8月20日 横浜〜小浜 この夏は、山陰を旅してみようと思っていた。去年は、山陽だったので、その反対側へという思いがあり、また、妻は山陰地方にいったことがなかったからだ。今回も、懐事情というよりは、自分の好みとして青春18きっぷを使うことにした。 しかし、一日目の宿泊地が難しい。鳥取までいければ、それがベストだし、また、時刻表を調べるといけないこともない。しかし、ほとんど始発の時刻に出発して、到着が20時を過ぎることを考えると、止めた方がいいと思った。できるだけ鳥取の近くで、遅くても18時くらいに到着できるところを探した。候補地として、京都、福知山、岡山、小浜、東舞鶴などがあがった。 このうち、今までの旅行で宿泊したところを除くと、福知山、小浜、岡山となった。岡山はこの中では一番の都会だし、宿泊施設に困ることはないだろう。ただ、鳥取に出るには津山線と因美線を乗り継いでいくことになるが、時刻表で調べてみると、津山−智頭間は朝5時台の列車を逃してしまうと、12時前まで待つことになり、候補から外れた。 鳥取に近く、翌日の行動に一番便利なのは福知山だった。ここも列車の本数は少ないが、岡山に泊ることを考えれば、まだ、ましだった。しかし、ただ泊るだけならいいかもしれないが、僕には福知山という街がよくわからない。まるで、掴みどころがない。それだったら、距離は遠くなるが、前から行ってみたいと思っていた小浜がいいのではないかと思った。朝6時前に家を出れば、17時前に着くから、街歩きを楽しむことが出来る。宿が見つからなければ、東舞鶴まで足を延ばしてもいい。そんなわけで、一日目は小浜まで行くことにした。 5時40分のバスに乗り、出発した。時刻が早いので空いているかと思ったが、やっと座れるくらいの混みようで、朝早くから仕事に向かう人の多いのに驚いた。東海道本線を乗り継いで米原まで行き、駅弁を買って駅のホームのベンチに座り、遅い昼食をとった。この後、北陸本線、小浜線と乗り継ぎ、小浜に着いたのは16時51分だった。 改札を出て、宿の情報を得るため、観光案内所に向かう。観光案内所は、17時までだったが、5分前に着いた。中には感じのいい中年の女性がひとりいた。「小浜市内の宿泊施設のリストのようなものはありますか?」と訊くと、すぐに取り出してくれて、説明を始めた。僕たちができるだけ安いホテルを希望していることを察すると、それに該当するホテルを示し、訊いてくれるという。
「ここなどは、どうでしょう?少し古いですが…」屋号からすると、個人経営のビジネスホテルという感じだ。僕は大丈夫だが、妻が心配である。 「あと、ここは最近できたので、きれいですよ」と始めに勧めてくれたところにより、少し高いホテルを示した。しかし、料金は安い方がいい。迷っていると「それだったら、実際に見てから、決めたらどうです」ということになり、リストだけもらい自分たちで電話をすることにした。さらに、彼女は、リーズナブルな海鮮料理の店も紹介してくれた。 観光案内所をでて、まずは古いが料金はリストに載っている中で二番目に安いホテルに向かった。ここがよくなければ、その次のところにすればいい。道すがら、ダメもとで満室だといわれた料金の一番安いホテルに電話をかけてみることにした。駅からは離れているが、地図をみると三丁町という小浜で昔の町並みの残る地域にあり、返って街歩きには便利だった。観光案内所の女性もきれいといっていたし、ここがとれればいうことはない。 しかし、電話をかけたが誰もでない。少し時間をおいてかけても同じだった。個人経営のホテルのようだから、満室で準備にいそがしいのかもしれない。諦めて歩いていると、僕の携帯が鳴った。出ると電話をかけたホテルからだった。「二人なのですが、ダブルかツインの部屋は空いていますか?」と訊くとダブルならあるという。料金は、観光案内所で聞いた通り、単純にシングルの二倍だったが、小浜は何処でもそうなのだろう。思いがけない結果に喜び、ダブルの部屋を予約して、ホテルに向かった。 若狭湾に面する小浜は古くから鯖の水揚げ基地になっていて、京都に鯖を送る鯖街道の起点になった。そのため、京文化の影響を受け、北陸の小京都と呼ばれたりする。八百比丘尼伝説など、市内にも観光名所が点在していて、街歩きの楽しそうなところだ。今回はわずかな滞在になってしまうが、次はじっくりと見て回りたいと思った。 駅から続くアーケード街が終わると、明治時代の芝居小屋を復原したという道の駅(旭座)の建物が目に飛び込んでくる。開放感のある広い敷地に復原された芝居小屋が建ち、特産品などの販売をしている。この道をさらに進んで行くと、若狭湾に出るのだが、ホテルの向かうため旭座の十字路を左に曲がる。 旭座を過ぎると丹後街道はほぼ一車線の狭い道になり、その両側には古い家々が軒を連ねている。進行方向の左手には山が迫り、その裾野には神社や寺が点在している。道は所々鍵の手になっていて、昔日の面影を残している。三丁町の通りに出て、右折すると予約したホテルがあるのだが、その外観を見て妻は思わず笑い出してしまった。かなり古い建物だったのである。 一昔前のビジネスホテルという感じで、えんじ色の外壁もかなりくすんで見える。フロントは中庭のようになっている内側にあり、中に入るとおばさんが一人、カウンターというより帳場といった方が雰囲気の伝わる受付に座っていた。名前を告げ、鍵をもらい、玄関で靴を脱いで部屋に向かった。三階の部屋まではエレベータはなく、広い階段を上っていく。土足厳禁のため、古いことは古いが、それほど汚さは感じなかった。 部屋の広さは、通常のダブルといった感じだが、ベッドはやや狭く圧迫感を覚えた。風呂とトイレは部屋についていて、ユニットバスではなく、それぞれ独立していた。ただ、風呂の浴槽はタイル張りの床から下についていて、あまり入る気にはならない。妻はしきりに観光案内所の女性の悪口を言い、この分だと食堂もよくないのではないかといいだした。 少し休憩した後、街歩きに出かけた。まずは、ホテルから近い三丁町に向かった。三丁町は狭い路地の両側にベンガラ格子や出格子の家々が軒を連ねるノスタルジックな通りだ。もともとは江戸時代に栄えた遊郭だったそうである。町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。格子窓の家の並ぶ風景の中を歩いていると、旅情をたっぷりと感じることができる。 三丁町を後にして、八百比丘尼が入定したといわれる洞窟のある空印寺に向かった。陽もかなり落ち、涼しい風が時折り吹いてきて気持ちいい。空印寺前の家では玄関先に椅子を出して、涼を楽しんでいるおばあさんがいた。八百比丘尼が入定したとされる洞窟は空印寺に入るとすぐにあった。おどろおどろしい感じかと思っていたが、意外に明るく、アニメタッチの八百比丘尼のパネルもあった。洞窟は意外と浅く、天井と左右の壁は岩で囲われていた。人魚の肉を食べたことにより不老不死になった女性は比丘尼となり、全国を周り、神仏への信仰を説いたという。 僕が八百比丘尼を初めて知ったのは、手塚治の「火の鳥 異形編」だった。この物語でも八百比丘尼は、人々を、時にはもののけを癒すものとして描かれている。わけあって八百比丘尼を殺しに行く男装の侍左近介は目的を達するが、寺から逃れられなくなってしまう。この寺は時空が閉じ、時間がときに逆行する。寺に閉じ込められた左近介は、比丘尼として生きていく決心をするが、やがて、自分を殺しに来る自分の存在に怯えることになるのである。延々と自分に殺され続ける比丘尼に、僕は恐ろしさを覚えたのだった。 八百比丘尼は入定する際、「この椿が枯れたら、私は死んだものと思ってください」といったという。そして、その椿は、今も洞窟の入口に生えている。 空印寺を後にして、マーメイドテラスに向かった。小浜湾に沈む夕日を見たくなったのである。マーメイドテラスは、八百比丘尼伝説にも登場する人魚の像が、海岸に建てられている夕日の絶景ポイントである。小浜湾の背景にみえる大島半島に、沈みゆき夕日は、空を紅く染め、とても美しかった。太陽の沈む早さに妻は、「もう、こんなになっちゃうの」と驚いていた。 きれいな夕日を見ることもできたし、夕食をとりに観光案内所で紹介してくれた海鮮料理の店にいってみることにした。妻はホテルの件もあり、不信感をいだき、あまり乗り気ではなかったが、あまりよくなさそうだったら、他に行けばいいだけのことだ。ホテルもよく考えてみれば、古いというだけで、それほど悪くは無い。 小浜市のメイン通りに建つビルの二階にあるその店は、気取った感じではなく、大衆食堂といった雰囲気だった。鯖の塩焼き定食など、1000円以下で食べられるメニューもあり、貧乏旅行人にはうれしい店だった。観光案内所の女性も、バックパッカーといった雰囲気の僕たちと安いホテルを探していたことからリーズナブルな店を紹介してくれたのだろう。 ふたりとも海鮮丼を注文した。これが美味しかった。甘エビ、イクラ、ウニなどが一番上に乗り、そのしたにイカの細切り、ぶつ切りにされたマグロやカンパチが敷き詰められ、ごはんになかなか到達しないほどだった。魚介類は新鮮そのもので、さらに鯛のあら汁までついて、1000円ちょっとなのだから、たいへん満足した。 このまま街中を歩いて宿に帰ろうかとも思ったが、せっかく海沿いの町にきているのだから、海岸線を歩いて帰ることにした。先程、通ったマーメイドテラスを過ぎ、小浜公園から宿に向かった。夜の海風は気持ち良く、いい気分で旅の初日を過ごすことが出来た。(2018.10.2) ―つづく― |