〜没   薬〜


「わが愛する者は、
わたしにとっては、
わたしの心のうちにある没薬のようです。」(雅歌1・13)
「わたしは没薬の山および乳香の丘へ急ぎ行こう。」(雅歌4・6)
「主は、わたしのためにいのちを捨てて下さった。
それによって、わたしたちは愛ということを知った。
それゆえに、わたしたちもまた、
兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」(ヨハネの手紙一3・16)
時代はまさに終末、やがてエルサレム問題に端を発し、
人類は急速に最暗黒時代に、患難時代に突入するであろう。
「万物の終りが近づいている。
だから、心を確かにし、身を慎(つつし)んで、努めて祈りなさい」(ペトロの手紙一4・7)
との警告を、今や肌(はだ)で感ずる時代である。
もう時がない。
それであればこそ聖霊は、
「日の涼しくなるまで、
影の消えるまで、
没薬(もつやく)の山および乳香の丘へ急ぎ行こう」と迫っておられるのである。
この重大な時点において、
あらゆるものから離脱し、専心祷告にはげまないなら、
祭司職に専念しないなら、悔いを千載に残すこととなるであろう。
聖フランシスコの離脱を求める祈りからはじめよう。
「主よ、あなたの火のような、
蜜のような愛の力が、
わたしの心を
地上のあらゆるものから、
離脱させますように。
そして、あなたが、
わたしへの愛のために、死んでくださったように、
わたしも、
あなたへの愛のために
死ぬことができますように。」
さて、使徒行伝の各章に「わが証人」、「キリストの証人」とのことばがしるされ、
雅歌の中には「没薬」ということばを実に多く見いだすのである。
雅歌は聖なる愛の賛歌であるが、
その愛の賛歌に、なぜに「没薬」すなわち「殉教」を意味することば多いのであろうか。
その理由は簡単である。
愛によって傷ついたものは、愛のために死にたいと心より望むからである。
小さきテレジヤは、
「おお主イエスよ! 愛に死ぬ、かなえて下さい、この夢を!」と叫び続け、
「私には愛で死ぬほど、おん身をお愛ししたいという望み以外に、
何の望みもありません」と告白している。
それは、彼女がキリストの愛にいかに深く傷つけられ、
はげしく愛の火に焼かれていたかを証明するものである。
彼女の生涯の終りが近づいた時、
「愛するかたよ、おとり下さい、私の命を残りなく、私は心より望みます、
あなたのために苦しみ、死ぬことを」と。
実際小さきテレジヤは、ろうそくのごとく、若くして燃え尽き、まさに愛に死んだのである。
雅歌第一章十二節および十三節を注目いたしたい。
「王(キリスト)がその席に着かれたとき、
わたしのナルドはそのかおりを放った。
わが愛する者は、わたしにとっては、
わたしの心のうちにある没薬のようです。」
神は、人間の心、人格の最も深いところに、至聖所をもうけられた。
しかるに人祖アダムは、自由意志を濫用し、
そこに神ご自身を迎えずして、かえって自我を入れたのである。
その瞬間、原罪が宿り、神との交わりを失い、直ちに堕落したのである。
人間がこの悲しむべき堕落・滅亡より回復される道はただ一つ、
心の至聖所から自我を追放し、王なるキリストご自身をそこに迎え奉ることである。
あなたの全存在を主にささげよ。
そうすれば栄光の王は入られるであろう。
しかしてご自身をもって満たし、完全に占領し、新しいリバイバルの器とされるであろう。
神との一致とは、最も深みにおける意志の一致にほかならない。
もはや自分の意志をもたないまでに、神との一致を完成し、
主たる御霊によって、栄光から栄光へと、
主と同じ姿に変容されるまでに完成されるように祈りたい。
心の最も深い所、至聖所にキリストの現存を見いだし、
恍惚(こうこつ)とみとれ、
みことばに聞き入り、
聖霊の浸透をくまなく受け、
キリストに変容され、
存在そのものをもって鮮やかにキリストを反映し、
ふくいくたるキリストの命の香りを発散する者であらねばならない。
「わが愛する者は、わたしにとっては、わたしの心のうちにある没薬のようです。」
愛するキリストが遺産として残されたものは、没薬であり殉教の御霊にほかならない。
「小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、
殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。
彼らは大声で叫んで言った、『聖なる、まことなる主よ。
いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、
わたしたちの血の報復をなさらないのですか。』
すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、
それから、『彼らと同じく殺されようとする
殉教者の数が満ちるまで、もうしばらくの間、
休んでいるように』と言い渡された。」(ヨハネの黙示録6・9〜11)
ソ連や中共が、戦中戦後キリスト者を逮捕し、残虐非道の拷問(ごうもん)にかけ、
虐殺した数は、
ナチスがユダヤ人を殺した六百万人をはるかにオーバ−する
天文学的数と言われている事は、全世界の知るところである。
ルーマニアで14年間投獄され、
拷問を受けたリチャード・ウォムブランド牧師の著書「地下運動の声」を読むなら、
その実情をつぶさに知るであろう。
彼は「生ける殉教者」と言われている実在の牧師である。
今日もなお世界各地で、殉教者は毎日起こっているのである。
14万4千人のイスラエルは、この終末時代に聖霊の印を受け、救われなければならない。
しかし、この黙示録は、その前に殉教者の数が満たされねばならないことを示している。
しかり、まさに殉教者の数は満たされつつある。
今日宣教に当たるものは、殉教の覚悟、殉教の御霊に充満されずしては、
その使命を果たすことはできない。
時は切迫している。それゆえ、「没薬の山および乳香の丘へ急ぎ行こう。」
没薬の山とは十字架と死を示し、
乳香の丘とはゲッセマネの園、?告の高みに登ることを意味している。
主イエス・キリストは、乳香の丘で血涙をしぼりつつ、
「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。
しかし、わたしの思いのままにではなく、
みこころのままになさって下さい」(マタイ26・39)と祈られた。
愛する主は、ゲッセマネの丘で完全に自己を放棄され、
ただおん父の意志のみを抱きしめ、自己を完全に奉献されたのである。
祈りの生活の本質とは何か。
神と一致し、神の祈りに参与すること、これである。
もう時がない。乳香の丘へ急ぎ行こう。
「わたしは、主イエスの名のためなら、
エルサレムで・・・・・死ぬことをも覚悟しているのだ。」(使徒言行録21・13)
使徒は主の御名を負う器、主の死を負う人。キリストの証人のことである。
使徒パウロは、キリストの愛に迫られ、
キリストのために千回でも殉教したいと望んだのである。
殉教は愛における頂点である。それは愛の最高の表現と言うべきであろう。
内的にも外的にも主イエス・キリストに最も似た聖人として、
万人から慕われているアシジの聖フランシスコの精神を学びたい。
「彼がダミアノ教会の十字架の前にひざまずき、十字架につけられたキリストから、
『フランシスコよ、行ってわが家を建て直せ』との召命を受けたとき、
彼の心は十字架につけられたキリストへの同情と愛に燃え、
キリストの受難の姿はつねに彼の眼前から消えず、心に深く印されたのであった。
フランシシコの心に湧(わ)き起こった愛は、きわめて熱烈であり、
そのときからキリストに似たものとなること、
できるかぎり完全にキリストにならうこと、
キリストと全く一つになること、これが彼の最高の望みとなった。
十字架につけられたイエス・キリストは、あたかも没薬の袋(ふくろ)のように、
フランシスコの心に浸透し、
その心を占領し、
このはげしい愛の火は完全にフランシスコをキリストに変容せしめたのである。
キリストに対するはげしい愛が彼を駆りたてて、
キリストとの一致を妨げる一切のものを放棄させ、
完全で無制限な清貧を受け入れさせた。
フランシスコの放棄は徹底的であった。
自分自身をいけにえとしてささげ尽くし、自分をキリストと共に十字架につけたのである。
彼の生活こそ、まさに十字架生活であった。」(「アシジの聖フランシスコの小品集」中央出版社より)
そうすることによって、わたしたちも、「生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤの信徒への手紙2・20)
との理想が現実となるのである。
コルベ神父が、あのような英雄的な死、キリスト的な身代わりの死を遂げ得たのは、
日ごとの霊的生活において、自分自身をいけにえとする生活を身につけ、
乳香の丘、没薬の山において常にキリストと一致していたればこそである。
「人がその友のために自分の命を捨てること、
これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15・13)
おお、主イエスよ、愛に死ぬ、
かなえてください、この夢を! アァメン(小さきテレジヤ)