〜栄光への参与〜


「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、
栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。
これは霊なる主の働きによるのである。」(コリントの信徒への手紙二3・17〜18)

「彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。
そのまことの御姿を見るからである。」(ヨハネの手紙一3・2)
ここに引用した新約聖書の二つのみことばは、極めて重要なことを語っているのである。
キリストの贖罪のみわざの、究極の目指すところは、
人間の神化、キリストへの変容にほかならないことを。
キリストへの変容には、二つの段階がある。
パウロ書簡において語られしものは、聖霊の内住、キリスト現存において、
絶え間なく霊魂になされてゆく、キリストへの内面的変容である。
この内面におけるキリストへの変容は、十字架の聖ヨハネが強調するところのものである。
「私が、あなたの美において、あまりにも変化されて、美においてあなたに似たものとなり、私たちは互いにあなたの美のうちに自分を見るように。
私はすでにあなた御自らの美を所有しているのだから、
私はあなたの美のなかにすっかり吸収されて、あなたの美のみとなり、
それで私は、あなたの美においてあなたのように見え、
私の美はあなたの美、あなたの美は私の美である」(霊の賛歌)と語っているところのものなのである。
かくのごときがキリストへの内面的霊的変容なのである。
ヨハネ書簡において示されているものは、内面におけるキリストへの変容ではなく、
キリストへの全的変容であり、肉体の栄光化・神化について語っているのである。
ヨハネ神学の中心テーマは、キリストへの変容である。
青年時代に雷の子との諢名(あだな)を受けしほどでありながら、
キリストにあって完成され、愛の化身と言われ、
愛において最もキリストに変容された聖人と人々に尊敬されるに至ったヨハネは、
キリストへの変容の大理想を生涯抱き続けたのであった。
「彼(キリスト)が現れる時、
わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。
そのまことの御姿を見るからである。
彼についてこの望みをいだいている者は皆、
彼がきよくあられるように、自らをきよくする。」(ヨハネの手紙一3・2〜3)
彼のしるしたこのみことばが、それを雄弁に証明している。
使徒時代の偉大な聖人達、教父時代の神学者達は、ひとしく人間の神化を強調したが、
現代のある神学者達は、進化論を強調する。
アタナシウス信条によりよく知られている、偉大な神学者アタナシウスのことばをかりよう。
「神の御子はアダムの子らを神の子らとするために、人の子となられた。
・・・・人の子が神の子となるのは、聖霊によって行われる。
神の唯一の永遠の御子の霊である聖霊が、密接に神秘体である信者と結合し、
その一致結合の結果、人間は聖霊の浸透を受けて、
キリストに似たものに変容され、
神の生命にあずかり神化され、ある意味で『神』となるのである」と。
神の実体であるロゴスが、人間の人格の核心に臨み、
そこで人間の実体である霊魂が、ロゴスを抱擁し、
深い一致結合により神性のくまなき浸透を受け、キリストへと変容するのである。
かくのごとき変容は、神と霊魂との完全な相互の明け渡し、譲渡(じょうと)の結果による。
それはあたかも、炭を火の中に投入すると、
火は次第に炭に浸透し、やがて炭は火に変化するのと同様である。
主イエス・キリストの十字架のあがないの効果は、
単に罪人を義認する程度のものではなく、人間の神化を目指しているのである。
「イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
祈っておられる間に、み顔の様が変わり、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。
すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。
それはモーセとエリヤであった、
栄光の中に現れて、
イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。
ペテロとその仲間の者たちとは熟睡していたが、目をさますと、
イエスの栄光の姿と、共に立っているふたりの人とを見た。
・・・・・すると雲の中から声があった、
『これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け。』そして声が止(や)んだとき、イエスがひとりだけになっておられた。」(ルカ9・28〜36)
このタボル山上におけるキリストの変貌と、モーセとエリヤの光輝的な出現は、
イエス・キリストのあがないの究極、人間の到達する頂点、
人間の栄光化・神化の実物(サンプル)を啓示しているのである
使徒ヨハネは、その生涯の終りに、パトモスの島にあってビジョンのうちに、
栄光化され神化されし小羊の妻なる花嫁を見せられたのである。
彼が見た花嫁なる新しきエルサレムは、あたかも高価な宝石のようであり、
神の栄光に輝いていたと語っており(ヨハネの黙示録21・9〜11)、
「彼らの額(ひたい)には、御名がしるされている。」(ヨハネの黙示録22・4)
花嫁なる教会をかくも神的に栄光化し、神化せしものは、
彼らに印された生ける神の御名にほかならない。
「彼(キリスト)にあって、あなたがたも真理のことば、
すなわち、あなたがたの救いの喜ばしい知らせ<福音>を聞いて、
彼を信じた者として、長い間約束されていた聖霊の証印をもって印を押されたのです。
このみ霊は、私たちの嗣業の保証
<前もって与えられる経験、私たちの受け継ぐものの手付け金>であり、
完全な贖い<贖いの完全な所有>を予期させ、
神の栄光を賛美させるのです。」(エフェソの信徒への手紙1:13〜14、詳訳)
聖霊による御名の証印こそは、栄光化・神化の手付けなのである。
それゆえ、なくてならぬものは聖霊の印、神ご自身の御名である。
印を押すことの秘義は、そのものの姿を複写することであり、再現することである。
聖霊の証印によってこそ、
キリストの似姿となり、キリストの形が成り、ついにキリストへと変容するのである。
キリストの目的は、みことばをもってなされる水の洗いによって教会をきよめて、
これを聖なるものとすることにあり、
こうして彼が、しみも、しわも、すべてそれに類するものがなく
栄光に輝く教会をご自身の前に立たせることであり、
教会がきよく、
傷のないものとなることであったのです。」(エフェソの信徒への手紙5・26〜27、詳訳)
主イエス・キリストのあがないの究極の目指すところは、
栄光に輝く花嫁なる教会を、ご自身のために完成することである。