〜決定的瞬間の時は切迫している〜


「あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。
すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。
なぜなら今は、わたしたちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。
夜はふけ、日が近づいている。
それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。
そして、宴楽(えんらく)と泥酔(でいすい)、淫乱(いんらん)と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。
あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。
肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」(ローマの信徒への手紙13・11〜14)
キリスト時代より今日に至るまでの、
正統信仰に立脚するすべての福音主義者達の最も重大な関心事は、
イエス・キリストの再臨の時は、いつであろうかということであった。
主の弟子達にとって、それは極めて重大関心ごとであったことがしるされている。
「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起こるのでしょうか。
あなたがまたおいでになる時や、
世の終りには、どんな前兆(ぜんちょう)がありますか」(マタイ24・3)と。
その問いに対するキリストの最後の回答は、ヨハネの黙示録第二十二章二十節、
「しかり、わたしはすぐに来る」とのそれである。
すぐにという原語は、急速・迅(じん)速を意味することばである。
花婿(むこ)なるキリストのことばに対して、
花嫁なる教会は、「アーメン、主イエスよ、きたりませ」と
真心より歓喜に溢(あふ)れつつこたえたのである。
愛する兄弟姉妹達よ、あなたがたも歓喜に溢れつつ、感動にうちふるえながら、
一日千秋の思いのうちに、大いなる期待と確信をもって
「アーメン、主イエスよ、速やかに来たりませ」と
日夜待望のうちに熱烈に祈りつつあられるであろうか。
ローマ人への手紙第13章11節を注目いたしたい。
「あなたがたは時を知っているのだから・・・」
ここにしるされている「時」というギリシャ原語は、
KAIROSという語であるが、まことに注目すべき語である。
KAIROS というこの語は、キリストとの再臨と密接に関係した、
決定的瞬間を意味するものである。
著名な神学者であるバルトは、
「それは、過去と未来が静止し、
つまり去りつつある過去と、来たりつつある未来とが静止する、
いまという永遠の瞬間のことである」と解説している。まさにその通りである。
それは、神の救済の大経綸の時の流れの中で、
最も重大にして決定的瞬間、
これ程決定的であり、厳粛である時はあり得ないという、
まことにおごそかな瞬間の時のことであり、
それについてわれわれはよく知らされているのである。
神の啓示における頂点、その決定的瞬間のことである。
それは何とおごそかな時であることであろう。
KAIROSそれは改めて説明するまでもなく、
花婿なるキリストが、
空中再臨され、
ご自身の最愛の花嫁なる清く美しく汚れのない教会を
携挙(けいきょ)される瞬間の時のことである。
イエスは言われた、「その夜、ふたりの男が一つの寝床(ねどこ)にいるならば、
ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。
ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、
他のひとりは残されるであろう。
ふたりの男が畑におれば、ひとりは取り去られ、
他のひとりは残されるであろう。」(ルカ17・34〜36)
この瞬間ほど厳粛な、人間の運命を永遠に決定する時はほかにはあり得ないであろう。
キリスト者であるならば、この厳粛なKAIROS、永遠の決定的瞬間の時についての、
充分な認識を持っているはずである。
人の子の再臨も、ちょうどノアの洪水の時のようである。
ノアの救いの箱舟には、一つの入口があり、
そのドアは人々の救いのために開放されていた。
しかし、ついにその戸が閉ざされる決定的瞬間が来たのである。
大きな戸は、不気味な音をたてながら、ついに閉ざされたのである。
救われる者と、洪水によって滅びる者との、
永遠の運命が決定的に、瞬間的に決まってしまったのである。
KAIROSの意味はこれである。
それゆえに「特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの
眠りからさめるべき
が、すでにきている。」(ローマの信徒への手紙13・11)
「さめるべき時」、この場合の「時」は、時刻という原語であり、
何分何秒、すなわち秒読みの刻(とき)を意味する。
もしあなたがたが、KAIROS、
あの決定的な瞬間的な時に対する鮮烈な認識と自覚のもとに生きているなら、
当然の帰結として、一刻の時をも失うことなく、
「キリスト・イエスにあって神に生きる」
(ローマの信徒への手紙6・11)
充実した霊的生活、キリストのために実り多い宣教活動を営んでいるはずである。
人間は神の啓示によってKAIROS、永遠の決定的瞬間を真実認識するなら、
全ての時間の充実化を計画せざるを得ないはずである。
神の大経綸と直結した、永遠と固く結びついた霊的奉仕に専念するはずである。
「眠りより」、眠っているということは、むなしく時を失っている、
永遠のいのち、神の救いの計画、経綸と何のかかわりもなく、
時間を浪費しているとの意味である。
あなたがたは、本当に神の大経綸に参与しているであろうか、
日々の奉仕において、永遠のいのちの伝達のために、祈り労しつつあるであろうか。
今は眠りからさめるべき時である。
永遠の決定的KAIROSが、すでに秒読みの段階に来ているからである。
今めざめないなら、時刻に間に合わず、乗りおくれ、永遠に悔いるものとなるであろう。
主はかくのごとき人々を、
愚かなる「思慮の浅い人たち」(マタイ25・8)と言われたのである。
花婿なるキリストが再臨され、
花嫁なる教会は携挙(けいきょ)され、
小羊の婚宴が始まった時、
取り残された彼女達は、「どうぞ、戸をあけて下さい」と言うであろう。
しかし、「わたしはあなたがたを知らない」との声が返ってきたのである。
だから、祈りのうちに目をさましていなければならないのである。
まことに「小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである。」(ヨハネの黙示録19・9)
「今は眠りからさめるべき時刻が、すでに来ている。」
霊的暗黒状態、霊的眠りよりさめよ、さめよ!
ローマの信徒への手紙第13章13節〜14節を注目しよう。
「そして、宴楽(えんらく)と泥酔(でいすい)、
淫乱と好色、
争いとねたみを捨てて、
昼歩くように、つつましく歩こうではないか。
あなたがたは、
主イエス・キリストを着なさい
肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」
この2節の聖書のことばは、
アウグスチヌスが回心したあのときに聞いた神のことばである。
「とりて読め、とりて読め」と。
彼はただちに聖書を開き、この2節を読んだ。
「わたしはこの先を読もうと思わなかった。またその必要もなかった。
この聖句を読み終わるやいなや、
たちまち、私の心は光にみたされ、心をおおっていた闇(やみ)は去り、
私は一瞬のうちに変化された」と語っている(「告白」第8巻12章)。
今、必要なことは、この神による変化であり、このすばらしい変容である。
この13節には三種の罪があげられている。
その第一は暴飲暴食の罪であり、
第二はセックスの罪についてであり、
第三のものは野心、権力闘争、自己主張の罪である。
聖徒たるものはKAIROS、
あの厳粛な永遠の決定的瞬間のやがて来るべきを強く意識しつつ、
よろしくこれらの闇のわざをすて、
今という今こそ、「主イエス・キリストを着なさい」とのみ声に耳を傾けるべきである。
古き人をいさぎよくぬぎすて、主イエス・キリストを着よ!
しかして、だれの目にもキリスとご自身が鮮やかに見えるように反映される、
生けるキリストの証人となるべきである。
キリストのうちに、神に生きる霊的生活によって、
徹底的にキリストに変容されよ!キリストがすべてにあってすべてであられるように。
去りつつある過去と、来たりつつある未来とが静止する、
永遠の決定的瞬間、
KAIROSが、まさに秒読みの段階に突入しているからである。