世界には実に多くの宗教が存在する。
それらの宗教を興した教祖の生まれた日を記念して祭日とし、盛大な祭を営んでいる。
しかし、キリスト教にはそれらのすべて宗教が持たない祭りがある。
それは復活祭(イ−スタ−)である。

他宗教とキリスト教との根本的相違が実にここにこそ存するのである。
ローマの信徒への手紙第1章2節より3節までを注目いたしたい。
「この〔福音〕は、
が前もって聖書の中に預言者たちを通して約束されたもので、
ご自分み子に関するものです。
このかたは、彼の人間性について言えば、ダビデの子孫としてお生まれになり、
神聖な
み霊による〔彼の神性について言えば〕、死者の中からの復活によって、
力をもって<顕著(けんちょ)な、凱旋的(がいせんてき)な、奇跡的なしかたで>、
公に
神のみ子ととなえられるようになられたかた
すなわち、私たちの
主イエス・キリストなのです。」(詳訳)
この現実こそは、
他宗教にはなく、キリスト教の中にのみ存するユニークな、すばらしい現実なのである。
この現実、永遠に生けるキリストご自身。
それは単なる哲学、神学、思想ではなく、
それをはるかに超越する、真に生ける実在そのものなのである。
キリスト教が復活の生けるキリストを持たないなら、
仏教、印度教、回教、ユダヤ教と、もはや大差はないこととなる。
生けるキリストこそは、キリスト教のいのちそのものなのである。
生けるキリストとの出会いを、
全人格的に体験し、
キリストの現存をうちに持ち、
神のいのちに生きることのうちにこそ、
キリスト教のすばらしさ、ユーニクさそのものが存在するのである。
息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ』」
復活のキリストは、今や新しい人類の創造者であることを示されたのである。
聖霊を人に吹き込み得るものは神であることを啓示されたのである。
「最後のアダム(キリスト)は
命(ゾーエー)を与える霊となった」(コリントの信徒への手紙一15・45)
としるされている通りである。