〜聖人(もうひとりのキリスト)〜


「声高らかに主に呼ばわれ、
夜も昼も川のように涙を流せ。
みずから安んじることをせず、
あなたのひとみを休ませるな。
夜、初更(しょこう)に起きて叫べ。
主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。」(哀歌2・18〜19)

「祭司たちよ、荒布を腰にまとい、泣き悲しめ。
祭壇に仕える者たちよ、泣け。
神に仕える者たちよ、
来て、荒布をまとい、
(神のみ前に)夜を過ごせ。」(ヨエル1・13)
「アルスの聖司祭ヴィアンネ−老神父の声は、あまりに枯れて低かったので、
説教のとき、彼の周囲におし寄せる群衆にはよく聞き取れなかった。
しかし、人々にはヴィアンネ−神父の言うことばは全然聞こえなくても、
彼の姿はどこからでも見えた。
神の霊に乗りうつられたような彼の姿は見えた。
そして、この彼の姿を一目みただけで、聴衆は感動し、心服し回心したのである。
アルスの巡礼から帰ってきた一人の弁護士に向かって、
ある人が『アルスでどんな印象を受けましたか』とたずねると、
『そうです、私は人間のうちに、神様を見ました!』これが弁護士の答であった」
としるされているのを読んだとき、
再びあのときの感動がよみがえり、
聖ヴィアンネ−師はもう私の心から消え去ることのない憧れの聖人となったのである。
自己の存在そのものをもって、生ける神をみごとに顕示する人、
それが聖人であり、それが真実の祭司の姿である。
祭司はもうひとりのキリスト、神には人を与え、人には神を与えるものにほかならない。
しかし、それには条件がある。
ドム・ショータルのことばを借用すれば、
「使徒の身に、ただイエスだけが、
目にみえるように鮮やかに顕れておれば、という条件がいる。
使徒が自分自身の姿を滅して、没我的になればなるほど、
それだけイエスは彼においてご自身をお顕しになる義務をお背負いになるのである」と。
パリを飛びたった飛行機が、南仏のリヨン空港につくと、
すぐバスに乗りかえアルスを目指して進んだ。
沿道の風景は、どこにでもあるのどかな田園風景である。
ソーヌ川に沿ってリヨンから35km北上すると、約1時間ばかりでバスは目的地の聖堂前に到着した。
20年間の久しきにわたり、憧れ続けたアルスについに来たのである。
高まる興奮を静めながら、聖堂の中に入ると、左側の高いところに、
聖者がかって説教した説教台が、ありし日のまま現存している。
あの弁護士はどのベンチに座して、
聖者の説教を聴き、聖者を見つめていた、否! 神を見たのであろうか。
説教壇に登る階段口から左に曲がったところに、
聖者が一日のうち一番多くの時間を過ごした場所、16時間、
ときには18時間もの間、毎日長年にわたり、人々の告白をきいた告解場がある。
彼はその激務のために卒倒することも、まれではなかった。
聖者のことを、「告解場の使徒」、「告解場の殉教者」と言うのはそのためである。
彼はしばしば告解場で泣いた。
ある人が、「神父様、どうしてそんなにお泣きになるのですか」とたずねると、
「私が泣くのは、あなたが自らの罪のために泣かないからです」と答えるのであった。
涙とともにまいたればこそ、あれほど多くのものを刈り取ったのである。
聖堂の中心部の右側に、聖人のなきがら(ミイラ)が安置されている。
私の足は釘(くぎ)付けにされたようになり、長い時を祈り続けた。
憧れの聖人、偉大な使徒を、どれ程みいったことであろう。
自我の全く死滅した人間、
存在そのものをもって人々に神を見せたこの人!
キリストご自身を鏡に映し出すように反映させた人!
しかし、この聖人とて、生まれながらにして聖人であったわけではない。
彼は1786年5月6日に、平和な農家ヴィアンネ−家の、6人兄弟の中の二番目の男の子として生まれた。
その点、私も同様、京都市綾部市の6人兄弟の次男として生まれた。
彼は成長し神学校に入ったが、ラテン語が苦手で成績が悪く、お情で叙階を受けた程であった。
私もまたしかりである。
ここまでは彼と全く歩調が合うのである。
しかし、彼は偉大な聖人、
神に用いられし偉大な使徒、全世界に偉大な影響・感化を与えし神の人。
彼も人、私も人、彼が聖人となり得たのに、私が聖人となり得ないことがあるであろうか。
キリストのうちには、私をも聖人とするに充分な恩寵があるではないか。
この瞬間程、聖人になりたいとの憧憬を強く抱いたことは未だかつてなかった。
聖堂の左側には、聖人の住居であった司祭館が今も現存している。
一歩そこに足を踏み入れた瞬間、
使徒職の厳しさが、身を刺すほど強く迫ってくるのをおぼえた。
聖人の遺物のすべてが、無言のうちにそれを語ってきかせるのである。
かくれたるに見給う神の尊前での生活、
聖人の生涯の全貌、彼の使徒職の成功の秘訣を、ありありとうかがい得るのである。
聖人を通して実に多くの奇跡が行われた。
奇跡がともなうことが、必ずしも聖人のしるしではないが、
人間が奇跡を行い得ないことは確実である。
司祭館には聖人が勝ち取った多くのトロフィーを見ることができる。
私は聖人の遺物の一つ一つを、深い興味を持って見つめた。
素朴な書斎の机の上に、祈祷書と眼鏡がおいてあるのを眺(なが)めていると、
聖人が今にもそこに姿を現し、親しく声をかけられるのではあるまいか、
と思われるほど聖人を身近く私は感じたのでのであった。
また、棚の中に聖人が使用した苦業の道具を見いだしたとき、
大使徒パウロの言った「私は、あなたがたのための私の苦難のただ中で、喜んでいます。
そして、私は、彼のからだ、すなわち教会のために、
キリストの苦難のまだ欠けているところ
<〔私達の側で〕なお完成しなければならないところ>
を私自信として満たしているのです」(コロサイの信徒への手紙1・24、詳訳)
とのみことばを、しみじみ思い知らされ、
はたして私はどれ程キリストの教会の完成のために苦闘しているかを、
深く反省しないではいられなかった。
この司祭館には、完徳に到達するための聖人になるための有効確実な指針・標本がある。私は時間の許すかぎり、聖堂と司祭館を何回も往復し、
寸時をも惜しみ聖人の遺跡を親しく観察し、貴重な教訓を多く学ぶことができたのは、
実に幸いであり感謝であった。
ここで受けた強い印象は、生涯忘れ得ないであろう。
使徒職における成功の秘訣は、どこにあるのであろうか。
神との親しい交わり、
神との一致の生活、
聖霊の充満(プレローマ)こそ、使徒職の原動力、エネルギ−なのである。
聖霊のみが人間を一新させることのできる、革命家なのである。
使徒職の力、使徒職のいのち、すべてはうちに現存されるキリストである。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、
その人は実を豊かに結ぶようになる。
わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」(ヨハネ15・5)
これが使徒職の原則である。
この原則から離れては何一つできないのである。
キリストのこのみことばは、使徒職の核心に触れている。
キリスト・イエスにあって神に生き、
聖霊によってのみ営まれる使徒職のみが、豊かな実を結ぶのであることを示している。
彼の伝記の中で最も興味深いものの一節を紹介したいと思う。
「この村に数年前に死んだ敬虔な老農夫があった。
彼は毎朝、畑に出かける前に教会によって祈りをする習慣があったが、
ある日、鍬(くわ)を聖堂の入口に置いたままで祈りに夢中になってしまった。
近所で働いていた農夫たちは、どうして彼が来ないのかと不思議に思ったが、
ふと思いついて聖堂に寄ってみると、はたしてそこにその人を見いだした。
『いったい、お前は長いこと、なにをしていたのか』と聞くと、『私は神を見ていた。
神も私を見ておいでになった』と彼は答えた。
『彼は神を見、神は彼を見ておいでになった。
キリスト教の奥義、観想の極致はこの一語につきる』と、
聖人はこの話をしばしば説教中にかたった。」
アルスの聖堂から小川をへだてた対岸に、小高い丘がある。
そこは広場になっていて、聖人とアントニオ少年との銅像が立っている。
彼がアルスの司祭として赴任して来たそのとき、夕暮れで道がわからず、
そこで出会った牧童にアルスへの道を教えられしところである。
「お前は私にアルスへの道を教えてくれた。
それで私は、お前に天国への道を教えてあげよう」と、彼の右手は高く天を指し示している。この聖者の姿こそは、まことに彼の高貴な姿を象徴している。
彼は天国への道、神への道、完徳への道、聖人への道を、
すべての人の前に、存在そのものをもって実にみごとに指し示したからである。