〜神に会う備えをせよ〜

「あなたの神に会う備えをせよ。」(アモス4・12)
「あなたがたがわたし(神)に対しておこなったすべてのとが(罪)を捨て去り、
新しい心と、新しい霊とを得よ。
・・・・・・あなたがたはどうして死んでよかろうか。
わたしは何人(なんびと)の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。
それゆえ、あなたがたは翻(ひるがえ)って生きよ。」(エゼキエル18・31〜32)
神に出会うまでのわたしの生涯は、ものわびしく希望のない、苦悩にみちた生涯であった。神とであった瞬間から、
わたしの生涯は一変し、
神の現存を楽しむすばらしい生涯へと、全く変化したのであった。
神と出会うまでの神無き孤独の生涯と、
神と出会った後の、神と共なる生涯との間には、
天地雲泥(うんでい)の相違をみるのである。
神に出会うということは、
人間にとってそれ程重大であり、生涯に決定的変化をもたらすことなのである。
人祖アダム(ヘブル語で人間)が自由意志を濫用し、
神に反逆して罪を犯した瞬間、
人間の心の最も深いところに原罪(罪の原因)が宿り、
その瞬間から人間は神を見失い、さすらいの罪人に堕落したのである。
それ以来、人間は神の現存の体験を求め、
「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。
わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。
いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか」(詩篇42・1〜3)と、
神を求めあえぎつつ、さまよい続けてきたのである。
人間は生まれると、理解せずして母の乳房を求める。
みどりごが本能的に母の乳房を求めるのは、
その求めるものが存在していることを意味しており、
母の乳房より生命のかてを飲まずしては、生きていることができないことをも、
本能的に理解しているからにほかならない。
それと同様に、人間にはもう一つの、次元の高い崇高な本能がある。
その本能とは、自分の存在をあらしめている神を慕う本能である。
それは永遠のいのちに渇く霊的本能である。
なぜ人間に、神に渇く霊的本能が生まれながらにして存在するのであろうか。
その理由は極めて簡単である。
それは人間の創造主である、天の父が存在するからにほかならない。
神に出会い永遠のいのちを獲得しなければ、
人間は真の意味において生きることができず、
永遠に生きることができないと予感しているからである。
「人間と他の動物との根本的な相違は、
人間は考える哲学者であり、
人間は信ずる信仰者であると」、哲学者も宗教家も言っている。
ここにこそ、人間の神秘性が、人間の本質が存在するのである。
人間の最も深い渇望、
それはほかではなく、生ける真の神、永遠の生命に対する渇きである。
偉大な哲学者であり、神学者であったアウグスチヌスは、
その「告白」の中でこう言っている。
「神よ、私達の心は御身と出会うまで、
御身のいのちに生かされるまで、
御身のうちに憩(いこ)うまで、
真の平安を経験することができないのである」と。
今日、唯物論、無神論が横行し、宗教はナンセンスであると嘲笑的である。
しかし、私は多くの人々の臨終に立ち会ったが、
人間が死との出会いに望んだとき、真の無神論者はひとりもいなかったのである。
この経験によって、無心論者の無神論は墓場までということを発見したのである。
死は何人(なんひと)も避けることのできない宿命である。
苛酷(かこく)な死との出会いにおいて、
人間ははじめて人間の本来の姿に立ち返ろうとするのである。
その時点において人間ははじめて宗教的な存在となるのである。
死からの救い、この恐るべき死からの解放を切実に求めるのである。
では、万人が恐れているこの宿命的な死から、
どうしたならば私達は救われることができるのであろうか。
この死から解放されるのであろうか。
死との出会いにおいて、人間は死を体験するのである。
それゆえ、ここに決定的に重大なことは、
人間は
死との出会いを経験する前に、真の命と出会わねばならないことである。
死との出会いを経験する前に、永遠の命を獲得しなければならないということである。
ここにこそ、人生の真の目的が存在するのである。
新約聖書の冒頭に「人生の真の目的と目標、神こそそれである」(マタイ1・21、詳訳)と。
人生の真の目的、人生の究極の目標は、
神と出会い、霊魂の核心に永遠のいのちを抱くことである。
イエス・キリストは言われた、
「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、
また、あなたがつかわされたイエス・キリストを知る
(生けるキリストに出会い、キリストの現存を霊魂のうちに体験し、体験的に知る)
ことであります」(ヨハネ17・3)と。
イエスは言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。
わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信ずるものは、いつまでも死なない。
あなたはこれを信じるか」(ヨハネ11・25〜26)と。
主イエス・キリストご自身のみが、
人間の内に宿っている原罪を清め、
永遠のいのちを賦与(ふよ)し、
永遠の死である滅びから解放することができる、ただひとりの解放者なのである。
「それは御子(キリスト)を信じる者がひとりも滅びないで、
永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)
「神の賜物は、
わたしたちの主キリスト・イエスにおける
永遠のいのちである。」(ローマの信徒への手紙6・23)
「わたしたちは・・・・・御子イエス・キリストにおるのである。
このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。」(ヨハネの手紙一5・20)
真実な神、イエス・キリストこそ永遠のいのちそのものであられるのである。
永遠の命こそは全宇宙よりも尊いもの、獲得しなければならない唯一絶対の命なのである。
主イエス・キリストの十字架の死は、
わたしの、あなたの、全人類のための身代わりの死であった。
全人類の罪をあがなうための犠牲の死であった。
それと同時に、イエス・キリストは十字架上で、
人類の敵である死と対決して、死の力を徹底的に粉砕されたのである。
キリストはその神性のみ力によって、死人の中から三日目に復活されたのである。
それはあなたと出会い、
あなたがキリストにおいて永遠の命を獲得し、
キリストにおいて死に打ち勝ち、キリストと共に永遠に、神に生きるためである。
キリストと出会い、神の現存を体験し、永遠の命を現実に生きている者にとって、
死はどのようなものになったのであろうか。
イエス・キリストの復活のいのちにあずかることによって、
私達は死に対して免疫性(めんえきせい)をもつものとなったのである。
もはや死はその人に対して力を持たないものとなったのである。
永遠の命を持っている者にとって、肉体的な死を体験することは、
あたかも蝉(せみ)が蝉がらだけを残して、大空に飛び去って行くようなものなのである。
永遠の命に生きるものにとり、死はもはや命の崩壊(ほうかい)ではなく、
それどころかうちに与えられている命の開花、結実にほかならないのである。
その瞬間こそ、命が命として、私達のうちに最も顕示されるときなのである。
なぜなら、その時こそ、私達を愛し、私達のために死んで下さった方、
私達のために死を征服してよみがえり、
わたし達と出会い、永遠の命を与えて下さった、
真の神であるキリスト、
顔と顔と合わせて、最も現実的に出会い、神をまともに見るときであるからである。
しかし、依然として原罪を持っている者、
罪から救われていない者、永遠の命を持っていない者にとっては、
最も恐るべき、最も悲しむべきときとなるのである。
なぜならその人々にとっては、死と出会ったとき、死はまことに現実となるからである。
その瞬間、その人の霊魂は、罪のために永遠に滅びるからである。
全世界のクリスチャンから、聖人と仰がれ慕われている、
25歳の若さで死んでいった小さきテレジヤが臨終において言ったことばはこうである。
「私は死ぬのではありません。真の命に今こそはいるのです。」
全くその通りである。これが命を持つということの意味である。