|  「神がすべての者にあって、すべてとなられる。」(コリントの信徒への手紙一15・28) 
  「キリストがすべてであり、 
  すべてのもののうちにいますのである。」(コロサイの信徒への手紙3・11) 
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      |  神がすべて。 
  キリストがすべて。 
  1977年の標語として、主ご自身より与えられしこの標語を、 
  単に標語として受けとるのではなく、 
  わたしたち自身の体験として受けとらねばならないのである。 | 
    
      |  わたしの敬愛するトラピスト修道者、 
  山下房三郎神父が訳された「神に触(ふ)れる」という、 
  ドン・マルミオンの著書の序文の中に、 
  「マルミオン大院長は、本当に神に触れさせて下さいます。 
  本当に、神ご自身に触れさせて下さいます」と。 
  わたしはこの言葉を生涯忘れ得ないであろう。 
  わたしの使徒職、祭司職において、どれほど人々をして神に触れさせているか。 
  キリストご自身に実際触れさせているか、反省しないわけにはゆかないのである。 
  「神に触れさせる」、 
  このような人こそ、本物の使徒であり、本物の聖なる祭司である。 
  「神に触れさせる」、 
  かかる使徒のみが、みごとに人には神を与え、神には人を与え得るのである。 | 
    
      |  人をして神に触れさせるためには、絶対に一つの条件を必要とするのである。 
  まず、自分自身が神に触れていなければならないとの条件である。 
  感電している人に触れると、ただちに感電する。 
  神にとらえられている人、 
  その人にあって神がすべてとなっている人、 
  キリストがすべてとなっている人、 
  そのような人物と出会い、接触するとき、即座に神に触れることができるのである。 | 
    
      |  真の生けるキリストの神秘体とは、いかにあるかについて、聖書はかくしるしている。 
  「この教会はキリストのからだであって、 
  すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、 
  満ちみちているものに、ほかならない。」(エフェソの信徒への手紙1・23) 
  真の教会とは、神の充満をもって満たされた存在、神の現存を持つものにほかならない。 | 
    
      |  神の人とは、神がその人にあってすべてである人、 
  キリストがその人にあってすべてである人、 
  聖霊がその人にあってすべてである人のことである。 
  三位一体の神に充満された人こそ、まちがいなく神の人であり、 
  キリストご自身に充満されたる人こそ、確かにもうひとりのキリストであり、 
  この境地にあった大使徒パウロは、 
  「生きているのは、もはや、わたしではない。 
  キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤの信徒への手紙2・20) 
  と言い得たのである。 | 
    
      |  この大理想に到達することは、やまやさしいことではない。 
  しかし、それは不可能なことではなく、 
  キリスト・イエスにあって可能なのである。 | 
    
      |  聖フランシスコにならい、 
  神でない一切のものを追放し、 
  「おお主よ、わたしのすべてよ!」と、 
  一息一息自我をはき出し、聖霊を呼吸することである。 | 
    
      |  「フランシスコの心に湧き起こった愛は、 
  きわめて熱烈であったので、 
  キリストに似た者となること、 
  できる限り完全にキリストにならうこと、 
  キリストと完全に一つになること、 
  これが彼の最高の願望となった」のであった(アシジの聖フランシスコの小品集より)。 | 
    
      |  わたしたちも、心より彼にならい、 
  完全にキリストに変容されたいとの、熱い願望を生涯持続することこそ必要なのである。 | 
    
      |  実際、だれひとりとして、一朝一夕(せき)にして聖人になった人、 
  大リバイバルのために、神に用いられる器となった人は、 
  全世界いずこにも存在しないのである。 
  小さきテレジヤは、絶え間なく、自我との戦いに全エネルギ−を注ぎだしたと言っている。 | 
    
      |  聖人達、神の人達は、何よりもまず自我との戦い、 
  自我を粉砕(ふんさい)し、自我を征服することに成功したのであった。 | 
    
      |  多くの人々が聖霊を受け、 
  聖人に憧憬し、 
  リバイバルのために神に用いられる器たらんことを願いつつも、 
  そういうすばらしい器が出現しない。 
  その理由はきわめてあきらかである。 
  自我との戦いにおいて、 
  徹底的に自我を粉砕することに成功していないために、 
  神がその人にあってすべてとなり得ないためにほかならないのである。 | 
    
      |  きょう、あなたがたが神に用いられる器、 
  神の人、聖人たらんことを真実望むなら、 
  聖霊の諸刃(もろは)の剣(つるぎ)によって、 
  あなたの自我に最後のとどめを刺していただく必要がある。 
  自我、自愛心こそは、キリストが王となり、 
  すべてとなることを望まざる心中(しんちゅう)の敵なのである。(ルカ19・27) | 
    
      |  小さきテレジヤは、 
  「わたしの最も恐れることは、自分の意志を持つことである」と言っている。 
  聖女のこの告白こそ、霊的生活の深みに触れるものである。 
  「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、 
  わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。 
  自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、 
  わたしの弟子となることはできない。」(ルカ14・26〜27) 
  「あなたは、自分を捨て、 
  自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16・24)とは、 
  主ご自身より直接召命のことばとして、わたしが受けしものである。 | 
    
      |  それは、徹底的に自己を放棄し、 
  キリストと完全に一致し、 
  彼と共に十字架を負いカルバリ−にのぼる道であり、 
  自己をいけにえとして十字架上の祭壇に捧げ尽くすことであり、 
  愛に生き、愛に死ぬことにほかならない。 | 
    
      |  「わたしが聖なる者であるから、 
  あなたがたも聖なる者になるべきである。」(ペトロの手紙一1・16) | 
    
      |  わたしたちが聖なる者になるためには、 
  古い性質に死に、 
  神の聖なる性質にあずかる以外に方法はあり得ない(ペトロの手紙二1・4) 
  人間の聖化は、 
  聖霊との親しき交わりにおいて、イエス・キリストに似たものと変容されるのである。 | 
    
      |  「もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、 
  貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。」(エレミヤ15・19) 
  「もし、言葉の上であやまちのない人があれば、 
  そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。」(ヤコブの手紙3・2) 
  神のメッセンジャ−たるべき使徒職に参与する者は、 
  口が聖別され、神の口となり、神の言葉を語るべきものである。 | 
    
      |  わたしの手が聖別され、全能者の右の手と一致するなら、 
  多くのしるしと奇跡とが、 
  「次々に使徒たちの手により人々の中で行われ」(使徒言行録5・12)、 
  終末をすべくくるリバイバルが起こるであろう。 | 
    
      |  主(アドナイ)は言われる、 
  「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。 
  驚いてはならない、わたしはあなたの神である。 
  わたしはあなたを強くし、あなたを助け、 
  わが勝利の右の手をもって、あなとをささえる。」(イザヤ41・10) | 
    
      |  「虫にひとしいヤコブよ、 
  ・・・・・恐れてはならない。 
  わたしはあなたを助ける。 
  あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。 
  見よ、わたしはあなたを鋭い歯のある 
  新しい器とする。」(イザヤ41・14) | 
    
      |  神こそわたしのすべて! 
  キリストこそわたしのすべて! | 
    
      |  神がすべてのすべてとなり、キリストがすべてのすべてとなり給うとき、 
  もはやわたしたちにとって不可能はあり得ないであろう。 
  使徒職に参与するわたしたちさえ、神ご自身の働きに合流するなら、 
  すべては可能となり、 
  終末をすべくくる大リバイバルのにないてともなり得るのである。 | 
    
      |  主はわたしたちを、 
  全世界の福音化という偉大な使命のために任命されるのである。 
  「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 
  それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、 
  父と子と聖霊との名によって、 
  彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。 
  見よ、わたしは世の終りまで、 
  いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28・18〜20) |