男は一刻も早く、この下界から逃げ出したいと願っていた。空は工場の灰色に塗られた煙突から吐き出される煤煙によっていつも黒いスモッグに覆われ、太陽の位置を確認することさえできず、夜と朝の交代もぼんやりとしていて、それがいつ行なわれているのか誰も知らず、時がほとんど消滅していた。 大気はそれによって汚染されており、空気を吸って吐くという生命体にとってはごく自然なことさえ無意識に行なうことはできず、耐えず息を吸って吐いてと、まるで喘息患者のような意識を持たないとできない状態だった。 水道の蛇口を捻ると赤錆の混じった鉄臭い液体が流れ出た。毎日、毎日その水を飲んでいると自分の置かれた状態が絶望的に迫ってきて、男は自分の精神と肉体が日に日に錆びて腐っていくように行くように感じた。 男は一刻も早く、この地から飛び出し何処か遠いところ−ここよりましなら何処でも−に行こうと計画した。そして男は幸運にも−少なくても彼はそれを信じていた−この下界から抜け出すための唯一の手段である飛行機の切符を手に入れることに成功した。男は身の周りのものを鞄に詰め込み、飛行機の切符を上着のポケットに入れ、空港に向かった。 蟻の巣のように地中に張巡らされた陰鬱な地下鉄に乗り、廃墟のような空港に着いた。黒い煤煙が低く垂れこめる空の下、灰色の滑走路が空虚に広がっている。虚無と閉塞という疫病が蔓延している下界の中で荒涼と広がるこの空港だけがぽかんと空いた唯一の崩れかかった窓なのだ。 荒涼とした空間にただひとつ孤高に、そして寂しく建っている塔から滑走路を見下ろすと、男が搭乗する飛行機が無造作に置かれていた。その飛行機は小さく銀色に輝いている。小さな銀色の飛行機…ただそれだけがこの死が忍び寄ってくるような空港で異彩を放ち生きているように感じられる。そう、それは生命力に溢れた存在だった。男はほとんど憧憬に近い思いをもって、それを眺め続けた。 塔の中の待合室には男を含めて三人の人物がいた。これがこの飛行機の乗客の全てだった。ひとりは女、肩甲骨くらいまで伸びた長い黒髪を後でひとつにまとめ、黒く濡れた瞳に、肉厚で柔らかそうな赤い唇をしていた。もうひとりは若い男、背が高く黒いスーツケースを持ち、狡猾そうでよく動く鼬のような目で辺りを見まわしている。
そしてこの飛行機のただひとりの乗務員、パイロットが現われた。彼は頭が完全に禿げ上がったデブの中年男だった。腹には脂肪が何重にもとぐろを巻いて、醜く垂れている。片目に黒の眼帯をし、隻眼が赤く濁っていた。男は大事なことを知らないことに気づいた。
「わかりました。私はこの飛行機に乗ることにします」 「ご搭乗予定の皆様、飛行機の準備が整いましたので搭乗をお願いいたします」陰気な女の声でのアナウンスが流れ、三人の乗客は飛行機に乗り込んだ。飛行機は滑走路を少し走っただけで空中にふわりと浮かび、そして高度を上げていった。太陽の陽もほとんど届かないような薄暗い空を突き進み、そして黒い煤煙層を突き破った。 辺りは一気に陽の天使たちが舞い降りて、眩いばかりの光に包まれた。窓の外は果てしない碧さが広がっていた。その碧さは何処までも何処までも続いている。男は生まれて始めてといっていい幸福感に浸った。こんな自分を下界で未だに暮している父や母、そして弟達に見てもらいたかったという想いが胸に溢れた。飛行機に乗り、果てしない青い大空を陽を受けて飛んでいる自分の姿を…。
もう下界などは芥子粒ほども見えなくなっていた。男の心の中はただ碧く広がる世界だけがあった。心に余裕のできた男は若い男に話しかけた。
「あの女を見て何を感じます。長い黒髪、濡れたような黒い瞳にしっとりとした赤い唇、肌も白くて滑らかそうだし、こんもりと盛り上がった形のいい胸、胴の締まり具合もよさそうだ」
「こんにちは。すばらしい天気でよかったですね」男は愛想よく言った。女も幾分か楽しげに、
女は困惑の表情を浮かべた。そこには愚者を蔑むような表情も多少混じっていた。 「わかりました。ありがとう」男は女の言っている意味がよく理解はできなかったが、その場を離れた。男の頭にひとつの考えが浮かんでいた。下界以外の場所だったら何処でもいいのだから、いっそこの女の故郷についていくことにしよう。誰も知らない土地で暮すより、ひとりでも知っている人間がいた方がましだ。それに確か女は母とふたりでのんびり暮すと言っていた。女手だけだと何かと心細いだろうし、困ることも多いのではないだろうか。そこにひとり男がいれば心強いし、便利なことも多いはずだ。女が同意してくれれば、いっしょに暮すこともできる。女の母親だって喜ぶことだろう。男はそう想った。そしてそれは決して悪い考えではないように思われた。
男はもとの席に戻った。若い男は下卑た笑いを浮かべながら男に話かけてきた。
若い男は赤い表紙の本を男に渡した。男はその本をぺらぺらと捲った。そこには縄での体の縛り方や蝋のうまい垂らし方、さらには鞭の使い方による苦痛の程度なども載っており、巻末の方には使用上の注意点まで書かれていた。男はその本を若い男につき返した。 男は軽く目を閉じた。不思議と下界での出来事は想い浮かんでこなかった。青空の中を飛んでいる心地よさによるものだろうか、これからのことが頭に浮かんで絵になった。自分と女そして女の老いた母との三人の暮しが男の頭の中では始まっていた。三人で田舎の里山のような場所にのんびりと暮していた。それほど広くない畑を一頭の馬を使って男は耕していた。女はかいがいしく周囲の草むしりをしている。そして時間になると女の母親がおやつを持って来て三人で談笑しながら食べていた。 そのことがひどく現実的に想われ、自分は本来はそこでそうしていたのかもしれないという気さえしてきた。そして、その三人の絵が将来の夢想ではなく、過去の出来事の想い出として古くなったセピア色の写真のように確定したものと思われてくるのだった。 男はいつしか眠りに落ちていた。そして夢を見た。男はひとり暗い森の中をさ迷い歩いていた。木々の枝葉に陽は遮られ、地面にはほとんど到達していないようで、石は苔生せ、地表はじめじめとしており、体積した落ち葉が腐っていた。男はその中をひたすら歩いていた。 鬱蒼とする木々の間から何やら輝くようなものが見えたような気がした。男は歩みを速め、それに近寄った。大きな気の根元に全裸で縄に縛られた女が転がっていた。男は女の縄を解こうとした。しかし、それは女の白い肌にひつように食い込んでいて外すことがなかなかできない。男は女に身を寄せてさらに努力を続ける。男の鼻腔に女の体から発せられた体臭が漂い、そして満ちた。男は努力を止め、女の白い体躯を眺めた。 ふと、そのそばに赤い蝋燭が落ちているのに男は気づいた。男はそれにマッチで火を点けた。辺りは、ほのかに蝋燭の火により明るくなった。男は蝋燭を女の乳房の上まで持っていった。そして斜めに傾けた。蝋燭から赤い蝋が女の白い乳房に垂れ、赤い斑点を作った。女は微かな呻き声をたてた。男は次に乳房の頂点にある美しい突起物に、狙いをつけ蝋燭を傾けた。蝋燭から垂れた蝋は女の乳首を赤く染めた。女は喘ぎ声を上げ、体を捩った。男は縄で縛られた女の脚を強引に開かせようとした。女は激しく抵抗をした。その時、地面が大きく揺れ、男は地面に倒れそうになった…。 男は目を覚ました。飛行機は大きく揺れていた。窓の外を見るとそれまでの青空は何処にもなく、黒い雲に飛行機は包まれていた。どうやら飛行機は低気圧に突っ込んでしまったようだった。男が辺りを見まわすと若い男も女もまだ気持ち良さそうに眠っていた。あんな夢を見た後だったので男は女の顔を見ると気恥ずかしくなったが、体を知り合った男女のような親近感もわいてきて、複雑な気持ちになった。しかし、そんことを考えている余裕もなくなっていった。
飛行機の揺れはますます酷くなり、すやすやと眠っていたふたりもさすがに目を覚ました。 飛行機の揺れはますます激しくなっていった。若い男もさすがに不安になってきたようで、席を立ち揺れる機体の中を機長のところまで這って行った。化粧室から戻った男もその後に続いた。 飛行機の前面から流れる黒い雲はふたりに恐怖を与えた。飛行機は正に雲を切り裂いて飛んでいた。その時、信じられない恐ろしいことが起きた。雲の中に含まれる水分の塊が前面のガラスにあたり、粉々に砕け散った。恐ろしい気圧の変化が機内に起きた。飛行機を操縦していた禿頭の男は大きな叫び声を残して、粉々に砕け散った窓から外に吸い出され、空中に放り出され下界に落ちていった。
誰もいなくなった操縦席に若い男が向った。 女は何時の間にか男の後ろに来ていた。飛行機は急激にその高度を下げているようだった。高度を下げたことによって、機内の気流は弱くなり、何とか動けるようになった。もう機内には男と女のふたりしかいない。男は込み上げて来る恐怖を振り払い、操縦席に向った。飛行機を操縦した経験などなかったが、もうそんなことは言っていられない。このまま何もしなくてもどうせ死ぬ、それならやるだけやってみようと男は思った。気流が弱まったため操縦席までは容易に到達できた。しかし、そこには…何もなかった。操縦桿も計器類も無線も何もかもなかった。一体この飛行機はどうなっているのだ。あの禿頭の男はどうやってこの飛行機を操縦していたのだ。この操縦席でできることといったら、椅子に座って前を見ることくらいだけだ。男の心に絶望感が広がった。
「どうしたのです」女が後から声をかけた。 男は飛行機が樹海に落ちることを覚悟し、それを女に言った。女は何かを叫んでいたが、男の耳には何も入らなかった。樹海に木々が目の前に迫った。男は操縦席から降り、床に身を伏せた。機体が木々の枝を払う音が激しく耳に突き刺さった。飛行機はついに地表に衝突した。物凄い衝撃がふたりを襲い、やがて森はいつもの静けさに戻った。 どのくらい気を失っていたのだろうか…男は目を覚ました。辺りは薄暗かった。男は機内を見回した。女がぐったりと倒れている。死んでしまったのだろうかと、男は女の手を取り脈を診ると動いていた。男は女の体を持ち上げ、座席に座らせ、背もたれを倒して寝かせた。 男は機体の扉を開け、外に出てみた。どうやらまだ昼間のようではあるが、木々の枝葉が天を覆っていてほとんど陽は遮られ、薄暗かった。地面には落ち葉などが幾層にも滞積しているようで、足で踏むと深く沈み、水が滲み出た。 飛行機の機体は滞積した落ち葉の層に半分くらい埋まり、惨めな姿を晒していた。男は深く大きなため息をついた。機内に戻った男は女の目を覚ませようと体を揺すったが、女は小さく呻くばかりで一向に気づく様子はなかった。その時、乱れたシャツの合間からその豊かな乳房がわずかに覗いた。男がさらにそのシャツの隙間を開けると、ふたつの見事な隆起が見えた。男は女のシャツを脱がそうとした。しかし、機内は場所が狭く、うまく動けない。男は女を背負い機体の外に出て、滞積した落ち葉の上に女を寝かせた。 男はやや震える手で女のシャツを剥ぎ取った。そしてシャツの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。女の匂いが鼻腔に満ち、男は抑えきれない感情が起きてきた。男は女のふたつの胸の隆起を抑えている下着を引きちぎった。ふたつの美しいやや赤みのある桃色に染まった乳首が露わになった。男は女の下半身に取りつき、スカートを脱がし、そして最後に残った白い小さな下着を足から外した。黒々とした草原の奥に薄紫の女の花があった。 男は機内に取って返し、自分の鞄を持ってきた。そして若い男から買った三点セットを取り出し、女を縛ろうとした。男は機内で見た夢のことを思い出していた。あの夢では女は足まで縛り上げられていたため、足を開かせるのに苦労した。男は女の上半身だけを縄で縛った。 女の呻き声が大きくなった。男は女の頬を片手で押させ、口を半開きにした。そして半開きになった女の口に自分の口を押し当て、舌を入れ、女の唾液を吸った。男と女の唾液が交じり合った。自分の上に覆い被さっている男の重みと口の粘つきにより、女はやっと目を覚ました。しばらくは自分の置かれている状況を把握できず、呆然としていたが執拗に体を貪る男の態度に危機であることを認識した。
「何をするのです」女は男に向って叫び、体を捩り、できる限りの抵抗を示したが縛られているため男の陵辱を止めることはできなかった。男は女の抵抗でさらに欲望が燃えたようであった。女から体を離すと、今度は鞭を取りだし女の左の乳房に振り下ろした。あまりの痛さに女は喘いだ。女の白い乳房は皮下出血を起して赤く染まった。男はさらに女の右の乳房、二の腕、腹そして大腿などを鞭で打った。鞭で打たれた肌は赤く腫れ上がり、女はぐったりとなった。 鞄の中から赤い蝋燭を取り出した男はそれに火を点けた。暗い漆黒の森の中でその蝋燭の炎だけが獣の目のように輝いた。男は蝋燭を女の乳房の上まで持っていった。そして斜めに傾けた。蝋燭から赤い蝋が女の白い乳房に垂れ、赤い斑点を作った。女は呻き声をあげた。鞭でつけられた内出血の痕と蝋の赤い斑点が男の欲情をさらにかき立てた。男は次に乳房の頂点にある美しい桃色の突起物に狙いをつけ蝋燭を傾けた。蝋燭から垂れた蝋は女の乳首を赤く染めた。女は喘ぎ声を上げ、体を捩った。夢で見た光景と全く同じだった。 「どうだ、そんなにうれしいか」と男は女の苦しみに喘ぐ声を聞いて言った。「では、ここはどうかな?」男は女の足元に回り、脚を開かせ黒い陰毛で隠された秘所を露わにして、赤い蝋燭を傾けた。夢の中では脚が縛られていたため苦労したところだと男は内心嗤った。 その時、女は精一杯の力で男の横腹を蹴った。ふいをつかれた男は体の均衡を大きく崩して落ち葉の海の中に横倒しになった。男にとって不幸なことに倒れた時、落ち葉の中に埋まっていた岩に膝があたり、男の膝蓋骨を砕いた。男は苦悶の呻き声を上げた。 女は時を逃がさず、立ち上がり、飛行機の中に飛び込み、後手に扉を閉めた。男は割れた膝を引き摺りながら、蛇のように這い女を追いかけ飛行機ににじり寄ろうとしたが、腐った落ち葉で地面は掴みどころがなく、また滑り思ったように進まない。 「このお返しはたっぷりとしてやる」と男は女というよりはむしろ自分自身に向かって叫んだ。それは自分自身を励ます声だった。しかし、男にとってさらに絶望的なことが起きた。落ち葉の層に半分埋まっている墜落の衝撃で壊れたと思っていた飛行機の機体が動き出し、空中に浮かんだ。 機体はさらに少しづつ上昇を始めた。男は浮かんでいく機体を見ながら、絶望の叫びを上げた。機体はさらに上昇した。樹海の枝葉を突き破り、そして男の視界から消えた。地面に倒れている男の上に飛行機によって折られた木々の枝葉が落ちてきた。 男の手元には下界を出たときの鞄と若い男から買った蝋燭が三本と鞭がひとつあるだけだった。昼間でさえ暗い樹海の中、夜の絶対的な闇を思うと蝋燭三本はあまりにも僅少であった。男は何もなかった飛行機の操縦席と女の「この飛行機の行き先は乗客が決めるのです」という言葉をぼんやりと思い出した。 「ここには木がいっぱいある。せめて縄が残っていればこの地獄から逃れる最後の方法もあったのに…」男はこの暗い森の中、これからずっと孤独に生きていかなければならないことに光を失い、絶望の海に深く沈んでいく自分を感じた。 小さな銀色の飛行機は女の故郷に向けて、青い大空を飛んでいた。木々に囲まれた暗い森からは機体に反射する陽光を見ることはできない。 |