「北海道の旅」に寄せて
俳句をどの時点で作品として手離すのかについては、作者の考え方も読者の受け取り方も様々で議論の対象になるところだが、今回この作品群を全句掲載させていただいたのは、
作者自身にとってのこれらの作品の価値を重視したかったからだ。
百句という句数を自分で納得のいく形でまとめようとしたら何年掛かるだろうか。
江戸元禄期に流行した「矢数俳諧」で井原西鶴が一昼夜で23500句という記録を樹立したという。私は浅学でその折の句を見たことがないのだが、西鶴作として取り上げられることが少ないのは、
一種の余興としてただ句の数だけを競うためのものだったからなのだろう。ひとところに籠っての作句だから頭の中だけで構築した観念的な句や、機知句、戯れ句も多くて鑑賞するに値するものは余りなかったのかもしれない。
実際、自分で句を作るときも歳時記などから季語を抜き出してイメージを拡げようにもなかなかうまく作れないものだし、そうして作った句は読む人が読めば体裁を整えただけの句だとすぐに見破られてしまう。
私はとても寡作なので作品の質を云々するまでもなく、とてもこの句数をひとときにまとめる事は出来ないだろう。それを、4日間でまとめ上げる集中力に驚いた。さらに付け加えれば、この旅は吟行のみを目的としたものではなかったようだ。
旅の記録なので、同じ季語が多用されたり似たような情景が多かったり、地名や名物などに頼った句も見受けられるが、それも句作にシフトし、掴み取ったなにもかもを零さぬようにという姿勢の表れといえるだろう。記念写真やスチール写真とは違った意味で
スナップ写真にはスナップ写真のよさがあるに違いない。
旅で出会った土地、物、景色、そして懐かしい知人。それらが作者に「俳句という形で残したい」という気持ちを喚起させ、作者もそれを素直に誠実に書きとめていった。まさによい旅をされてきたのだなと、うらやましく思った。
最後に私の好きな句をいくつか。
病室に見舞ふ旅人よななかまど 山下雅司
マリモ棲む湖底の秋も人の世も
啼く鴎飛び行く鴎秋の港
湿原の板の階段草紅葉
丹頂鶴の立ち姿みし秋思かな
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