〜愛の賛歌〜


「主は、わたしたちのためにいのちを捨ててくださった。
それによって、わたしたちは愛ということを知った。
それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」(ヨハネの手紙一3・16)

「わたしはあなたの心に置いて印のようにし、
あなたの腕に置いて印のようにしてください。
愛は死のように強く、
・・・・・・・・・・・・・
最もはげしい炎です。」(雅歌8・6)
キリストの愛にとらえられ、
キリストのはげしい愛の炎で焼かれ、
愛の深傷(ふかで)を受けし者は、
ただ一つの憧れを持つ、愛に死にたいとの切なるあこがれを!
キリストへの愛ゆえに。ここに真実の愛の本質がある。
主よ、あなたの火のような、
蜜のような愛の力が、
わたしの心を
地上のあらゆるものから、離脱させますように。
そして、あなたが、
わたしへの愛のために、死んでくださったように、
わたしも、
あなたへの愛のために
死ぬことができますように。(聖フランシスコ)
・・・・・愛するかたよ、おとりください、
わたしのいのちを残りなく。
私は心から望む、
あなたのために、苦しみ、そして死ぬことを・・・・。

おお、イエスよ、愛に死ぬ、
かなえてください、この夢を! (小さきテレジヤ)
主イエス・キリストが、カルバリー山上の十字架で血を流し、私への愛ゆえに死に給うた。
この事実こそは最も大きな愛のしるしなのである。
このほかに愛のしるしを求める必要があるであろうか。
わたしはキリストに愛されている、この愛の認識ほど、魂を天的愉悦で満たすものはない。
キリストのはげしい愛の炎が、人間の霊魂に燃焼するとき、
愛は霊魂のいのち、エネルギーとなり、キリストのためにいかなることをもなさしめる。
キリストの愛に燃え尽き、愛に死ぬ、これ以上すばらしいことがあるであろうか。
愛することができない。
証ができない。祈ることができない。伝道することができない。
聖日を守ることができない。献金ができない。
それはキリストの愛が、キリストヘの愛のエネルギーが、欠如しているからである。
イミターショ・クリスチ(キリストにならう)にかくしるしている。
愛は大いなる力である、又大いなる善である。
ただ愛のみすべての重荷を軽くする。
天にも地にも愛にまさる甘きものはない。
強く、高く、広いものはない。
愛は神より生まれ、神にあって存在する。
愛のある人は走り、躍り喜び、
自由であって束縛(そくばく)されない。

すべてを与え、すべてを所有する。
愛はその限度を知らない、
すべての限度を超えて燃焼する。
愛は十字架を意としない、
愛は不可能を訴えない、
愛は何事をもなし得る、
なすべきであると思う故である。
愛ある者は多くのことを為遂(しと)げ、
それをみごとに成就する。
私の神よ、私の愛よ、
神は愛である。
いかに愛ゆることのたのしく、
愛にとけこみ、愛に浸かることの甘美なる、
愛ある者は、十字架を、
愛するもののために喜んで抱擁する。
神ならぬ一切のものから、完全に離脱し、
清貧を愛し、十字架を抱きしめ、
ついに聖痕を受けるまでにフランシスコをかりたてたものは、
神の愛であり、神への愛にほかならなかった。
地位も名誉もちり芥(あくた)のごとく放棄し、はるかなる日本の地に、
いのちをかけて宣教に走ったフランシスコ・ザブエルの情熱は、
どこから湧(わ)き出たのか。
キリストの愛が奔流のごとく、彼の心をかりたてたのである。
青年よ! キリストにあって待望を抱け、とわたしも叫びたい。
もうひとりのフランシスコ、もうひとりのザビエル、もうひとりのパウロ、
キリストの愛に燃焼されたこのような宣教者、使徒は、どこへ行ってしまったのか。
「世界はわが教区なり」と叫びつつ、馬にまたがり、宣教に明け暮れたジョン・ウェスレー、
あの宣教魂をもった清浄な人は、どこへ行ってしまったのか。
キリストのために、聖なる愛に燃えあがり、地の果てにまで行く人はどこにいるのか。
「ここにわたしがおります。
わたしをおつかわしください」と、
神の火をうちに受け、イスラエルの救いのために、
イザヤのように叫び(イザヤ6・8)
終末をすべくくるリバイバルの器となるために、
いのちをかけて献身する若人は、どこへ行ってしまったのか。
苦しみこそは私の願い、
十字架のみを愛し求めます。
一つの魂を救うためにも、
千度の死をも忍びたい!

あなたの愛こそ、私の殉教。
焼き尽す愛の炎が激しくなれば、
せつにあなたを待ち望む。
あなたのために、
イエスよ、
愛で息絶えますように!  (小さきテレジヤ)
愛に死ぬことを唯一の夢として、若くして清く美しく、
御国に凱旋した情熱のシスター小さきテレジヤは、もうどこにもいないのか。
愛に生き、愛に死ぬ。愛する者はどこへ行ったのか。
愛の人はどこへ行ったのか。
「わたしはわが愛する人(キリスト)のもの、わが愛する者はわたしのもの」(雅歌6・3)と、
キリストの愛に酔える人は、どこへ行ったのか。もうどこにもいないのだろうか。
同胞の危機を救うために、イスラエル民族の危機を救うために、
「わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」(エステル4・16)と、
若きいのちを投げ出し、同胞を救ったエステルは、現代にはもういないのか。
愛は死よりも強いもの、愛の極致、愛の頂点は、
愛するもの(キリスト)のために、愛に死ぬことである。
愛に生き愛に死ぬ、それのみが愛の最高の表現である。
愛のため身代わりとなり、死んでいったコルベ神父は、
「いつも、毎瞬、きょう殉教者として死ななければならないと覚悟して、
きょうを生きること」と、不断に殉教へと準備し、神の小羊のごとく、いのちをささげた。
蝋燭(ろうそく)の火は、燃え尽きる直前、いっそう激しく燃え、やがて燃え尽きて消えてゆく。私もそのようでありたいと切に望む。
キリストへの愛のために、愛に死ぬことができるように。これが私の切なる祈りである。
おお、イエスよ、愛に死ぬ、
かなえてください、この夢を!(小さきテレジヤ)