〜ピエタ(哀傷)〜


「私の幼子たちよ、キリストがあなたがたのうちに完全に
<永続的に>形造られる<鋳型で形造られる>まで、
私はあなたがたのためにまたふたたび生みの苦しみを味わっています。」(ガラテヤの信徒への手紙4・19、詳訳)
「女のうちの最も美しい者よ」(雅歌5・9)

永遠の都とよばれるローマ。神の都とよばれるエルサレム。
この二つの都こそはすべてのキリスト者の心のふるさとなのである。
久しい間憧れ続けたローマ、レオナルド・ダ・ビンチ空港に着いたのは深夜の2時30分であった。
機上から降り、憧れの大地に立ったとき、心臓の鼓動(こどう)が急に高鳴り、熱い涙が溢(あふ)れ流れた。

黒いベールで顔をかくしているアラブの婦人のように、ローマは闇(やみ)のベールに包まれている。
30分ばかり車で走るとローマ市内にはいる。写真で見おぼえのあるピラミッド、大聖堂、コロセウムが淡い光に照らされて急に暗闇の中からシルエットのように飛び出し、また暗闇の中に姿を消してゆく。
目覚めると、初夏のような、まぶしいまでに輝く太陽が、ローマの紺壁(こんへき)の空に輝いていた。
燦(さん)々と照り輝いていた。
ローマのシンボルとも言うべき聖ピエトロ大聖堂の、ミケランジェロの傑作と称せられるクポラが、王冠のような貫禄(ろく)堂々たる姿で聳(そび)え立っていた。
聖堂内に一歩入ればそのすばらしさは表現のことばがなく、それはまた偉大な芸術の殿堂でもある。
全長211メートル、文字通り世界最大の聖堂である。
聖堂の内部右側のところに、ミケランジェロが25歳のとき造った、有名なピエタの大理石像がある。
「間もなく私は今後だれもそれ以上には作り得ないほど美しいピエタの大理石像を作る」ともらしたと言う程であるから、
強いインスピレーションと自信に溢(あふ)れ、
全存在を傾倒して製作したのであろうと思われる。
事実、その後多くの彫刻家や画家によってピエタ像が作られたが、未だだれも彼以上にすぐれたものを作り得なかったし、今後もおそらくそうであろう。
この像は不思議な魅力をもって、完全に私を捕らえた。
否、私の心を完全に魅了したと言うべきであろう。
「あなたはわたしの心を奪った。
あなたはただひと目で、
・・・・・・わたしの心を奪った」(雅歌4.9)
との雅歌のことばの一節を思い出したほどである。
十字架上よりおろされし最愛の御子キリストの、
釘(くぎ)と槍(やり)で刺(さ)し貫かれた傷痕(しょうこん)痛々しいなきがらを、
己が膝(ひざ)の上にひしと抱く聖母マリヤ、
その霊的に貫かれた心の、
たとえようもない深い悲しみと苦闘の内面性が、
みごとに表現されていて真に迫ってくるのであった。
ああ、主イエス・キリスト!
おんみをかくも苦しめ
十字架に釘(くげ)付け
槍(やり)にて刺し貫き
死にいたらしめしは誰(だれ)ぞ

ああ、それはわが罪
がとが、わが不義なり
主よ! 罪人なるわれを
赦(ゆる)したまえ!

あ、聖母マリヤ!
おんみの心を刺し通し
死よりも深き悲しみ

無限の苦しみを
誰(たれ)がおんみに与えし

ああ、そはわが罪
わが不義、わがあやまちなり
聖母よ 罪人なるわれを
あわれみたまえ!
聖母のたとえようもない悲しみを痛感したとき、痛悔の涙がとめどもなく流れた。
溢(あふ)れいづる涙をぬぐい、再び聖母の顔を仰いだ時、
今までとは全く別な内面性が、その表情のうちより読みとれる。
最愛の御子キリストの死を深く悲しみつつも、
その犠牲の死によって、
人類があがなわれ、永遠の命に参与するとの慰め、
その内面より湧(わ)き上がる信仰による望み、
そうしたものがありありとうかがえもするのである。
ここにこそ聖母マリヤの神秘的なまでの美しさが存在するのである。
「このしののめのように見え、月のように美しい」(雅歌6・10)
聖母マリヤの霊的美しさの秘密を学びたい。
しののめはさし昇る太陽の光が、大空に反映する美しさをあらわし、
月は太陽の顔を受け取って反映する美しさである。
「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます。」(ルカ1・28)
御使ガブリエルがマリヤに語ったこのことばこそは、
マリヤの霊的麗しさを解明する鍵語である。
すなわち神の聖寵に満たされていることと、
神ご自身が彼女のうちに現存して、共におられることである。
マリヤの美は無原罪からよりも、さらに次元の高いもの、
神ご自身よりのもの、その神的美の反映からきているのである。
マリヤは恩寵の傑作であり、
その意味において「女のうちの最も美しい者」(雅歌1・8、5・9、6・1)であった。
マリヤは受肉のイエスを抱く前に、
霊魂の核心において神なるロゴスを抱いていたのである。
彼女の神との一致は、
霊魂が地上において到達し得る頂点にまで達し、
その一致によって、
神的なまでに変容され、
しののめのごとく美しく、月のように麗しく、美において変化されていたのである。
わたしはいつまでもここにとどまり、
黙想と祈りのうちに、
マリヤの霊的美と、聖母の心の中にあるものを、
感じとりたい気持ちで一杯になったのであった。
ロゴスの受肉、あがないのドラマにおいてマリヤの果たした役割は、
人知をもっては、とうていはかり知れぬほど偉大である。
マリヤは神の救いの計画に対して、
全存在をささげ尽くし「成れかし」と応答し、
献身を全うし、みごとにその使命を果たしたのであった。
人間であるミケランジェロですら、これ程すばらしいピエタ像を造り得たとするなら、
まして偉大な芸術家であられる全能の神である聖霊は、
どれ程すばらしいキリストのかたちを、わたしたちのうちに完全に形造られることであろう。
「私の幼子たちよ、キリストがあなたがたのうちに完全に形造られるまで、
私はあなたがたのために
またふたたび生みの苦しみを味わっています。」(ガラテヤの信徒への手紙4・19)
われわれが主イエスの神性とメシヤ性を信じ、
信じて御名により聖霊を受けたのは、
単に原罪からきよめられるのみではなく、
聖化されしひとりびとりがキリストのかたちに形造られ、
もうひとりのキリストとされるためである。
神性への参与により神化されるためであり、
キリストの生命への参与により、
キリストのごとく神に生き、神の命の表現、神ご自身を反映する者となるためである。
キリストの無限の聖寵にあずかり、
わたしたちも恩寵の傑作、
大聖人となり、月のように麗しく、義の太陽であるキリストご自身を、
存在そのものをもってみごとに反映する明鏡とならねばならない。