〜イスラエルの回復は新天新地への序曲〜


「シオンは産みの苦しみをなす前に産み、その苦しみの来ない前に男子を産んだ。
だれがこのような事を聞いたか、だれがこのような事どもを見たか。
一つの国は一日の苦しみで生まれるだろうか。
一つの国民(くにたみ)はひと時に生まれるだろうか。
しかし、シオンは産みの苦しみをするやいなやその子らを産んだ。」(イザヤ66・7〜8)
イスラエル民族は、世紀の流れを通じて、不滅のビジョンを抱き続けてきた。
その第一のものは、約束されし聖なる地、乳と蜜の流れる父祖の郷土に、
ユダヤ国家を再建することのビジョンである。
その第二は、聖なるシオンの地に、破壊された神殿を再建し、
祭政一致の神の国をこの地上に建設することであり、
その第三は、ダビデの子であるメシヤの来臨を仰ぎ、
律法はシオンから出、神のことばはエルサレムから出る、
とのイザヤ預言の実現・成就を見ることであった。(イザヤ2・3)
イスラエル民族がいかなる苦難、迫害にも耐えぬき、奇跡的に生き続けてきたのは、
実にこのビジョン、希望を抱き来たりしゆえである。
1948年5月14日、父祖の郷土、聖なる約束の地にユダヤ民族の国家を樹立し、
2000年間の久しきにわたり抱き続けた不滅のビジョンを実現したその時、
建国の父ダビッド・ベングリオンが、その独立宣言の中で、
「ユダヤ民族はイスラエルの地に発祥した。
彼らの精神的、宗教的、民族的特性はこの地で形成された。
ここで独立を達成したのである。
民族としても、また人類にとっても重要な文化をここに創造し、
永遠の書、聖書を世界に与えた。
力によって追放されながらも、
ユダヤ民族は、彼らが散在するあらゆる国々にあって、
この父祖の地への忠誠を失わず、いずれは帰還し、
祖国の政治的自由を再興しようとする祈りと待望を抱き続けてきたのである。
このような歴史と伝統の絆(きずな)に駆(か)りたてられて、
幾世代もの間ユダヤ人は、父祖の郷土に彼らの祖国をよみがえらせようと努力し、
独立の達成に献身したのである」と語ったことばが、ユダヤ民族の心情を吐露している。
彼らのうちに燃えあがったシオンへの愛、信仰、ビジョンは、
もはや単なるビジョンではなく、ついに現実となったのである。
この終末におけるイスラエル国家の再建は、
預言研究の上で特筆大書すべきものであり、1948年という数字は、
終末における神の経綸上、画期的な意義を持つものである。
イスラエルの回復には二段階がある。
その第一段階は、イスラエルの国家的回復であり、
第二段階は、イスラエル民族の霊的回復である。
イザヤ預言66章7節及び8節にそのことがしるされている。
それはまた、エゼキエル書37章においても預言されている。
「わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。
見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。
わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、
息(聖霊)はその中になかった。」(エゼキエル37・7〜8)
この預言は、あきらかにイスラエルの国家的回復についてである。
「時に彼はわたしに言われた、
『人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。
主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、
彼らを生かせ。』
そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。
すると彼らは生き、その足で立ち、
はなはだ大いなる群衆となった。」(エゼキエル37・9〜10)
これこそは、終末におけるイスラエル民族の霊的回復であり、
ヨハネの黙示録にしるされている、14万4千人のイスラエルが聖霊を受け、
御名によって印されるとの預言の成就である(ヨハネの黙示録7・2〜4)。
今一度、イザヤ書66章7節に帰ろう。
「シオンは産みの
苦しみをなす前に産み、その苦しみの来ない前に男子を産んだ。」
すなわち、イスラエルが国家として再建されるのは、
その苦しみの来ない前であるという点である。
その「苦しみ」とはエレミヤ書30章7節にしるされている「ヤコブの悩みの時」である。
それはイスラエル民族が経験する歴史上最大の患難を指している。
ダニエルもまた預言し、
「国が始まってから、その時にいたるまで、
かってなかったほどの悩みの時があるでしょう」(ダニエル書12・1)
と言っているところのものであり、
イエス・キリストご自身も、「その時には、世の初めから現在に至るまで、
かってなく今後もないような大きな患難が起こるからである。
もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。
しかし、選民(イスラエル人)のためには、
その期間が縮められるであろう」(マタイ24・21〜22)と語られし大患難時代のことである。
以上の預言によって、イスラエルが国家的に回復されるのは、
患難時代の前であることがわかる。
(イスラエルの国家的回復は、すでに1948年5月14日実現した。
では、第二の民族的霊的回復はいつ起こるのであろうか。
「一つの国民(くにたみ)はひと時に生まれるだろうか。
しかし、シオン(イスラエル)は
産みの苦しみをするやいなや
その子らを産んだ。」(イザヤ66・8)
イスラエル民族が,聖霊の革命によって民族的に新生し誕生するときは、
ヤコブの悩み、患難時代に入るやいなやである。
この事を知っておくことは、極めて大切である。
イスラエルの救いを使命とし、
イスラエルの民俗的回心を祈っているわれらにとり、一層それは大切なことなのである。
この秘儀を知らないなら、イスラエルのためにいくら祈っても、
彼らは救われないではないかと失望するものが起こり得るからである。
預言者ゼカリヤも、ダビデの家およびエルサレムの住民に聖霊が注がれるのは、
エルサレムが諸国民によって、
持ち上げられる直後であることを示している(ゼカリヤ書12・10、13・1)。
ここで、イスラエル民族が抱き続けた第二のビジョンについて語りたい。
かってソロモン王がエルサレムに建設した壮大な神殿、
その破壊された神殿を再建すること、これである。
それゆえに主は、イザヤ預言66章の冒頭において、
その問題に触れてかくのごとく語られたのである。
「天はわが位、地はわが足台である。
あなたがたはわたしのためにどんな家を
建てようとするのか。
またどんな所がわが休み所となるのか。」
このみことばに留意すべきである。
このみことばはあきらかに、イスラエル民族の希望と主ご自身の望みとの間に、
大きなギャップが存在していることを示している。
ユダヤ民族はあの壮大な神殿を誇っていたのである。
主イエス・キリストの弟子たちすらもその例外ではなかった。
「先生、ごらんなさい。なんというみごとな石、なんという立派な建物でしょう。」(マルコ13・1)
人間は、とかく外観や人数によってそれを評価し、自己満足するものであるが、
神はそれによっては決して満足されることはない。
神の求め給う神殿とは、「キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。
このキリストにあって、建物全体が組み合わされ(ユダヤ人と異邦人)、
主にある聖なる宮に成長し、
そしてあなたがたも、主にあって共に(ユダヤ人と異邦人)建てられて、
霊なる神のすまい(神殿)となるのである。」(エフェソの信徒への手紙2・20〜22)
「キリストがそうなさったのは、水で洗うこと(聖霊の聖化)により、
言葉(いのちのことば)によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
また、しみも、そのたぐいのものがいっさいなく、
清くて傷のない
栄光の姿の教会(エクレシヤ)を、
ご自分に迎えるためである。」(エフェソの信徒への手紙2・26〜27)
頭(かしら)なるキリストと彼の神秘体である教会から成る、
全的のキリストであるエクレシャの完成、神の栄光に輝く不滅の教会、
真正の神殿をこそ喜び給うのである。
「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、
へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす。」(イザヤ57・15)
神が求め給うもの、神が喜び給うものは、
へりくだり心砕け、神を畏敬し、神を神として信じ、神を一切に越えて愛する心である。
「わが言葉に恐れおののく者である。」(イザヤ66・2)
マリヤのごとく、「わたしは主のはしためです。
お言葉通りこの身になりますように。」(ルカ1・38)
みことばに恐れおののく者とは、かくのごとき人のことである。
神を信ずる人とは、みことばを信ずる人のことである。
神を愛する人とは、みことばを守り、実行する人のことである(ヨハネ14・23)。
真に謙遜な人。
みことばを確信して疑わない人。
このような人々のみが、真実な意味において神の期待を満たし、
みことばの実現のために真に献身するであろう。
かくのごとき人々のみが、神の経綸に参与し、
また神の預言の実現・成就のために祈り、いのちをかけるであろう。
ユダヤ人が抱き続けてきたビジョンの最後のものは、
ダビデの子である栄光のメシヤの来臨である。
「わたしは・・・・・・のがれた者(残りのものであるイスラエル人)を
もろもろの国・・・・・わが名声を聞かず、
わが栄光を見ない遠くの海沿いの国々(はるかなる異邦人世界)につかわす。
彼ら(メシヤに出会い聖霊に充満されしイスラエル人)は
わが栄光をもろもろの国民(くにたみ)の中に伝える。」(イザヤ66・19)
イスラエル民族がメシヤと出会う日は切迫している。
その日、その時はいと近いと確信するものである。
彼らはその刺した方(キリスト)を見るその時(ゼカリヤ12・10)、
かのパウロがダマスコ門外において、栄光のキリストに出会い、
一瞬にして回心せしごとく、民族的に回心するのである。
彼らはメシヤの栄光のうちに神を見るであろう。
彼らは神との出会いにおいて、神の顔を受けとり、神の栄光を反映するものと変容される。
彼らは主ご自身より世界宣教に派遣される。
しかし、ユダヤ教を伝えるのではなく、キリスト教を伝えるのでもない。
「彼らは
わが栄光をもろもろの国民(くにたみ)の中に伝える。」(イザヤ66・19)
存在そのものをもって、神ご自身の栄光そのものを伝えるのである。
イスラエル民族がメシヤと出会う日は切迫している。
その日、その時はいと近いと確信するものである。
彼らはその刺した方を見るその時(ゼカリヤ12・10)、
かのパウロがダマスコ門外において、栄光のキリストに出会い、
一瞬にして回心せしごとく、民族的に回心するのである。
彼らはメシヤの栄光のうちに神を見るであろう。
彼らは神との出会いにおいて、神の顔を受けとり、神の栄光を反映するものと変容される。
彼らは主ご自身より世界宣教に派遣される。
しかし、ユダヤ教を伝えるのではなく、キリスト教を伝えるのでもない。
「彼らはわが栄光をもろもろの国民(くにたみ)の中に伝える。」(イザヤ66・19)
存在そのものをもって、神ご自身の栄光そのものを伝えるのである。
「その日、彼らの神、主は、彼らを救い、
・・・・・・・・・・・・・
彼らは冠の玉のように、その地に輝く。
そのさいわい、その麗しさは、いかばかりであろう」(ゼカリヤ9・16〜17)
との預言が、みごとに実現されるからである。
「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地が
わたしの前にながくとどまるように、
あなたの子孫と、あなたの名は
ながくとどまる。」(イザヤ66・22)
それゆえ、イスラエル民族の霊的回復は、新天新地への序曲となるのである。
「すべてエルサレムを愛するものよ、
彼女と共に喜べ、彼女のゆえに楽しめ。」(イザヤ66・10)
イスラエルの回復を祈りし者、イスラエル民族の霊的回復に参与せし者、
イスラエルの12部族に、生ける神の印を押すことに参与せし者、
そのもののみが、真実の意味においてシオンを愛した者なのである。
「『さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう。』
この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、
聖都(新しき)エルサレムが、神の栄光のうちに
神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。
その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉(へきぎょく)のようであった。
それには大きな、高い城壁があって、12の門があり、
それらの門には、12の御使いがおり、
イスラエルの子らの12部族の名が、それに書いてあった。
・・・・また都の城壁には12の土台があり、
それには小羊の12使徒の12の名が書いてあった。」(ヨハネの黙示録21・9〜14)
「都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。
第一の土台は碧玉(へきぎょく)、
第二はサファイヤ、
第三はめのう、
第四は緑玉、
第五は縞(しま)めのう、
第六は赤めのう、
第七はかんらん石、
第八は緑柱石、
第九は黄玉石、
第十はひすい、
第十一は青玉、
第十二は紫水晶であった。」
(ヨハネの黙示録21・19〜20)
「またあなたがたは、使徒達や預言者たちという土台の上に建てられたものであって、
キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。」(エフェソの信徒への手紙2・20)
12の宝石に関しては奥義的啓示が秘められている。
出エジプト記39章にしるされている、祭司が着用するエポデにつけられた12種の宝石が、その神秘を解明する鍵となる。
「その中に宝石四列をはめた。
すなわち、紅玉髄、貴かんらん石、水晶の列を第一列とし、
第二列は、ざくろ石、るり、赤縞(しま)めのう、
第三列は黄水晶、めのう、紫水晶、
第四列は黄碧(こうへき)玉、縞めのう、碧玉であって、
その名と等しく12とし、おのおの印の彫刻のように、12部族のためにその名を刻んだ。
またひも細工にねじた純金のくさりを胸当(エポデ)てにつけた。」
(出エジプト記39・10〜15)
ヘブライの黙示文学の特色は、その神秘性をすべて象徴をもって表現することにある。
旧約聖書においてそれを代表するものは、エゼキエル書とダニエル書であり、
新約聖書においてはヨハネ黙示録である。
それゆえに、その黙示文学における象徴的証言を文字通り解釈することは、
大きな危険と誤りを犯すこととなるであろう。
詩聖ダンテが、天界を12段階に区分したのは、
この12種の宝石からインスピレーションを受けているのであり、
メシヤであられるイエス・キリストご自身より、
信仰によって吸収した寵愛の度合い、
キリストとの一致の霊的生活の度合いによって、
キリストへの変容の度合いの差が生じ、
キリストにいかに変容したかの度合いに応じて、
12段階の天界にそれぞれ入れられることを示しているのである。
イエス・キリストの贖罪の究極の目指すところは、
人間を神化し栄光化し、全くご自身のみかたちへと変容せしめることにある。
イザヤ預言の、ヨハネ神学の主要テーマは、人間の神化、栄光化である。
「これらのことをあかしするかたが仰せになる、
『しかり、わたしはすぐに来る。』
アァメン、主イエスよ、来たりませ。」(ヨハネの黙示録22・20)
あとがき
私達は、人類の歴史の中で今日最も厳粛な時に生きているのである。
旧新約聖書の中にしるされている、終末に関する重大な預言の数多くが、
文字通り急速に実現・成就されつつある。
ことに、イスラエルに対する神の計画が着々と実現されつつあることは、
注目すべきことであり、実に厳粛にたえない。
イスラエルの回復と、イスラエル民族の回心は、終末における主要テーマであり、
メシヤの来臨に直結しているのである。
使徒パウロはそれを「奥義」といっている(ローマの信徒への手紙11・25)