孝行したいときに親はなし

 母親の具合の悪かったことを書いたら、数人の方からメールが来た。どれも温かいもので、母のことを心配してくれていた。その中で「孝行したいときに親はなし」という諺の引用されたものがあった。この年になっても親孝行どころか、逆に心配ばかりかけている自分には耳の痛い諺だが、何となくこれは教訓を言っているのではなくて、状態をただ表現したものではないかと思えてきてしまった。

 この諺はもちろん前から知っていた。そして「親の生きている間に孝行しなさい」という教訓をいっているものだとずっと思っていた。しかし、何故かわからないが、ふと「孝行したいと思ったときには、親はいないものだ」という状態を淡々と述べているのではないかと感じた。親のありがたさが、多少でもわかるのはそのくらいの年齢にならないと無理かもしれないと思えてきたのだ。

 ネットで調べてみると、どうも後者の解釈の方が正しいようで、「親の生きている間に孝行しなさい」を意味するものとして、「石に布団は着せられぬ」という別の諺があるようだ。ここでいう石とは墓石のことで、墓石にいくら布団をかけても意味はないということである。

 ‘孝行したいときに親はなし’逆に考えれば、親のありがたさは亡くなってからわかるものだということをいっているようにも思えるが、親孝行などする必要はないという文章を読んだことがある。安部譲二さんのベストセラーになった‘堀の中の懲りない面々’である。

 爺さんは最後にこんな、なんともいえないようなことを言ったのです。
 「あのな、親孝行なんてことも、しないだっていいということさえ、誰も知らんのだ」
 ヤヤッと、それが常日頃私の気を重くしていることだったにしても、思わず首を突き出してしまったのは、どうにも情けないことでした。
 「親孝行なんて、誰でもとっくに一生の分が充分にすんでいるのに、誰も知りはしない。誰でも、生まれた時から五つの年齢までの、あの可愛らしさで、たっぷり一生分の親孝行はすんでいるのさ、五つまでの可愛さでな」

 この文章を読んだとき、自分も救われたような気になったが、確かにある一面の真理が含まれているのかもしれない。親孝行というものを突き詰めて考えていくと、その最大公約数として心配をかけないということになるような気がする。 しかし、親に心配をかけない生き方が本人にとっていいのかというと、そんなことはない。時には、親の反対を押し切ったり、望まないことをしなくてはならないこともある。

 僕の場合でいえばバイクに乗るのは親としては嫌だろし、正社員を辞めることには絶対に反対だったはずだ。北海道にバイク旅行しているときなど、母は毎日のように仏壇に祈っているらしい。しかし、だからといってバイクを止めるつもりはない。

 バイク旅行で思い出したが、以前、北海道をツーリングしているとき、今の僕と同じくらいの息子さんとその母親が車で旅行している光景に出合った。確か白老の港だったと思うが、息子は母の手を引いて、モニュメントのところまで行って海を見ながらいろいろと説明をしていた。その光景を見て、羨ましいと思う反面、自分にはまず無理だろうなと思った。恥ずかしいのである。もう少し年を取れば、或いは恥ずかしくなくなるのかもしれないが、今はできそうにない。

 5歳までに一生分の親孝行をしているといっても、心に引っかかるものはある。その引っかかるものを、少しでも和らげるために今の僕にできることといったら、妻と実家に遊びに行って母といっしょに夕食をとることくらいかもしれない。(2008.10.10)




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