〜祭司職〜


「この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、
霊の家に築き上げられ、
聖なる祭司となって、
イエス・キリストにより、
神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。」(ペテロの手紙一2・5)
「イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、
わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、
祭司として下さったかたに、
世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。」(ヨハネの黙示録1・5〜6)
ペテロの第一の手紙第二章五節にしるされている、
「聖なる祭司」というみことばは注目に値するものである。
祭司とは、ラテン語においてSACERDOSであり、
語源的にはSACRADANSよりきており、「聖なる者を与える」を意味するものである。
しかり、神には人を与え、人には神を与えるものであるからである。
また、祭司なる語は、「橋を架ける」との意味をも持っていると言われている。
全くその通りであり、神と人との間に橋を架ける、
換言すれば、神と人とを和解せしめる仲保者との意味である。
人祖アダム(ヘブル語で人間)が神の厳命にそむき、
罪を犯した瞬間、原罪が人間のうちに宿り、
神と人間との間に断絶が生じ、
人間は神との交わりを失い、楽園を失ってしまったのである。
神と人間との間の断絶の淵(ふち)は深く、
人間の側よりその深淵を埋め、神にいたることは絶対に不可能であった。
それであればこそ、天地万物の創造者なるロゴスが、
人生をとってこの世に来られ、神と人との断絶の深淵を埋め、
大祭司となり神と人との間に橋を架けられたのである。
「こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、
はばかることなく聖所にはいることができ、
彼の肉体なる幕をとおり、
わたしたちのために開いてくださった新しい生きた道をとおって、
はいって行くことができるのであり、
さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、
心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、
まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、
みまえに近づこうではないか。」(ヘブライ人への手紙10・19〜22)
祭司職を正しく認識するためには、旧約における祭司職について学ぶ必要がある。
旧約においては三大聖職が定められていた。
王、祭司、預言者である。
それゆえ、この聖職に任職されるとき、必ず油を注がれ聖別されねばならなかった。
この油は聖霊のシンボルである。
「キリスト」とはギリシャ語で「油注がれし者」の意味である。
旧約の祭司職において最も重大任務は、
大いなる贖罪の日に、年に一度大祭司が至聖所に入り、
自分自身と選民の罪をあがない、
神と人とを和解させ、神には人を与え、人には神を与えることであった。
しかし、大祭司自身罪をもった人間であり、
やぎや子牛の血によっては人間のうちに宿っている原罪をきよめることはできず、
永遠の命を賦与(ふよ)することは不可能であった。
旧約におけるかかる儀式は、
改革のときまで課せられた規定にすぎなかったのである(ヘブライ人への手紙9・6〜10)。
しかし、キリストがおいでになり、大祭司となり、
山羊(やぎ)や子牛の血ではなく、
ご自身の尊い血によって、
一度きり聖所にはいられ、十字架において永遠のあがないを完成された。
このキリストの宝血は、われわれのすべての罪を徹底的にきよめ、
われわれをしてキリストのいのちに参与せしめ、
聖霊の注ぎによって聖なるものとし、
われらをして
聖なる祭司とされたのである(ヘブライ人への手紙9・11〜14、10・10、14)。
クリスマスは神が人となられしことを意味するが、
ペンテコステ(聖霊降臨)は、人間が聖霊に充満され、
キリストとなることを意味している。このことを理解している人はまことに少ない。
もうひとりのキリスト、「聖なる祭司」について学びたい。
冒頭において語ったごとく、
祭司とはラテン語においては、「聖なるものを与える」との意味である。
まことに然りである。
地上のキリスト、もうひとりのキリスト、キリストの代理者である祭司は、
キリストの祭司職を、地上に在って行うものにほかならないからである。
新約の祭司(この場合は神父、牧師)の最も聖なる任務はミサ聖祭である。
聖別されたパンであるキリストのからだ、
聖別されしぶどう酒であるキリストの血を、
神の民に与えるがゆえに、「聖なるものを与える」者と言われるのである。
祭司職を要約すれば、神には人を与え、人には神を与えるという一語に尽きるのである。
使徒パウロも、新契約の使徒とは、
神の御霊によって
人々の心の核心に生ける神の御名を印し(コリントの信徒への手紙二3・3)、
人々に聖霊を伝達し、
聖霊に支配されたものにすることを使命としていると語っている(コリントの信徒への手紙二3・8、詳訳参照)
神を人に与えることを使命とする祭司は、
神の充満をもっていなければならないことは論ずるまでもないことである。
キリストを与えるためには、キリストの充満が必要であり、
人々に聖霊を伝達するためには、絶対に聖霊の充満の体験を必要とするのである。
「あなたがたが<自分の全存在において>満たされ、
神の充満に達する<最大限の豊かな神のご臨在をいただき、
神ご自身によって全く満たされ、
あふれているからだとなる>ためです。」(エフェソの信徒への手紙3・19、詳訳)
イエス・キリストが、独一無比の大祭司であられたのは、
キリストが真の神であられ、 真の人であられたからにほかならない。
その神性において神と一体であり、人生をとり人間と一体となられしゆえである。
かくしてキリストは、神と人との間にみごとに橋をかけ、
神と人との間の中保者となられたのである。
神性と人生を共有することが、祭司の第一条件であり資格であるなら、
聖なる祭司職においては、人生のみでは不十分であり、無資格である。
聖なる祭司職に参与するためには、聖霊の注油、聖霊の証印が絶対に必要であり、
無免許は、霊の世界においては絶対に許されないのである。
それゆえ、イエスは彼らに言われたのである。
「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。」
そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、
「聖霊を受けよ。
あなたがたが許す罪は、だれの罪でも許され、
あなたがたが許さずにおく罪は、そのまま残るであろう」と(ヨハネ20・21〜23)
キリストご自身のこのみことばが、
使徒はもうひとりのキリスト、もうひとりの祭司であることを証明しているのである。