〜使徒職〜

「あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、
墨によらず生ける神の霊によって書かれ、
石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。
こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。
もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。
わたしたちのこうした力は、神からきている。
神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。
それは、文字(律法)に仕える者ではなく、霊に仕える者である。
文字は人を殺し、霊は人を生かす。」(コリントの信徒への手紙二3・3〜6)

新しい契約に仕える者、霊に仕える者、
とは新約の役者(えきしゃ)、使徒職のことを指しているのである。
使徒職・・・・・・この偉大な職権と使命について、
真に理解し把握している人がはたして幾人あるであろうか。
使徒職・・・・・一言に要約すれば、
「もうひとりのキリストとなり、
人々に聖霊を伝達し、
人々の霊魂に生ける神の御名を印し、
キリストご自身を与え、キリストを形造る者」に尽きるのである。
偉大な使徒アウグスチヌスは、
「神が人となり給いしは、人を(ある意味において)神とせんためなり」と言ったが、
キリストの目的をみごとに表現している。
主イエス・キリストの贖罪のみ業の究極、
その目指すところは、人間の神化にあるとの意味である。
さて、偉大な芸術家ミケランジェロには、興味深いエピソードが伝えられている。
彼は多くの傑作を創作したが、自己のいかなる作品にも満足することができなかった。
それゆえ、彼は自己を満足せしめるに足る傑作を創作したいとの情熱に燃え、
一個の大理石を前にして深く瞑想、
やがて彼の心に浮かびしものは律法者モーセの像であった。
彼は、心魂を傾倒し全情熱を打ち込んで、その創作に邁進(まいしん)専念したのであった。しかしてついに完成されたモーセ像は、彼の最高傑作となったのである。
目はらんらんと輝き、まことに生ける者のごとく、
今にも動き出すかと思われるばかりの出来栄えに、ミケランジェロは感嘆し、
思わず「モーセ、物申せ!」と叫んだと伝えられている。
しかし、この大理石のモーセ像は、一言も物申さなかったのである。
さすがに偉大な芸術家ミケランジェロは、
外観的にはすばらしいモーセ像を彫刻する事に成功したが、
このモーセにいのちを与えることは不可能であった。
いのちを与えること、それは神のみがなし得る領域である。
しかるに使徒職は、このいのち、永遠のいのちを与える、
神の事業に参与することにほかならないのある。
ああ、偉大な使徒職!
いのちのロゴスを伝達し、
生ける神の御名を印し、
人々の心の中にキリストを生み、キリストの形(モルフェー)を形造る。
それが本当の使徒職なのである。
換言すれば、神には人を与え、人には神を与える。
さらに、大胆率直に言えば、
「神は使徒をつくり、使徒は(ある意味において)神をつくる。」
なぜなら、キリストを与え、キリストの形(モルフェ−)を形造るという意味においてである。
これは、もはや人間の業ではない。
新契約の役者、使徒職、
ああ、いかに驚くべき聖職、いかにそれはすばらしき崇高な使命であろうか。
この一事のみが、神の大経綸に真に参与し、
教会(エクレシャ)の完成を実現し、キリストの再臨を促進せしめる業なのである。
これこそ、栄光ある使徒職の絶頂と言うべきである。
「そして、私たちはみな、顔からおおいをとりはずされて、
いつもの栄光を見ている<鏡のように反映させている>〔ので〕、
いよいよ増し加わる輝きをもって
<栄光の一つの程度からさらに次の程度へと進みながら>
主ご自身の〕みかたちへと絶え間なく化せられ(変容し)ていくのです。
〔というのは、この事は〕
み霊であられるから〔来るからです〕。」(コリントの信徒への手紙二3・18、詳訳)
キリストの目的は、いのちのみことばをもって教会をきよめ、
ご自身の神性に参与せしめることによって、
これを聖なるものとし、
栄光に輝く神化された花嫁なる教会(エクレシャ)を
ご自身の前に立たせることである(エフェソの信徒への手紙5・26〜27)
このたぐいなく聖にして偉大な事業に参与するのが、使徒職なのである。
「わたしたちから送られたキリストの手紙であって、
墨によらず生ける神の霊によって書かれ・・・・・」
使徒職における外的活動が、人々の目にどれ程花々しく見えたとしても、
人々の霊魂のうちに、聖霊を与え、生ける神の御名を印し、
人々をして神に生きる者としない限り、それは主の御前にどれ程の価値があろうか。
この偉大な聖なる使徒職を遂行し、成功するためには、
使徒自身が、人々の霊魂にキリストを与え、
キリストの形(モルフェ−)を形造る前に、
自分自身のうちにみごとにキリストの形(モルフェ−)を保有していなければならない。
つまり、キリストに変容されていなければならない。
ドム・ショータルの言葉をかりよう。
「使徒、それはもうひとりのキリスト、キリストの代理者を意味する。
だがそれには条件が要る。
使徒の身にただキリストだけが、
目にみえるように鮮やかに顕れておれば、という条件が必要である。
使徒が自分自身の姿を滅して、没我的になればなる程、
それだけイエスはご自身を顕しになる義務を背負いになるのである。
さればこそ使徒たる者は、
内的生活の美果たる謙遜の修徳によって、
己を全く滅却していなければならない。
自我を全く滅ぼし尽くしていなければならない。
かくて己をよく眺める人の眼には、
己はあたかも、神の御姿をうつし出した鏡のように映えずるまでに、
神に変容していなければならない」と。全く同感である。
「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。」
われわれに聖霊を与え、使徒職への召命を与え給うたのは主ご自身にほかならない。
しかし、使徒職において成功するためには
「キリストのうちにキリストによって」という、この法則が絶対に必要なのである。
「生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤの信徒への手紙2・20)
との法則である。
この法則によって、超自然的活動である、使徒職をいとなむのである。
「活動はいのちを前提とする。
生命力が豊かであればあるほど、それだけたやすく、偉大なみ業をやりとげる。
使徒職は観想生活の溢(あふ)れでなくてはならない。
使徒職は神との一致の成果である。
使徒的活動は観想生活から生まれる。
それは、観想生活のいわば外的表示である。」(「使徒職の炎」より)
使徒職においては、
「神がすべての者にあって、すべて」(コリントの信徒への手紙一15・28)
であらねばならない。
しかり、使徒職にあっては、
「キリストがすべて」(コロサイの信徒への手紙3・11)
のすべてであらねばならないのである。