〜キリストの昇天と再臨〜


「弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、
『主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、このときなのですか。』
彼らに言われた、『時期や場所は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。
ただ、聖霊があなたがたにくだる時、
あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、
さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。』
こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、
雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。
イエスの上っていかれるとき、彼らが天を見つめていると、
見よ、白い衣をきたふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、
『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。
あなたがたを離れて
天に上げられたこのイエスは
天に上がって行かれるのをあなたがたが見たのと
同じ有様で
またおいでになるであろう。』」(使徒言行録1・6〜11)
主イエス・キリストの御昇天に関する記事は、
新約聖書に33回しるされており、
キリストの御再臨(再び来られること)に関しては、実に319回もしるされているのである。
「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。
あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、
天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、
またおいでになるであろう。」(使徒言行録1・11)
この聖書の一節は、キリストの昇天と再臨という重大問題を、
明確にリアルに示している点において、極めて注目に値する。
近代主義神学者達は、キリストの昇天、再臨のごときは自然法則に反する故に、
文字通り解すべきではなく、霊的にこそ解釈すべきであると言う。
「キリストの再臨は、信仰者の世界において、しばしば起こる現象である。
臨終の信者が、天開けてキリストの姿を見、平安のうちにねむるがごときそれである」と、
著名な神学者の全集に、歴然としるされている。
イエス・キリストの昇天は、
五百人以上にのぼる多くの人々(コリントの信徒への手紙一15・6)の見ている面前で、
真昼に起こったことであり、
決して幻想でもなく、夢に見たことでもなく、
文字通り厳密な意味において、歴史的現実として起こったことであり、
まして弟子たちがつくり出した神話でもないのである(ルカ24・50〜52)。
キリストの再臨もまた、文字通り昇天の場合と同様、
現実的に歴史的に、近い将来必ず起こるべきことなのである。
「見よ、彼(キリスト)は雲に乗ってこられる。
すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。
また地上の諸族はみな、
彼のゆえに(自己の罪がキリストを十字架につけたことを真に知り)胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン」(ヨハネの黙示録1・7)としるされている通りである。