この欄で鍵和田ゆう子先生の作品その他について書く機会をいただいてから、随分と時間をもらったのだが、今の時点でさえ、どう書けばよいか迷っている。
ゆう子先生の主宰誌「未来図」は昨年五月に二五〇号を迎えたが、その記念号にて鈴木俊策氏が「俳句が日常にあるうえ日常の行動範囲が広いから(中略)手が
かりが多すぎて、全体像の捉えどころに迷う」と述べている。まったく同感だ。現在進行形のものを俯瞰するには、私は余りにも力量不足だが、せめてその片
鱗を?もうとの試みは、実作の上でも貴重な体験と思い直して稿を進める。
ゆう子先生の最近の著作を見ると、句集としては『季語別 鍵和田ゆう子句集』(既刊の全句集を収録、)監修なさった本では『花の歳時記』(全四巻)と、季
語に焦点をあわせている。もっとも、これまでも初心者向けの著書の中で季語の役割について触れておられるし、角川「俳句」での座談会を纏めた『名句に学
ぶ俳句の骨法』上下巻でも何章かに亘って季語について語っているので、今回の出版はそれらの実例としての集大成でもあろう。
私たちは様々な俳句へのアプローチの中で有季定型という行き方を選んで作句しているわけだが、十七音のうちの貴重な何文字かを費やす季語を、どのよう
に位置づけるのかは大きな問題である。「未来図」は「作者の生の実感を自分の言葉で詠う」ことを掲げているが、それは季語や季節感を後回しにすることで
はなく、むしろ季語を中心に置くことによって俳句としての質は高くなるのだと思う。ゆう子作品は、「情感と知性のバランスがとれている」と評されるが、季
語から拡がる作者の内的世界を過不足なく表現されているからだ。言い換えれば、情感を季語に託し、季語によって思いを述べているのだ。
入門書『俳句・季語』では、実作における季語の働きを四つに分類し、それぞれ先人の名句を引いて解説している。俳句を作るときよもやこの中のどれに該
当するかを考えながら作るわけではないが、作品の側から振り返れば、どの項目もゆう子先生自身の作句の姿勢を解りやすく教示している。既刊の最新句集『風月』
から、例示してみよう。(作品によっては幾つかのカテゴリーにまたがっているかもしれないが、論の進行の関係で、より当てはまると思われる方に分けてみた。)
@「季語をテーマにする」詠み方
湖氷るゑくぼのごとく水残し
寒牡丹夕日抱かんと蕊ひろぐ
噴水の同じ高さを怖れけり
だだつ子のごとくかりんのまろびをり (かりんは漢字表記)
A「季語に触発される」詠み方
ゆさゆさと桜滝なすうつごころ
石に座しかわく心や秋の蝉
秋思こぼるる風紋の密なれば
渦潮を心に墨を磨る夜かな
B「季語と他のものを取り合わせる」詠み方
繭玉へ水かげろふの及びけり
古墳より大き鳥発つ雪解風
うつし夜の木の実つぶての平家塚
若布寄す銹びしレールは海に尽き
C「季語を象徴的に使う」詠み方
雪吊りの縄のささくれ遠き飢ゑ
噴水の意志の真つ白被爆の地
石蕗枯れて絮を放さず国憂ふ
稔り田の湖国にあれば齢濃し
また、付記において、現在では通年目にすることから季節感を失った事物、現在の感覚ではどうしてその季になるのかわかりにくい事物を歳時記から削除・変更することには反対だと述べている。
逆に、本来の季節を確かめることができるし、旧暦とのずれを認識することでその季語の根底に流れている伝統的な美意識を感じる手がかりになるからであるというのがその理由だ。さらに『風月』
あとがきには、旅吟などによって、その季・その土地でなければ体験できなかった季語について「心身を通して季語の本意・本情を知り得たよろこび」というくだりがあり、いかに季語を大切に扱っ
ているかがうかがわれる。
『花の歳時記』全四巻において野の花や草の花などの見過ごしてしまいがちな花を取りあげているのも、むやみと季語を掘り返すことが主旨なのではなく、根底にあるものはおなじ「よろこび」で
あろう。山野の草花によって季節を知り、また目に入った花が実作者の心をゆさぶるときその名を知ることができれば、作句の可能性が拡がるということだろう。
以上、思いつくままに論を進めてきたが、覚書の域を出ず、また中途半端な展開に終わることをお許しいただきたい。なお、ゆう子俳句の全体像を垣間見る手掛かりとなり、あるいは皆様の作句の
参考になれば幸いである。
季語との出会い(鍵和田ゆう子試論)を拝読。鈴木俊策氏がいわれる「俳句が日常にあるうえ日常の行動範囲が広いから・・」の一語に尽きる。未来図は「作者の生の実感を自分の言葉で詠う」の理念ゆえに、情感を季語に託し、季語によって思いを述べているを実践されている。
2004年3月27日の
「一句鑑賞」の文中で、「自分の感情を優先させるのではなく、季語を第一に、大切に扱うこと」と真帆さんは書いておられる。まさにその通り。
「鶴啼くやわが身のこゑと思ふまで」ゆう子 この作品は季語に触発されたものの名句であろう。荒崎に吟行されたときの先生の思いがひしひしと伝わってくる。この句碑の除幕式の直会後の吟行でも一番最後まで鶴に対峙されて、耳をかたむけておられた先生が印象深い。句帳に俳句を記されておられた。一期一会と思い、機を見て言葉をかけたつもりが、大失態。もう時効だろうからご紹介します。
私はお祝いに、失礼をかえりみず一句。
鶴啼くや一期一会の除幕の日 雅司
この俳句を名刺にしたためてご挨拶した。 先生にも喜んでいただけたが、間が悪く先生はいま出来たばかりの俳句を思わず逸してしまわれたようだ。先生はあとで思い出されたに違いないが(そう思わないとおわびの仕方もない)・・。その日の出来事が句碑の作品とかさなる思い出となっている。
先人が残した季語は生活の歴史。そういう生活季語が消えていくことはしのびない。歳時記にとどめて俳句の財産としたいものだ。
旅吟はその土地に対するあいさつでもあるし、ふれあいでもあろう。また真に自分を発見する時間でもあると思う。出会いの心を大切にしたいものである。