2007 ペルー旅行記


8.帰国

 クスコから帰って来た僕はまた発熱をした。今までの疲れが一気に出た感じだった。帰国するまで予定はまだ2つあった。ひとつはJさんの名付け親であるオカさんとの夕食会、もうひとつはJさんの友人ハイメとパティとの食事。結局、僕はその2つともキャンセルした。

 クスコから帰って来たその日の夜にオカさんとの夕食会は入っていた。12時にリマの空港に着いたときから、かなりの疲労感を覚えていた。結婚式そして披露宴、その翌日には蒸し暑いイキートスに行って、帰ってきた翌日には寒いクスコに…。肉体的な疲れよりも精神的にまいっていたかもしれない。とにかくゆっくりとしたいという気持ちが強かった。それが発熱の原因だったように思う。

 その日はヒロミを除いて家の人はみんなオカさんの家に行ってしまったので、初めて家の中でのんびりできた。ヒロミが用意してくれたパスタを食べた後は、部屋に戻りずっと本を読んでいた。僕はどうも一日のうちに本を読んだり、音楽を聴く時間を持てないと精神的な疲れがとれないタイプのようなのだ。

 翌日には熱もほとんど下がっていたが、Jさんの友人との食事に行くのは止めることにした。ひとり言葉のわからない人がいると、会話が円滑に進まなくなるだろうし、気心が知れた人たちでゆっくりとした時間を持った方がいいような気がした。いや、いや、ほんとはただ気が重かっただけなのだ。

 Jさんがハイメたちと出かけたのはもう10時近かった。ペルーでは家族での食事を終えた後から遊びに行くことが多いようである。店も8時過ぎから朝まで営業しているところが多いらしい。ハイメは独身だけど、パティは2児の母だから、夕方から外出するというわけにもいかないようだ。この夜、Jさんが帰って来たのはもう3時近かった。飲んだ後、カラオケに行ったという。そして、この一日はペルーで最後の日だった。

 明け方まで眠れずにいたので、起きたのはもうお昼近かった。サチコ、ヒロミ、キョウジ、ジュンコ、ヒデ、タカシ、それに僕とJさんは2台の車の分乗して日本文化会館まで行き、そこで昼食をとった。Jさんはここで日本語を習ったという。メニューも日本食が中心で、ペルー料理もあった。ヒデに連れて行ってもらったのだけど、中庭には玄関脇から続く池があり、錦鯉が泳いでいたりした。ただ、掃除中の廊下の上を歩いてしまったらしく、清掃員に怒られた。

 夕方、僕の母と弟のお土産を買うため、ミラフローレスのアルパカ製品を売っている店までヒロミに連れて行ってもらった。この店はちょっと変わっていて、外の呼び鈴を鳴らして店員さんに鍵を開けてもらい中に入った。じっくりと商品を見られるように予約制なのかもしれない。ふたりにそれぞれ似合いそうなセーターを買った。

 次に民芸品の売っているモールに連れて行ってもらった。ここには多くに店が集まっていた。家で使う砂糖を入れる木彫りの容器と財布を買った。途中でキョウジとヒデが合流して、帰りの車はちょっと窮屈になった。家に帰り、夕食をとった。ペルーでの最後の食事である。

 そして、キャリーバッグに荷物を詰め込んだ。この時一番困ったのはお土産である。お土産といっても僕たちが買ったものではない。他の兄弟やお母さんなどから、日本に住んでいる兄弟、親戚、知人、友人にあてたお土産である。自分たちで買う場合はバッグの容量を考えるが、彼らはほとんどそんなことを考えていないのである。それを見たサチコは「全部持っていく必要ないから」と言ってくれた。さすがに一番上のお姉さんだけのことはある。一番困ったのはJさんのお母さんからのお土産だった。

 Jさんのお母さんは日本にいる親戚ひとりひとりそれぞれにお土産を買っていたのだ。ジーパンにTシャツ、トレーナーなど膨大なものだった。「お母さん、ひとりひとりに買う必要ないのよ。一家族にひとつでいいの!」とヒロミやJさんに言われていたが、何でも過剰にサービスしてしまう性格なので仕方ないと諦めるしかなかった。だけど、結局、全部を持っていくことは不可能なので、お母さんも15日に来日することになっていたので半分は自分で持って行ってもらうことにした。

 しかし、土壇場になって問題が起きた。お母さんの荷物があまりに大き過ぎるのである。自身の着替え、親戚へのお土産などで大型のキャリーバッグふたつになっていた。空港内については車椅子を使用する予定なので、係員の人が全てやってくれるだろうけど、それ以外のところでは自分で運ばなければならなくなる。

 僕たちがペルーから日本へ帰った二日後にお母さんは来日する。したがってJさんの荷物とお母さんの荷物を交換して持っていくことになった。着替えの問題はあるが、2〜3日分なら家に残してあるし、成田から宅急便で送ってもらえれば、翌日には着いてしまう。Jさんが持って行くお母さんの荷物も成田から宅急便で平塚のカズエの家に送ってしまえばお母さんが来日したときにはもう荷物は宿泊先に届いていることになる。そんなこんなしているときにハチャンネネとチアキがやってきた。今日が最後ということで見送るつもりで来たらしいが、帰る支度が忙しくて満足に相手ができなかった。

 リマ発12時30分のアトランタ行きに乗るため、9時過ぎに、サチコ、ハチャンネネとチアキそしてヒデとユタカとジュンコに見送られてヒロミの車で空港に向かった。ヒロミの車には僕とJさんとお母さん、そして荷物はキョウジが持ってきてくれることになった。

 空港には30分ほどで着いたが、荷物を運んでくれるはずのキョウジの車がなかなか来ない。子供たちを自宅まで送った後でこちらに向かうというだから、それほど時間がかかるとも思えないのだけど、待っていると、しかももうチェックインが始まっているとなると焦ってくる。

 ヒロミの提案でとりあえずJさんに並んでもらってキョウジが着いたら僕が荷物を持って合流するということになった。チェックインの列はかなり長くなっているので、キョウジが来る前に順番が回ってくるということはなさそうだ。お母さんも心配そうに外を見ていた。

 キョウジは20分くらい経ってからやってきた。ゲートの中には実際に搭乗する人しか入れないので、僕は大きな荷物をふたつ転がしながらJさんのところまで行った。そうしたら今度はJさんがジュンコに電話をかけたいという。ジュンコはキョウジといっしょに空港まで来るものと思って、別れの挨拶をしていないからそれを伝えたいらしい。さっきから全然列も動かないし、「いいよ」と言った。

 ところが、Jさんが離れたとたん列は急に進み始めたのだ。一気にカウンターが目の前に迫ったように感じだ。列はとぐろを巻くヘビのような状態になっていたため、自分の番が来るまではまだまだ先のことだったのだけど、この時はその状況がよくわからず、とにかく早く戻って来てくれと祈ったが、電話をかけに行っただけにしてはやけに長い。

 15分、20分経ってもJさんは戻ってこない。これはまずいと思って、荷物をそこにおいたままゲートの近くまで走り、そのすぐ外にいたJさんを呼んだ。しかし、彼女には聞こえないようで誰かと話し続けている。さらに大きな声で呼ぶとJさんではなく、その周りにいた人が何事かと思ったのであろう一斉にこちらを向いた。

 近寄ってさらに声を大きくして彼女はやっと気づいた。偶然、大学時代の友人と会って話し込んでしまったらしい。ジュンコに電話をかけることも忘れていたという。列に戻ったが、僕が離れたときからほとんど動いていなかった。ふと外を見ると窓越しにパティとハイメがこちらを見て手を振っていた。

 「行って来ていい?」とJさんは言ったが、僕はさっきのことで懲りたので「チェックインが済むまで列を離れない方がいい」と言った。それでもJさんは「順番がくるまではまだまだだよ。こう回ってこう…」と列を目で追っていたが、「とにかく、チェックインが終わるまでは離れない方がいい」と僕が言い張ったのでしぶしぶ従った。しかし、実際にチェックインできたのは、それから40分近く経ってからだった。そして、さらに心配なことが起きた。飛行機の出発が予定より30分以上遅れるという情報が入ってきたのだ。

 これが日本への直行便なら多少遅れても気にはしないだろうけど、アトランタで乗り換えがあり、その時間も1時間30分ほどしかない。行きでのアメリカの税関のことを考えるととても不安になってきた。もし、飛行機の遅れが原因で乗り換えの便に乗れなかった場合どういうことになるのだろう。同じDELTAだから、こちらが遅れた場合はあちらも出発時間を遅らせるのだろうか?それとも他の便に振替えになるのだろうか?海外というのは心配ばかりで精神的に疲れる。お母さん、ヒロミ、キョウジ、パティ、ハイメ、チャロ、チャロの夫に見送られて僕たちはリマを30分遅れで飛び立った。

 飛行機はアトランタに着き、僕たちは小走りをしたりして税関に急いだ。しかし、そこには往路のような長蛇の列はなく、閑散としていたのである。早く終わりそうな人の後にということでJさんは男性二人組の後ろに並んだ。家族連れよりは人数が少ない分、時間はかからないだろうという判断だったのであるが、その二人に何か問題があるらしく、なかなか順番は回って来なかった。そしてさらにショックなことに、係員がその人たちを連れて何所かに行ってしまった。

 これはどうしたらいいのだろう。このまま待っていた方がいいのか?それとも何所か他の列に並び変えた方がいいのか?あの職員は僕たちが並んでいるのは知っているはずだ。もし当分戻ってこないのなら、他に行くように合図をするのではないだろうか?僕たちはそこで待つことにした。

 数分後、そのがっちりとした黒人の係員は戻ってきた。「Where are you go?」という質問に「Narita」と答えると彼は日本に行ったことがあるらしく、その時の話を始めた。川崎で遊んだことがあるらしい。こうして税関はいたってスムーズに通過でき、成田行きの飛行機に余裕で間に合った。

 日本に帰る飛行機に乗り込んで、やっと重圧から解放されたような気がした。周りは日本人も多く、隣になった女性はペルー人と結婚した日本の女性だった。やはり、次から次へと訪ねてくる親類の人たちに苦労したらしい。ペルーと日本では人づきあいの濃淡の差がかなりあるように思う。日本で希薄になってしまったものが、ペルーでは濃厚に生きていた。

 飛行機は予定の時刻より15分くらい早く成田に着いた。(2007.12.20)


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