずだ。それに彼女のあの寂しそうな目…。
「お前の気持ちはどうなんだよ。ただ、やれればいいのか、本気で付合いたいと思っているのか」同僚は質問の方向を変えてきた。やることだけを思っているのか、それとも、別の関係を望んでいるのか、それは僕自身にもよくわからなかった。僕にいえるのは、ただ、彼女と親しくなりたいということだった。

 僕は駄々っ子のように、もっとうまい手はないのかと同僚にせがんだ。すると、それまで僕たちのくだらない話しを聞きながら、黙々と食物を口に運んでいた先輩が口を開いた。
「偶然だよ。偶然に頼るんだよ」
それを聞いた同僚は我が意を得たりとばかりに饒舌になった。
「さすが、先輩。そうだよ、何か偶然を装って声をかけられる状況を作ればいいんだよ。たとえば、わざとその女の前に新聞を落すとか、足を踏むとか、何でもあるだろ」
そう言いながら、ありきたりな二例しか示すことができない彼に僕は失望を禁じ得なかった。それを聞いていた先輩は苦々しそうに言った。
「俺が言ったのは、そういう意味じゃないよ。第一こいつにそんな器用なまねができると思ってんのか。よほど上手く演技しないといけないんだぜ」
「それじゃー、どう言う意味で?」と同僚は不満顔で訊いた。
「俺の言った意味は、その女が引き起こした、或いは自然に起きた偶然にうまく乗るっていうことさ。例えば雨の日、その女が傘を車内に忘れるという偶然が起きれば、‘あの傘忘れてますよ’と自然に声をかけることができるだろ。それがとっかかりになるじゃないか。何か物を落としたとき、それを拾ってあげる。混んだ車内で、体が接触して謝る。痴漢から守ってあげる。地震が発生したら、自分の身を呈してかばってあげるとか。何か、そういったきっかけがあれば人間って急速に親しくなれるものだよ。偶然は人と人との距離を縮めてくれる」
「だけど、そんなのいつ起こるかわかりませんよ。偶然に頼っていたら、前に進まないでしょ」と同僚は納得できないようだった。
「それはそうかもしれないよ。一年経っても何も起きないこともあり得る。だけど、一番自然な形ということを考えると、仕方ないんじゃないかな。後は神様の手助けを祈るだけ。それはそうと肝心のお前はどうなんだ?」と先輩は僕に言った。

 自然に話しかけられる機会が来るのを待つという先輩の意見は、気の長い話しではある。だけど、焦って下手に動いて失敗するより、しばらく待った方がいいように僕には思われた。自分の技量に、このことを好転させるだけの力があるとはどうしても思えない。僕には助けが必要なのだ。偶然という名の神様の助けが…。先輩の意見に従い、いつ起こるともわからない偶発的な出来事を、僕は気長に待つことにした。僕と彼女に何がしかの縁があればそれは訪れ、なければ何も起きないということなのだろうと運命論的な考えになったりした。

 しかし、僕はそれほど長く待つことはなかったのである。偶然の女神は駆け足で僕の元にやってきた。


 梅雨の走りのような天気が続いた六月上旬、それまでの愚図ついた天気が嘘のように気持ちよく晴れた日だった。南よりの風が心地よく、久しぶりに爽やかな気持ちで僕は家を出て桜並木の道を、会社に向かった。

 いつもの時刻のいつもの電車に乗り、いつものように乗り継ぎ、そしていつものようにO駅でほとんどの人が下車して、彼女の姿が目に止まった。彼女はいつものドア際の端の席に、そして僕はその真向いに座った。

 彼女はいつものように文庫本に目を落し、寂しげな瞳で活字を追っていた。僕はそんな彼女をいつものようにちらちらと盗み見た。真夏のような陽気のためか、ダークグリーンのタンクトップにレモン色の薄手のカーディガンをはおり、下はベージュ色のスカートという彼女にしては明るい感じの服装をしていた。

 毎日、彼女を見る度に、僕の中に激しい渇望が湧きあがってくる。その気持ちを抑えるように僕は軽く目を閉じ、電車の揺れに身を任せた。車内はすでに軽い冷房が入っているようで、その冷気を感じていると心が落ち着いてきた。

 約十分経って、電車はT駅に着いた。彼女は文庫本を持ったまま席を立ち、僕はその後に並び、ホームに停車した電車のドアが開くのを待っていた。その時に神の意志が働いたと思われるような出来事は起きたのだ。

 彼女は持っていた文庫本をバッグの中にしまおうとした。しかし、彼女の手から離れたそれはバッグの入口をすり抜け、落下を始めた。文庫本はまるでスローモーションのように重力に従い下に向かい、やがて僕の黒い革靴に当って半回転し、僕の足の左側に落ちて止まった。

 僕が身を屈め、左手で文庫本を拾ったのと、ほとんど同時に電車のドアが開いた。彼女は僕の方を振り向きながら、僕は文庫本を彼女の方に差し出しながら電車を下りた。
「ありがとう」そう言って彼女は電車が動き出したホームで、僕から文庫本を受け取った。僕はただ会釈をしただけで、言葉がでなかった。
「そういえば、いつもお見かけしますね。会社ここにあるんですか?」微笑ながら彼女が話しかけてきた。
「あ、そういえばそうですね。そうなんです、会社は西口の方で五分くらいのところにあるんです。あなたの職場も?」僕は分かりきっていることを、改札に向かい歩きながら訊いた。
「ええ、私は東口の方なんですけどね」
多くの通勤客の中、僕たちは寄り添って歩いていた。改札までの距離の短さが恨めしかった。
「それでは。どうもありがとうございました」と言って彼女は東口の雑踏の中に吸い込まれていった。絶好の機会だった。それを完全に生かし切れない自分が情けなくなった。しかし、通勤時の余裕のない時間帯だし、そのわずかな時間のことを考えるとこんなものなのかもしれない。そうだ、これは初めの一歩なのだ、要はこれからだと自分を慰めた。

 これで自然に声をかけられる下地はできたわけである。明日以降、朝の電車で徐々に親しくなっていけばいい。だけど、落した本を一回拾ってあげたくらいで、一寸ずうずうしいような気もする。いや、いや、そんなことを言っていたら、いつまで経っても先に進むことはできない。ここは、一気にいかなくては。

 仕事中、僕の頭の中は二転三転していた。毎日、彼女を見ているだけのときは、耐え難い渇望があった。しかし、物事が動き出すと、それはまたそれで心が重くなっていくのが感じられた。僕の頭は憐れなほどの混乱を始めた。しかし、偶然の神様は、そんな僕の混乱など関係無く、物語を早く展開させたのだった。

 その日の午後、製図を出力するプロッターが故障した。すぐに製造元のメンテナンス課に電話をし、修理に来てくれるよう要請したのだが、体制が取れないという。要するに忙しくて人がいないというわけだ。それではこちらも仕事ができない。どうしてもというと、七時過ぎくらいなら何とか来社できるかもしれないが、明日の朝一で対応するので、それではだめだろうかと懇願された。

 僕の一存では結論は出せないので上司に相談すると
「今、何か急ぎの仕事入っていたかな?」と訊かれた。この会社は忙しく、僕もほとんど定時で帰ったことはなかったが、幸いにして今は落ち着いていて、それほど急ぎという仕事はなかった。
「それだったら、明日の朝一で動いてもらえばいいんじゃないかな?七時からと言ったって、作業が終わるのはいつになるかわからないし、それをただ待っているなんて時間も経費も無駄になるしな」

 こうして僕は久しぶりに定時で上がることになった。夕方の五時に会社を出ると、まだ外は十分に明るくて、朝いいことがあったこともあり、気分も弾んでくる。しかし、早く帰れたといっても、特に何をするというわけでもない。家に早く着いて、テレビを見る時間が増えるくらいのことだ。何処に寄ることもなく、T駅の改札を入り、四番線のホームに向かった。そこに彼女がいた。またも偶然の神様の見えざる手を僕は感じた。


 四番線のホームに中程に全面ガラス張りのカウンターだけのコーヒーショップがあり、会社員やOLなどが電車を待ちながら一休みできるようになっている。ガラスにはメニューが色とりどりのPOP文字で書かれていてお客さんを誘っているわけだが、何気なくそれを見ていると、その向こう側に彼女は座っていた。

 僕と目が合い、彼女はにっこりと笑い手招きをした。僕は無意識のうちにコーヒーショップに入り、彼女の横に座っていた。
「朝はありがとうございました」と彼女はまたお礼を言った。
「そんな大したことじゃないですから」と僕はすっかり恐縮してしまった。
「いつも、今頃お帰りなんですか?」
「今日はたまたまなんです。残業が多い会社ですから。会社で使っている機械が壊れてしまって、それで仕事もなくなって今日は久しぶりに定時で上がれたんです。あなたは?」
「わたしはだいたいこの時間。コーヒーをここで飲んで、ちょっと仕事の気分を抜いてから帰ることにしているんです。そうだ、コーヒーごちそうしますよ」と彼女は微笑んだ。

 ただ足元に落ちた本を拾っただけなのに、このお礼は過大すぎると思い、何度も辞退したが結局、彼女に押し切られてしまい、カプチーノを注文することになってしまった。何故カプチーノにしたかといえば、彼女がそれをおいしそうに飲んでいたからである。それにしてもこれだけ偶然が重なる日もあるのかと、僕は不思議な気分になった。プロッタが壊れたことによって、僕たちの線はまた交差したのだ。

 「探偵小説、お好きなんですか?」僕は唐突に彼女に訊いた。それは拾った本がディクソン・カーの‘皇帝のかぎ煙草入れ’だったからだ。
「ディクソン・カー読むんですか?」と彼女はちょっと驚いたようで、細い目がやや大きくなった。
「ええ、好きな作家です。‘帽子収集狂事件’とか‘プレーグコートの殺人’とか、あと何があったかな…。爬虫類の何とかという」
「‘爬虫類館の殺人’ですね。外から掃除機で目張りするやつでしょ」
彼女の寂しそうな瞳が輝いていた。
「そうでした。でも、僕が読んだのは高校生くらいの時でしたから、内容はあまり覚えていないんです。探偵小説が好きで、よくいろいろと読みました。アガサ・クリスティとか、チェスタートンとか、ガストン・ルルーとか。そうそう、クロフツの‘樽’なんて好きでした」
「へー、ほんと偶然ですね。探偵小説が好きな方に、探偵小説を拾ってもらうなんて。ヴァン・ダインはどうです?」

 僕はわざと推理小説という言葉を使わず、探偵小説という言い方をした。推理小説でも、社会派ではなく、純粋な謎解きの本格派のことを好きな人は特に探偵小説と呼ぶことがあるからだ。彼女は何のためらいもなく、探偵小説という言葉使った。僕は彼女に、親近感を持った。
「読みました。だけど、ちょっと無機質な感じがして、あまり…。やっぱりカーが一番好きでした。あと横溝正史」
「私も」

 僕たちはカプチーノを飲みながら、しばらくの間、探偵小説談義に花を咲かせた。偶然というのは確かに人と人との距離を縮めてくれる。知らない人が見たら、僕たちが今朝初めて言葉を交わした間柄だとは思わないだろう。いつの間にか、明るかった外の風景に、闇が落ち始めていた。
「だいぶ暗くなったわね。もう、そろそろ出ましょうか?」彼女が辺りを見回しながら言った。
「ほんとだ。すっかり時間が経つのを忘れていました」
僕たちは連れ立って、ガラス張りのコーヒーショップを出て、ホームに立った。陽が落ちたせいか、日中の暑気は和らぎ、心地いい風が僕の足元を駆け抜けていた。
「食事とか、どうされているんです」
自然と言葉が出た。彼女は僕の顔を見つめ、小さな顔をやや左に傾けた。
「もし、予定がないのなら、いっしょにどうかなと思って。ひとりで食べても味気ないですから」僕は思い切って言った。自然と手に力が入り、汗を握っていた。彼女はしばらく首を傾けたまま、考えていたが
「ええ、いいですよ。ご一緒しましょう」と言って、寂しそうに微笑んだ。

 僕と彼女はホームに入って来た電車に乗り込んだ。車内は会社帰りの人たちで混んでいて、お互いの体がかなり接近した状態で僕たちは並んでつり革につかまった。車窓から暮れゆく街並みが流れていく。家々の窓からもれる灯りが夕闇に映えて、いつも以上に温かいものに感じられ、胸に少し痛みが走った。すぐ近くにいる彼女の温もりが、そんな僕の冷えた気持ちを和らげてくれていた。

 彼女は僕がJRに乗り換えるひとつ先の駅のSに住んでいるということだった。僕は、そこで食事をしようと提案したのだけど、彼女はそれだと僕にとって一駅乗り過ごすことになるからといって、僕の乗り換えの駅であるMにしようといい、僕は結局また押し切られてしまった。

 場所が決まるとまたコーヒーショップの続きで、探偵小説談義華やかになったのだけど、僕の頭の中はどの店に彼女を連れて行こうかと、そのことでいっぱいだった。Mは毎日乗り降りする駅ではあるが、馴染みの店などというものはなく、そればかりか駅の外に出て街を歩いたということもほとんどなく、何処にどんな店があるのかということがさっぱりわからない。不案内の街で、彼女が喜びそうな店を見つけることなど、ほとんど不可能に近いように思われ、楽しい探偵小説談義とは裏腹に、僕の心は重かった。

 彼女に何か苦手なものはないかを訊こうとして、声をかけようとしたとき、僕はその名前をまだ知らないことに気づいた。今朝初めて話して、まだ名前も知らない女性と夕食を共にしようとしていることが、とても現実の世界で起きているとは思えず、僕は不思議な感覚に囚われた。こんなことが日常の自分に起こるなんて、夢の世界に迷い込んでしまったのではないだろうかなどと、いつしか僕は透明な繭の中にすっぽりと入り込んでしまっていた。

 「どうしました?」彼女に話しかけられて、我に返った。うろうろする僕に
「Mに着きましたけど」と彼女が言った。電車はまさにM駅のプラットホームに入線したところで、彼女が先になって電車を下りた。
「よく考えたらまだお互い名前も知らなかったですね」と僕が言うと、彼女はいかにも可笑しそうに笑った。
「あら、そうね。お互いうっかりしてましたね」
「ええ、うっかりしてました」
と僕が情けなそうに言うと、さらに笑って
「笹山京子といいます」と自分の名前を言った。
「僕は向田耕助です。コウスケは金田一耕助と同じ字です。親が横溝正史のファンだったわけではく、単なる偶然のようです。僕が横溝正史の作品に愛着を感じる要因になっているとは思いますが」
「あの名探偵と同じ名前なんて、ちょっとうらやましいです。女の名探偵っていったら、アガサ・クリスティのミス・マープルくらいしかいないのじゃないかしら。でも日本人でマープルなんてだめね」
「そう、そう、笹山さん、何か食べ物で苦手なものってあるんですか?」と僕はやっと訊きたかったことを訊くことができた。
「何でも大丈夫ですよ」と彼女は言った。食べ物に好き嫌いなどないという健康的な明るい声だった。

 駅の改札を出た時にはもう、辺りは完全に闇に包まれ、自動車のテールランプが赤色に鮮やかに光り、蛍のように乱舞していた。街の灯りは華やかだけど、僕は途方に暮れていた。何処に彼女を連れていったらいいのだろう。とりあえず、繁華街の方にでも行ってみようか。
「こっちの方に行って見ましょう」と僕は特に明るい方向に彼女と共に歩き出した。歩いていて、良さそうな店を見つけたら、そこに入ろう…そう思って歩いていると、ある記憶が甦ってきた。それは会社の後輩のことだった。彼は与論島出身で、島に帰って親の後を継ぐことになり会社を辞めることになった。個別の送別会を有志数人でやったのだが、その場所がここだった。もう数年前のことだけど、あの店はまだ残っているのだろうか。

 歩いていると、その記憶は薄霞がかかったような状態から、徐々に輪郭がはっきりしてきて、僕の足は自然にそちらに向かっていた。
「あ、ありました。ここなんでどうです」僕は小さな店の前に止まり、彼女に言った。
「串焼きの店ですか?わたし串焼き好きなんです」と彼女は喜んでくれた。
僕たちは店の中に入った。まだ時間が早かったためか、それほどお客は入っていなくて、奥の静かな席を案内された。

 とりあえずセットを注文して、僕はビールを彼女はグレープフルーツサワーを頼んだ。やがて飲み物が運ばれてきて、僕たちは乾杯をし、置かれた料理を食し、また探偵小説談義をした。これほど探偵小説に詳しい女性に僕は初めて会った。久しぶりに楽しい気分だった。

 しかし、ひととおり探偵小説の話しを終えてしまうと、次の話題が見つからない。
「お仕事は何をされているんですか?」僕はかねてからの疑問を彼女にぶつけてみた。
「普通の会社員ですよ」
「いや、服装がそのいろいろと変わるものですから」
「会社員といっても、パートですから、あまり服装のことは言われないんです」彼女は仕事に関してはあまり話したくないようだったので、この話題は打ち切ることにした。気になっていた女性と折角同じ卓についているのに、仕事の話しなんてあまりに野暮ではないか。
「今、おいくつなんです」気まずい雰囲気を破るように彼女が言った。
「今年でもう三十になります」
「私も。同学年だったんですね」彼女は少し寂しそうな表情をした。その憂いをためた目に僕は惹き込まれて行くような感覚を覚えた。
「この店はよくいらっしゃるんですか?」彼女は獅子唐の焼き串に手を伸ばした。
「あっ、辛いのがあった」彼女は苦そうに顔をしかめた。
「たまに、辛いのがあるんです。当りですね。後輩の送別会をこの店でやったんです。そのときも獅子唐の焼き串で、同じようなことがありました」
「その後輩の方は、今どうしているんです」
「与論島の出身ですから、今は戻っているんじゃないでしょうか」
「与論島ですか?良さそうな場所…。住んでみたい」彼女の目は遠く、寂しかった。‘行きたい’ではなく、‘住んでみたい’と言った彼女の心情が辛かった。何となく厳しい現実を歩いているような気がした。

 「僕も…」僕は彼女に同調した。都会というのは確かに快適だけど、何か大切なものが決定的に失われているような気がする。
「笹山さんなら、足腰も丈夫そうだし、大丈夫ですよ」と僕はしんみりした雰囲気を変えるつもりで言ったのだが、
「それって、私の足が太いっていうことですか?」と彼女に強い調子で、訊き返されてしまった。
「いや、まあ。はい」と僕はしどろもどろになった。
「‘はい’ですって!失礼な人ですね」と彼女は朗らかに笑い、また話し出した。
「私、福島県の田舎の出身なんです。中学の時から自転車で通学していて、高校の時なんて八キロもの山道を毎日通っていたものだから、こんな立派な足になってしまって。こっちに出てきてからは、結構気使っているんだけど、なかなかね」
「いや、いや、そんなに気にしなくてもいいんじゃないですか?男にしたら、あまり細いのは魅力的じゃないし。鶏がらのような女を抱いても面白くないですよ」
「まあ!」と彼女は驚いたような表情をして
「向田さん、酔ってます?」と僕の顔を覗きこんだ。
「いや、いや、すいません。そんなに酔ってはいないんですけど。今日はちょっとおかしいです」と僕は言い、獅子唐の焼き串を食べた。辛いものは無く、それがちょっと寂しかった。

 「僕のはハズレでした」
「いつくらいから、私のこと気づきました」彼女はちょっと恥かしそうに言った。アルコールのせいだろうか、彼女の頬は少し赤く染まっている。
「その…」僕はどう応えていいか、迷った。思い切って本当のことを言ったほうがいいのだろうか。その判断がつかなかった。返答に困っていると
「私のこと、ずっと見てくれていたような気がしたものですから…」寂しそうな目は食卓を見つめていた。紅潮した頬、官能的な口…、彼女のことを初めて美しいと僕は思った。

 ‘私のこと、ずっと見てくれていたような気が…’彼女の言葉が、僕の頭の中で回っていた。僕が彼女を見ていたように、彼女も僕を見ていたのかもしれない、そんな気がした。
「桜の花の頃から、笹山さんのこと気づいていました」僕はやっとそれだけ言った。
「桜の花の頃から…」彼女は僕の言葉を繰り返した。
「桜といえば、私、前に付合っていた人に言われたことがあるんです。もう、ずいぶん昔の話なのですが…」彼女は視線を落したまま、話しだした。
「お前は葉桜みたいな女だって」
「葉桜…。どういうことでしょうか?」
「私にも、どういうつもりで言ったのか、詳しいことはわかりません。恐らく、華がないとか、旬は過ぎたとか、誰も見向きはしないとか…そんな意味で言ったんじゃないでしょうか。別れるちょっと前のことですから」

 葉桜、そう言われれば、そんな気もする。今までの僕が彼女から受けた印象も、それに近いかもしれない。だけど、僕はその葉桜をずっと見ていた。そう、ずっと見ていた。そのことを彼女に言いたかった。しかし、僕は言葉を飲み込んでいた。時間はいつしか過ぎていった。

 「あっ、もうこんな時間」彼女は腕時計を見て言った。僕の左手首に巻かれた安物のデジタル表示の腕時計はすでに十一時に近かった。
「ほんとですね。それじゃー、そろそろ店を出ましょうか。ここは僕が持ちますから」
「それはできません。悪いです」と彼女は困ったような顔をした。
「さっき、コーヒー奢ってくれたじゃないですか。今度は僕の番です」
「でも…」とさらに言う彼女を、僕は何とか説き伏せ、お勘定を払って店を出た。
「ごちそうさまでした。ほんとにすいません。久しぶりに美味しい物を食べられました。ひとりだと、いい加減になっちゃうから」
僕たちは、花嫁と花婿のようにふたり寄り添って歩いた。
「しかし、こうして夜の街をふたりで歩いていると不思議な気がします」
「どういうことですか?」と彼女は僕の顔を見つめた。
「だって、そう思いません。僕たちは今朝まで言葉を交わしたこともなかったんですよ」
「でも、私のこと見てくれていたんでしょ?」彼女は初めて甘えるような声で言った。その声音は、僕の気持ちを昂ぶらせた。

 「ええ、だけど今朝のあの偶然がなかったら」そう言うと、彼女は恥かしそうに
「あれ、偶然じゃないんです」と言った。僕は彼女が言っている意味がよくわからず、彼女の目を見つめていると
「私…わざと本を向田さんの足元に落したんです」と消え入りそうな声で言った。抑えきれないような衝動が僕の心に突き上げてきた。彼女は言葉を続けた。
「夕方、あのコーヒーショップにいたのも、もしかしたら会えるかなと思って…」
「そうでしたか…」
「今日だけじゃなくて、ほとんど毎日あそこに居ました。偶然を期待して」そこで言葉を区切ると、やや明るい口調で
「でも、探偵小説はたまたまです。あれは偶然ですよ」と彼女は言った。僕が神の助けなどと思っていたことは、すべてに彼女の意思が働いていたのである。

 ふと周りを見まわすと、道の横にHOTELのネオンが赤く光っている。今なら、恐らく僕たちは…、彼女も拒まないだろう。僕の心は激しく乱れた。しかし、僕に最後の一押しはできなかった。

 何事もなく、僕たちはM駅に着いた。
「着きましたね」
「ええ」
僕たちは改札を入り、私鉄とJRの連絡口まできた。そして、おやすみの挨拶をして、それぞれのホームに向かおうとしたとき、彼女がわずかな段差に躓き転んだ。
「大丈夫ですか」
「ちょっと、酔ったのかもしれません」
僕は彼女の手を握り、引き起こした。彼女の手…、荒れていた。普通の会社員の手ではないように僕には思われた。

 大学生の時、運送会社で荷物の仕分けのアルバイトを約三ヶ月間したことがある。そのとき、手の皮が日に日に厚くなり、そして荒れていった。人間の手は正直で、時には口より能弁に真実を語る。彼女がそのときの僕と同じような仕事をしているのかどうかはわからない。しかし、その手のざらつきから、彼女の生活が伝わってくるような気がした。

 「ありがとうございます」
「ほんとに大丈夫?」
「大丈夫ですよ。あっ、この段差に躓いたのね」と彼女はそこを憎々しげに見た。
「明日も、あの電車ですよね?」僕は言った。
「いつもの電車です」彼女が応えた。そして
「私、足が太いって言った人のこと絶対忘れませんよ。中学生の時、そう言った男の子のこと今でもよーく覚えてますからね」と明るいふざけた口調で言った。
「ということは、僕のことも永久に笹山さんの記憶に残るわけですね?」僕もふざけて言った。
「そういうことです」
そして、僕たちはそれぞれの路線に分かれた。すべてが夢のように思われる出来事の中で、彼女のざらついた手の感触だけが、妙に生々しく僕の中に残った。


 翌日の朝、僕はいつもの電車に乗らなかった。乗れなかったのではなく、意識的に乗らなかった。笹山さんと顔を合わせることを、自ら避けたのだ。何故そんな気持ちになったのか…、彼女が怖くなったわけでも、あの偶然が実は偶然ではなかったことに失望したわけでも、彼女の手が荒れていたことに興ざめしたわけでも、また女は手に入れるまでが伝々といったような低俗な理由ではもちろんない。

 彼女とこのまま毎朝、同じ通勤電車に乗り合わせれば、仕事の後、いっしょに食事をしたりお酒を飲んだり、そして、いつしか週末をいっしょに過ごせるような間柄になれるかもしれない。しかし、それが何となく気が重く、物憂く、そして怖いような気がした。

 僕はたぶん、幸せになることを怖れたのだ。低空飛行が続いている僕の人生で高く飛び上がることは不安であり、その高度を維持することは何処か居心地が悪いような気もして、何よりもそこからまた落ちることが怖かったのかもしれない。

 幸せになることが怖い、何を馬鹿なことをと思われるかもしれない。しかし、人というものは不幸を怖れるように、時には幸せに恐怖を感じることもあるのではないだろうか。特に僕のように寂しい日常をおくっている者には、このような幸せは眩しすぎて、陽の当たるその場所に出て行くことが身を焼かれるようで尻込みをさせてしまうのだろう。それにたとえ幸せを手に入れたとしても、それはいつか失われるかもしれない。その苦痛を考えたら、初めから何も得ない方がいい。何かを得るということは、何かを失うということだ。そうだ、何も得なければ、何も失うことはないから。

 こうして、僕はそれから毎日、それまで乗っていた電車より一本遅い電車に乗るようになった。私鉄で一本電車を遅らせると、JRでは二本遅れることになり、T駅には八時五十二分くらいに到着するようになった。会社に着くのはほんとにぎりぎりになってしまったが、このパターンに慣れてしまうと、朝少しゆっくりできる分、楽に感じる。

 幸いにして、その後、また仕事は忙しくなり、連日の残業が続いていた。九時前に帰れることはあまりなくなったが、それでも用心のため、ホームへ下りる階段をあのガラス張りのコーヒーショップの反対側にした。そして彼女の姿から、僕は完全に離れることができた。

 物理的に彼女を排除することはできた。しかし、だめなのだ。僕の中には彼女が濃厚に残っていた。仕事で忙しい日中はまだいい。仕事が終わり、夜、部屋に帰り、黙々と食事を取り、やがて床に着くと僕の頭の中は彼女に占領され、悶々として朝まで眠れない夜も多かった。

 彼女のあの寂しそうな目、しっとりした官能的な口、そして荒れた手。探偵小説をいつも手にして、寂しい瞳で活字を追っている彼女の姿が頭に浮かんできて、容易に離れない。日に日に狂おしいほどの渇望が僕を襲った。これは一体、何なのだろう?僕を激しく襲うこの気持ちは一体何なのだろう?

 姿を見せなくなった僕を彼女はどう思っているのだろう?僕は寂しかった。彼女も寂しかった。しかし、彼女は僕の足元に本を落すことで、いつ来るかわからない僕をあのガラス張りのコーヒーショップで待つことで、寂しさと闘おうとした。それに比べて僕は、幸せを怖れ、暗く静かな安定の中に逃げ込もうとしている。太陽に翼を焼かれることを怖れ、洞窟の中でうずくまっているだけの傍観者。運命に従順な弱い草食動物は彼女ではなく、僕の方だった。


 仕事が一段落した六月下旬、久しぶりに晴れた。ここのところ鬱陶しい雨が続いていたが、梅雨の中休みというものかもしれない。半袖のワイシャツに腕を通した。もう上着は必要ない季節に入ったようだ。

 相も変わらず忙しい日々が続いていた。パンとコーヒーだけという簡単な朝食をとり、僕は家を出た。遅い時刻の電車にすると、知らず知らずのうちにその時間配分に慣れてしまい、わずか五分くらいの差なのに余裕を持って早く家を出ようという気持ちがなくなるから不思議だ。

 外は眩いばかりに陽でいっぱいだった。空から光りの天使が落ちて来る。それは今の僕にはあまりに眩し過ぎる。桜並木の木陰の中を、半袖のワイシャツに木漏れ陽を感じながら歩いた。そして、久しぶりに上を見上げた。

 そこには、燃えるばかりの緑の葉をつけた桜。僕の横を、通勤する会社員や学生たちが通り過ぎ、前にも急ぎ足でわき目も振らず歩いている人が見える。花の時期には、朝の通勤時でも足を止めて見ている人もいたが、今はもう足を止める人はいない。

 誰にも見向きはされないけれど、大地から水と養分を吸収し、陽の光りを受けとめ、逞しく根を張り続ける葉桜。それはまたそれで、いや僕にとっては、より美しい。抑え切れない感情が心の中で突き上げてきた。桜並木の道を、駅に向かって僕は走った。(2005.7 10)


−完−



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