木曽路旅行記


その4

 宿に戻ると、宿の主人からお風呂の用意ができていることを告げられた。部屋に入ると、食卓の上には梨が用意されていて、次の間にはふとんがすでに引かれている。そのふとんの引き方を見て、Jさんは慌てた。ふた組のふとんが隙間なく、ぴっちりとくっついていたからだ。寝相が悪いという自覚があるJさんは、ふとんの間隔を空けようとしたのだけど、ふとんの下に敷かれているマットレスがダブルになっていて分けられない。
「困ったね。どうしよう…」
「そんな気にすることないよ。大丈夫だよ」と言っても、何とかしようとまだ考えている。それにしても、ダブルのマットレスなんて、僕も初めてである。そんなJさんは放っておいて、僕は梨を食べ、先にお風呂を頂くことにした。

 お風呂はそれほど広くはないが、檜造りの湯船がまだ新しく、いい木の香りが漂っていた。ただ湯が熱く、後から入るJさんが熱い湯は苦手なこともあり、多少水でうめた。部屋に戻ると、Jさんはふとんを分けることを諦めたらしい。初めて日本式お風呂に入るJさんは不安だというので、僕は浴室に置かれているものなどの使い方の説明をした。

 Jさんがお風呂から上がってきてから、ふたりでお菓子などを食べ、早めに床に着いた。寝相がどうのこうのと心配していたJさんだったが、ふとんに入ったらすぐに寝息を立て始めた。

 朝、早くに目が覚めた。横に寝ているJさんを見ると、暑いせいかふとんがかかっているのは下半身だけだった。不自然なことに、胸のふくらみが肩甲骨のちょっと下辺りにある。どうなっているのだろうと、触ろうかと思ったが怒られそうなので止めた。

こより馬の実演 薄明かりの中、天井板の木目を見ていると不思議な感覚になってきた。Jさんとこうしてふたりで旅行していることが夢のように思われてくる。
 夏の或る時、僕は断られることを前提に
「今度、旅行に行かない?」とJさんに訊いた。彼女は
「いいよ」と言った。僕はまた断られることを前提に
「泊まりでもいい?」と訊いた。彼女はまた
「いいよ」と言った。その過程がまるで魔法のように思えてくる。

 朝の陽は少しづつ輝きを増していく。僕はふとんから這い出し、上半身を起した。横を見るとJさんが眠そうな目でこっちを見ていた。
「顔、洗ってくる」と僕は言って、彼女の額から前髪の辺りをやさしく三回ほど撫でてから、一階に下りた。

 顔を洗い、歯を磨き、トイレを済ましてから部屋の戻ると、Jさんはすでに着替え終えていた。ふたりでふとんを片付け始めて大笑いしてしまった。ダブルと思われたマットレスは何と普通のマットレスをわざわざ横に2つ合わせて引いていたのだ。
「たぶん、新婚さんだと思ったんだろうな」と僕が言うと
「そうかもね」とJさんも笑った。ただ、宿帳には本当の年齢を書いているから、やっと結婚できた中年の男女と宿の人も思い、気を使ったのかもしれない。

 民宿や旅館の朝食というものは普通それほど大したものではないが、宿の主人の呼ばれて一階の食卓についた僕たちはその品数の多さにびっくりしてしまった。Jさんは、何品あるのか数えている。

 諏訪湖で取れたという小魚、ヒジキ、きんぴらごぼう、目玉焼きにウインナーにサラダ、味付け海苔、煮豆、3種類の漬物等、全部で10皿もあった。日本では小皿で多くの種類の食べ物がでることに、Jさんは感動していた。

 さらにJさんを喜ばさせたのは目玉焼きの形だった。僕は「何か変な形だな」としか思わなかったのだけど、Jさんは「オウー」と言い、さらに
「これハートの形になっているよ。気づかなかったの?」と言った。どれどれと僕の目玉焼きは半分くらい食べてしまった後だったので、Jさんの目玉焼きを見てみると、確かにハートの形になっている。
「やっぱり、新婚さんと思ったのかな?」
「いい年して、やっと結婚できたカップルとでも思って気を利かせてくれたのかもね」と2人で笑いあった。

 朝食を取り終えた後、宿の主人に南木曽行きのバスの時刻を調べてもらったら、11時過ぎまでないことがわかった。まあ、それだったらその時間までゆっくりと妻籠を歩こうと思い、9時ちょっと前に宿を出た。

 まず、Jさんはお土産をいろいろと見て周った。木曽は何といっても木工品が中心で、箸やこけしなどを買った。そして、檜笠やこより馬の実演を見たりした。こより馬の実演ではJさんがこよりをよるのに挑戦したのだけど、なかなかうまくいかなかった。おばあさんに「ハンドクリームをつけているでしょ?」と指摘され、実際にその通りで「後で練習してね」と短冊状になった和紙を貰ったりした。

 昨日に輪をかけたような好天の下、僕とJさんは妻籠宿を周った。所々で通り掛かりの人に「写真を撮ってもらえますか?」と声をかけ、想い出をひとつ、ひとつと記録しながら…。

 気づくと、フィルムの残数は1枚になっていた。
「泊まった民宿の前で撮ろう」僕たちはS屋に向かった。間口で声をかけ、鰻の寝床のような奥行きの深い家屋の中に入っていくと、宿の主人がいた。
「すいません。この宿の前で写真を撮りたいのでシャッター押してもらえますか?」
「いいですよ」と宿の主人は気さくに外に出てくれた。
「仕掛けをしないとね」と彼はいい、店先の雨戸を全て閉じ雰囲気を作ってくれた。
「それじゃー、押しますよ」と言ってから、構図をちょっとの時間考えて
「いいですか」ともう1度彼はいい、シャッターを切った。(2006.10.14)

妻籠宿

― 完 ―


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