〜深まりゆく神の川〜

「その人は東に進み、手に測りなわをもって一千キュピトを測り、わたしを渡らせた。
すると
水はくるぶしに達した
彼がまた一千キュピトを測って、わたしを渡らせると、
水はひざに達した
彼がまた一千キュピトを測って、わたしを渡らせると、
水は腰に達した
彼がまた一千キュピトを測ると、渡り得ないほどの川になり、

水は深くなって
、泳げるほどの水、越え得ないほどの川になった。
彼はわたしに『人の子よ、あなたはこれを見るか』と言った。」(エゼキエル47・3〜6)
「祭りの終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、
『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、
その腹から生ける水が川となって流れでるであろう。』
これは、イエスを信ずる人々が受けようとしている
御霊をさして言われたのである。」(ヨハネ7・37〜39)
エゼキエルの見せられたビジョンにおいて、わたしたちは深まりゆく神の川を見るのである。すなわち、深まりゆく聖霊体験について学ぶのである。
その第一段階において、水(生ける水なる聖霊)は、彼のくるぶしに達し、
さらに第二段階においては、水はひざに達し、
その第三段階にあっては、水は腰に達し、
最後の段階にあっては、ついに泳ぐほどに達したのである。
注目すべき点は、第一段階〜第三段階においては、
深まりゆく聖霊体験の中にあって、エゼキエル自身が、水の中を歩いていたことである。
しかるに、最終段階にあっては、もはや彼は歩くことができず、
御霊の流れが彼を押し流していることである。
この霊的境地こそは、
使徒パウロが言うところの「生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤの信徒への手紙2・20)
との体験にほかならないのである。
終末をすべくくる経綸のにない手、
リバイバルの器となるために到達しなければならない標準(レベル)はこれである。
ご承知の通り、ヨハネ福音書は水の福音書と言われている。
わたし達はきょう、ヨハネ福音書を通して、
預言者エゼキエルの見た深まりゆく聖霊の御業(みわざ)について、
深く学びたいものである。
まず最初に、ヨハネ福音書第三章に啓示されている水の働きについてである。
このテーマは、イエスが律法学者であるニコデモとの出会いにおいて語られしものである。
「よくよくあなたに言っておく。
だれでも、水と(聖)霊とから生まれなければ、
神の国にはいることはできない。」(ヨハネ3・5)
ここに、人間を根本的に、本質的に生まれ変わらせる水の御業を見ることができる。
聖霊のバプテスマによって、
わたしたちの古き人はキリストと共に十字架につけられ(ローマの信徒への手紙6・6)、
同時にキリスト・イエスにあって
神に生きる者とされるのである(ローマの信徒への手紙6・11)。
まことに、神の子が人の子となり給いしは、人の子を神の子とせんためである。
第四章において、さらに深まりゆく聖霊体験が示されている。
罪深い異邦人、サマリヤの婦人が、主イエス・キリストに出会った時、
キリストが語られしものである。
「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、
わたしが与える
水は、その人のうちで泉となり
永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」(ヨハネ4・14)
それはいかに驚くべき神秘的な経験であろうか。
聖霊が臨み、その人の人格の最も深いところに内住される時、
単に罪より聖化されるのみならず、
その人の人格の最奥より、神性の流出が起こり、
聖霊を人々に伝達する新約の役者(えきしゃ)とされ、
リバイバルの器とされるとの意味である(コリントの信徒への手紙二3・6、8、詳訳参照)
それゆえ、聖霊を受けたのみではなく、
聖霊が泉となり流出する存在、
人々に聖霊を伝達し、
人々を聖霊に支配されたものにする存在たらねばならないのである。
自己の魂の最奥で、
神との出会いを経験し、
神の現存を鮮やかに見るとき、
それは単なる理想ではなく、現実となるのである。
ヨハネ福音書第5章において、ベテスダの池を見る。
「ベテスダ」とは「慈悲の家」との意味である。
この池において、わたしたちは聖霊の躍動と、奇跡(しるし)と不思議を見るのである。
使徒行伝を学ぶとき、
主ご自身が、聖霊に充満されし弟子達の手により、
多くのしるしと奇跡とを次々に行われ、
リバイバルが起こされしことを見るのである(使徒言行録5・12、14・3、19・11)。
聖霊に満たされし彼ら自身こそ、
ベテスダの池であり、慈悲の家、生ける神の住み給う神殿であった。
彼らにおいて可能であったしるしと奇跡、すばらしいリバイバルが、
わたしたちにとって不可能ということがあり得ようか。
わたしたちさえ聖霊に充満され、
うちより聖霊が躍動するなら、現代においてもそれは可能である。
愛する兄弟姉妹達! 聖霊は、さらにわたしたちを第7章に導かれるのである。
それは、仮庵(かりいお)の祭りの終りの大事な日のことであった。
「イエスは立って、叫んで言われた、
『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、
その腹から
生ける水が川となって流れ出るであろう。』
これは、イエスを信じる人々が受けようとしている
御霊(みたま)をさして言われたのである。」(ヨハネ7・37〜39)
生ける水が川となって流れ出る。
これこそは、エゼキエルの見たビジョンの、最終段階である。
それはまた、イザヤによって預言されしところのもの、
「わたしが荒野に水をいだし、さばくに川を流れさせて、
わたしの選んだ民(イスラエル)に飲ませるからだ」(イザヤ43・20、44・3)
との預言の実現・成就なのである。
これこそは、終末時代をすべくくる聖霊の洪水、
十四万四千人のイスラエルが生ける神の印をもって印される、
大リバイバルを実現せしめるものである。
終末時代をすべくくるために、
わたしたちにとってなくてならぬものは、
聖霊の充満(プレローマ)であり、聖霊の洪水である。
どうしても使徒たる者は、
もうひとりのキリストのレベルにまで到達していなければならない。
わたしたちが神に飢えかわけばかわくほど、
また神性の流出、洪水を起こせば起こすほど、神はわたしたちを満たしたもうのである。
「わたしにとっては、生きることはキリストである。」(フィリピの信徒への手紙1・21)
まことにキリストご自身がわたしたちのすべての行為の原理であり、
終極であらねばならない。
ここにリバイバルの秘訣がある。
最後に、ヨハネによる福音書第9章を開きたい。
「イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、
そのどろを盲人の目に塗って言われた、
シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい。』
そこで彼は行って洗った。
そして見えるようになって、帰って行った。」(ヨハネ9・6〜7)
ここに、シロアムの池がある。
シロアムとは「つかわされた者」の意であり、
それはメシヤを意味しているのである。
使徒はもうひとりのキリストであり、
使徒職とはほかではない、キリストの救いの事業そのものに参与することにほかならない。
使徒職とは、霊的盲人、すなわち未だ神をみることのできない人間の霊眼を開き、
神と出会わしめ、神を見る体験に導く使命をもったものなのである。
これが本物の使徒職である。
人をして神と出会わしめるために、
また、神ご自身を存在そのものをもって啓示し得るために、
わたしたち自身がまずキリストに変容され、
鮮やかにキリストを反映する存在であらねばならない。
「イエスはまた彼らに言われた、
『安かれ。
父がわたしをおつかわしになったように、
わたしもまたあなたがたをつかわす。』」(ヨハネ20・21)
このキリストのおことばが、使徒はもうひとりのキリストであり、
キリストの事業の継承者として遣わされしものであることを示している。
この偉大な使命を全うするために、
きょう、全存在において聖霊に充満され、
聖化の恩寵をもってキリストに変容され、
真実キリストの証人となりうるようにと祈るものである。