スタンド バイ ミー

 子供の時から何処かに行くのが好きだった。友達と「旅」という遊びをよくやっていた。その頃一番仲がよかった友達が自転車に乗れなかったので、「旅」の手段はもっぱら「歩き」だった。その仲のよかった友達はSくんといったが、だいたい彼と2人でぶらっと出かけていた。

 目的地が決まっていることはほとんどなく、行動のルールだけ決めて何処に着くかということを楽しみにしていた。例えば今日は交差点では必ず右折するとか決めて歩いて、出発地点に戻ってしまうこともあった。家の近くに呑川という川が流れていて、この川は洗足池という池から流れているという噂があったので、川を遡って上流に向って歩いたこともあった。噂は嘘だった…

 ただ、目的地が決まっていないため、「旅」が続いてしまって家族を心配させたこともあった。家の近くを東急池上線という電車が走っていたが、ある日この線路沿いをずっと歩いて行こうということになった。この時は始め4人で出発したがあまりの単調さに1人減り、2人減り、最後はSくんとぼくだけになってしまった。それでも、ぼくらは歩き続けた。そして終点の五反田まで行ってみようということになった。

 しかし、洗足池という駅についた時点で時計は4時を回っていた。これ以上は無理ということになりぼく達は帰ることにしたが、電車賃を持っていなかった。歩いて帰らなければならなかったのだ。ぼく達は帰路も全く同じ距離を歩くという至極当たり前のことを全く考えていなかった。

 家路につく頃には陽は大きく西に傾き暗くなり始めていた。帰路はあまり話しをしなかったように思う。やがて太陽は完全に沈み、夜の闇がまわりを包んだ。Sくんはどうだか分からないが、ぼくは何故か楽しかった。恐らく独りだったら心細く不安な気持になっていただろう。ぼくは今日中に家に着くのは無理のような気がして、この辺りの家に理由を話して一晩泊めてもらおうと提案したがS君に反対された。

 頭に思い浮かぶのは夕飯のことばっかりだった。カレーライスとかハンバーグなどが頭に次々と浮かび、そして消えた。家人は途中で帰った友人から事情を聞いたらしく、途中まで向かいに来てくれた。

 家に着いた時は8時を回っていた。当時8時過ぎまで外で遊んでいるということは小学生だったぼくには異常な事態であった。しかし、家ではあまり何も言われなかった。ただ、Sくんの両親は今回のことを重大に受け止めていたようだった。

 小学校時代ただ1回、予定を立てて「旅」したことがあった。それは多摩川の最初の1滴を見に行くというものだった。スティーブン・キングの原作を映画化した「スタンドバイミー」は死体を探すために友人4人で旅に出る話だが、ぼく達は多摩川の最初の1滴を見るため友達4人とひたすら多摩川を上流に向った。

 ただ、前のことがあったのでSくんの両親とお昼になったらそこから先には進まず引き返すという約束をさせられていた。ぼくらはまず多摩川の河原まで歩き、そこから多摩川の土手を上流に向かってひたすら歩いた。この「旅」は楽しかった。友達がかぶっていた帽子に鳥のフンがかかったり、冗談をいい合ったり、そして普段あまり話さない将来についての深い話をしたり…。

 ぼくは「旅」の前に足にけがをしていてまだ糸が抜けていなかった。だけど、歩く分にはほとんど影響はなかった。何より友達と歩いている楽しさが足のけがのことを忘れさせていたのかもしれない。

‘多摩川の最初の1滴’を見ると意気込んで出かけたが、お昼の時点で狛江市くらいまでしかいけなかった。だけど、それで十分だった。河原で各自持ってきた母親が作ってくれたお弁当を開けて食べた。お昼を食べ終わると、みんなで持ってきたボールでキャッチボールをやったり、川の中に入ったりした。ぼくはまだ足に糸が入ったままだったので足をビニール袋で覆って輪ゴムで止めてから川に入った。そして約束通りそこから帰路についた。

 帰路は何となく気だるい感じだった。行きはみんなわいわいやっていたが、帰りはみんなあまりしゃべらなかった。黙々と歩いているとS君のお父さんが自転車で途中まで向かいに来ていた。ぼくらは途中で適当に休憩しながら、ゆっくりと歩いた。

 それから10数年後、別の友人とほんとに多摩川の最初の1滴を見ることになるなんてこのときは想像もしなかった。

 中学生になると友達が変わってきた。Sくんとは違うクラスになったせいもあるだろうが、面白いと思う基準が違ってきてしまったようでだんだんと遊ばなくなっていった。そして「旅」という遊びをすることはなくなった。

 中学の友人達とは自転車を使い、いろいろなところにいった。だけど、それはぼくが小学生の時、体験したものとは違っていた。もう、再び「旅」の楽しさを体験することはなかった。(2003.5.21)


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