〜全世界の福音化〜

「イエスは彼らに近づいてきて言われた、
『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、
父と子と聖霊のとの名によって、彼らにバプテスマを施し、
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。
見よ、わたしは世の終り(完成)まで、
いつもあなたがたと共にいるのである。』」(マタイ28・18〜20)

「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。
わたしはキリストと共に十字架につけられた。
生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」
                                (ガラテヤの信徒への手紙2・19〜20)
愛する同労者達!わたしたちは今、聖なる祭壇の前に集められ、
厳粛な任命式に臨んでいるのである。
聖職者の任命は、聖イエス会司牧より受けるのではなく、
あなたがたを任命されるのは、
実に主イエス・キリストご自身であることを銘記すべきである。
神学院卒業生が、真剣に信仰を持って受けるごとく、
純真な心をもってアーメンと受け応(こた)えるべきである。
約二千年前、主イエス・キリストが、
少数の愛(まな)でしたちを任命されし光景を想起したいものである。
イエスは彼らに言われた。
「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
それゆえに、あなたがたは行って、
すべての国民を弟子として、
父と子と聖霊との名によって、
彼らにバプテスマを施し、
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。
見よ、わたしは世の終り(完成)まで、
いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28・18〜20)アーメン。
まことに少数の弟子たちであったが、
主ご自身が全世界の福音化という実に偉大な使命のために任命されたのであった。
きょうの任命式においても、
同じ主イエス・キリストが、
同一の使命・目的達成のために、われわれを任命されるのである。
ご承知のごとく、最初に任命を受けし弟子達は、
中国的表現をもって言えば、たった一握りの、無学無能の凡人達であった。
このたった一握りの無学無能のガリラヤ人達を、
あえて、当時世界を征服支配していた大ローマ帝国に福音をもって挑戦し、
福音によって全世界を福音化せよと、任命されたのである。
ああ、いかに感動すべき、心おどる任命であろうか。
その結果はいかにあったであろうか。
このたった一握りの弟子達は、
身命をかけ、
みごとに福音により大ローマ帝国を征服し、
全世界の福音化に輝かしい成功をおさめたのであった。
彼らも人間であり、われらも人間である。
同じ人間であり、
同一の御霊(みたま)を受け、同じ使命に任命を受けながら、
彼らにおいて大成功であったことが、
われわれにおいて不可能ということが言い得るであろうか。
彼らの成功の秘訣は、
「わたしは世の完成まで、いつもあなたがたのうちにいるのである」と言われた、
主イエス・キリストご自身によったのである。
あの使徒達のうちに宿り、
彼らの手によってすばらしいリバイバルを起こし給うた主ご自身を、
わたしたちも宿しているのである。
それであるなら、当然、かの使徒達のごとく、多くのしるしと奇跡とが、
われわれの手によって行われ(使徒言行録5・12)、
大リバイバルが起こり得るはずである。
主は言われる、「これは権勢(大きな団体組織)によらず、
能力(軍事力や人間的手段方法)によらず、
わたしの霊によるのである。」(ゼカリヤ4・6)
使徒達は皆、聖霊と信仰に満たされ、
純金のメノラと完成され、
全存在においてみごとにキリストを反映していたからである。
わたしさえ、純金のメノラに完成されるなら、
栄光のキリストご自身が純金のメノラの間から歩みいで、語り、み業を行い給うであろう。
この終末における神の大経綸をすべくくるリバイバルを起こすことは決して夢ではなく、
可能なのである。
メノラと言っても、
真鍮(しんちゅう)製もあれば、金メッキもあり、純金のメノラも存在するのである。
問題点は、われわれ各自が純金のメノラかどうかという点にある。
初代教会の使徒達は、まことにひとにぎりの少数であったが、
全能者であるキリストの右の手に握られし、
霊界の星(スタ−)であった(ヨハネの黙示録1・20)
キリストは彼らの右の手に握っておられたが、
使徒達もまた、信仰の手をもって生ける全能の神をとらえていたのであった。
栄光のキリストは、彼らのうちに宿り、
純金のメノラである彼らのうちより語り、歩み、
偉大なしるしと不思議な御業をあらわし、
かくしてたった一握りの使徒達を通し、
みごとに大ローマ世界を福音によって征服し、
全世界の福音化の御業を押し進められたのである。
それは、主ご自身が彼らを満たし、
神がすべての者にあってすべてとなっておられしゆえであり、
使徒達もまたキリストをすべてのすべてとしていたからにほかならない。
この条件さえわれわれが満たすなら、
われわれも聖人となり、
偉大な使徒となり、
この終末時代をすべくくるリバイバルのにないてとなることが可能なのである。
ガラテヤ人への手紙第二章十九節〜二十節のみことばを注目したい。
「わたしは、
神に生きるために、律法によって律法に死んだ。
わたしはキリストと共に十字架につけられた。
生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」
このみことばは、われわれが最もよく知っているみことばであり、よく語ることばでもある。
しかし、真実にこのことばのもつ霊的深みを、だれが理解し把握しているであろうか。
ここに、神に生きるための条件が、きわめて率直に述べられている。
その第一条件は、
旧(ふる)き自己が完全にキリストと共に十字架につけられ、死ぬことである。
多くの人々は、生きることのみを考えて、死ぬことを忘れているのである。
ローマの信徒への手紙第6章5節に、かくしるされている。
「もしわたしたちが、彼(キリスト)に結びついてその死の様にひとしくなるなら、
さらに、彼の復活の様にもひとしくなる」と。
それは、わたしたちがキリスト・イエスにあって神に生きるために、
絶対に避けて通ることのできないコースなのである。
このコースを通過してこそ、「生きているのは、もはや、わたしではない。」
旧(ふる)いいのち、
旧いわたしに終止符が打たれ、
今までの「わたし」、
「わたしの生活」、「わたしのための生活」に、完全に徹底的に終止符がうたれたのである。
その結果、全く新しい、すばらしい神的な生活が開始され、
つまり、キリストご自身の生活が開始され、
「キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」
真実キリストご自身がわたしのうちに生きて、キリストの生活が開始されたのである。
したがって、わたしの今の生活は、もはやわたしの生活ではない。
実にキリストの地上生活の再現、延長そのものと変容したのである。
「わたしにとっては、生きることはキリストである。」(フィリピの信徒への手紙1・21)
この境地にあっては、もはや人間の生活ではなく、
単にキリスト信者の生活でもなく、キリストの生活なのである。
願わくば全能の主が、きょう各自のうちにこのすばらしい大理想を、
みごとに実現・成就なし給わんことを祈るものである。