世界には実に多くの宗教が存在する。
それらの宗教を興した教祖の生まれた日を記念して祭日とし、盛大な祭を営んでいる。
しかし、キリスト教にはそれらのすべて宗教が持たない祭りがある。
それは復活祭(イ−スタ−)である。

他宗教とキリスト教との根本的相違が実にここにこそ存するのである。
ローマの信徒への手紙第1章2節より3節までを注目いたしたい。
「この〔福音〕は、
が前もって聖書の中に預言者たちを通して約束されたもので、
ご自分み子に関するものです。
このかたは、彼の人間性について言えば、ダビデの子孫としてお生まれになり、
神聖な
み霊による〔彼の神性について言えば〕、死者の中からの復活によって、
力をもって<顕著(けんちょ)な、凱旋的(がいせんてき)な、奇跡的なしかたで>、
公に
神のみ子ととなえられるようになられたかた
すなわち、私たちの
主イエス・キリストなのです。」(詳訳)
世界には、かって、また現在においても、
自ら救世主、また神性宣言をする者が少なからずあったが、
だれが真実神性をもち復活でありいのちであるかを、火(死)をもって試みられたのである。その結果はあまりにも明白であった。
死人の中よりみごとに復活し、
ご自身の神性を証明し啓示し得たものは、
ひとりイエス・キリストのみであった。
イエス・キリストが十字架にかけられ死なれたことは、万人の認めるところである。
キリストが死なれたという歴史的事実は、
キリストが真の人間であったことを証明し、
そのキリストが死人の中より復活されたという歴史的事実は、
彼が真の神であり永遠のいのちそのものであられたことを鮮やかに証明したのである。
キリストの復活は彼ご自身の神性の証明となり、
かつまた人性の栄光化、神化・高揚の実証ともなったのである。
キリストの復活は、ひとりキリストの復活にとどまらず、
教会の頭(かしら)であるキリストの復活は、
彼の神秘体(からだ)であるキリスト者の復活の原因であることをも保証したのである。
インドの聖者と言われたサンダ−・シングが英国に伝道したときのことである。
ひとりの近代主義神学者が、「あなたを印度教からキリスト教に改宗させたもの、
キリスト教のみにあって印度教の中にないものは何だったのでしょうか」と質問したとき、
彼は一言、「それは
生けるキリストです」と答えた。
すると教授は、不満そうに再び尋ねた。
「いや、私がおうかがいしたいのは、キリスト教の中には、
印度教とは全く異なったどのようなすばらしい神学や教理があったかということなのです。」それに彼は答え、「神学や教理ではなく、生けるキリストご自身です。」
するとさらに、教授は不服そうに、「たぶん、私が質問しようとしていることの意味を、
あなたに充分伝え得なかったのでしょう。
私がお尋ねしていることは、実にこうなのです。
キリスト教の中には、印度教と比較してどのようなすばらしい哲学、
あなたをキリスト教に改宗せしめるに充分であった
神学、哲学、思想があったのですか、という意味なのです。」
サンダ−・シングは重ねて答えた。「それは
生けるキリストでした。」
この現実こそは、
他宗教にはなく、キリスト教の中にのみ存するユニークな、すばらしい現実なのである。
この現実、永遠に生けるキリストご自身。
それは単なる哲学、神学、思想ではなく、
それをはるかに超越する、真に生ける実在そのものなのである。
キリスト教が復活の生けるキリストを持たないなら、
仏教、印度教、回教、ユダヤ教と、もはや大差はないこととなる。
生けるキリストこそは、キリスト教のいのちそのものなのである。
生けるキリストとの出会いを、
全人格的に体験し、
キリストの現存をうちに持ち、
神のいのちに生きることのうちにこそ、
キリスト教のすばらしさ、ユーニクさそのものが存在するのである。
イエス・キリストの復活という、この輝かしい歴史的現実は、
弟子達にどのような感化・影響を与えたかを学ぶことは大切である。
一言にして言えば、
キリストの復活は弟子達の信仰と生涯に革命的変化をもたらしたということである。
「その日(復活の当日)、すなわち、一週の初めの日(日曜日)の夕方、
弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、
イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた。
そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。
弟子たちは主を見て喜んだ。
イエスはまた彼らに言われた、
『安かれ。
父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。』
そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、
聖霊を受けよ
あなたがたが許す罪は、だれの罪でも許され、
あなたがたが許さずにおく罪は、そのまま残るであろう。』」(ヨハネ20・19〜23)
息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ』」
復活のキリストは、今や新しい人類の創造者であることを示されたのである。
聖霊を人に吹き込み得るものは神であることを啓示されたのである。
「最後のアダム(キリスト)は
命(ゾーエー)を与える霊となった」(コリントの信徒への手紙一15・45)
としるされている通りである。
復活のキリストは、今や人類に聖霊を与える主であり、
弟子達をも聖霊を伝達するために使徒職に任命し、罪を許す権能をも与えるのである。
聖霊を賦与(ふよ)する権能、罪を許す権能を二つながら持つことは、
ある意味において神的存在、神の代理者、もうひとりのキリストを意味するのである。
この神秘はあまりにも偉大であり、かつ深くしてきわめがたいほどである。
「聖霊を受けよ。」
人は聖霊を受け、
聖霊に充満され、
聖霊の浸透を受けてこそ、
キリストに変容され、もうひとりのキリストとなり得るのである。
キリスト復活八日後の日曜日のことである。
イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。
戸はみな閉ざされていたが、イエスが入ってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。
それからトマスに言われた。
『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。
手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。
信じないものにならないで、信じる者になりなさい。』
トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ。』
イエスは彼に言われた、『あなたは(復活の)わたしを見たので信じたのか。
見ないで信ずる者は、さいわいである。』」(ヨハネ20・26〜29)
かくも現実的に復活のキリストに出会ったトマスは、
何の抵抗もなく尊前にひれ伏し叫んだのである。
わが(アドニ−)主よ、わが神(エロハイ)よ!
トマスは「ラボニ」(先生)と言ったのではなく、
「メシヤ」と叫んだのでもなく、「わが主よ、わが神よ」と叫んだのである。
このトマスの信仰告白こそは、完全なキリストへの信仰告白なのである。
トマスは、キリストの復活を信ずる点においては、弟子達の中で最後の人物となったが、
復活のキリストとの出会いを体験したとき、
弟子達の中でだれよりも先に、
イエス・キリストの神性に対する、最も完全な信仰告白をもって、
イエスご自身を神ご自身として、
うやうやしく礼拝をささげ、今までの不名誉を一挙に挽回(ばんかい)したのである。
主の弟子達が、イエス・キリストに対して(アドナイ)、
(エロヒム)と信仰告白したのはこれが最初である。
それによって、
キリストの復活は弟子達の信仰に革命をもたらしたと言わざるを得ないのである。
キリストの復活による肉体の栄光化、すなわち神化は、何を意味するのであろうか。
御承知のごとく、
キリストは御復活後40日間にわたりしばしばご自身を弟子達に顕(あらわ)し、
キリストの神性に対する弟子達の信仰を不動のものとし、
多くの人々が見るうちに天に昇り、神の右に挙げられ給うたのであった。
イエス・キリストの復活において、
変化したものは彼の人間性(肉体)であり、高揚されしものは彼の人生であった。
なぜなら神性は不変であり、
神性は本性的にあげられることも、またさげられるということもあり得ないからである。
「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
それは、イエスの御名によって、
天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主(アドナイ)である』と告白して、
栄光を父なる神に帰するためである。」(フィリピの信徒への手紙2・9〜11)
キリスト信者と自称する人々の中にも、
キリストは神の子ではあっても、神ではないと言う人々が多くある。
そういうことが父を崇めるゆえんであると考えているようであるが、
事実はキリストをも父をも崇めることにはならない。
御子を神、主(アドナイ)と告白しない人は、御子をも御父をもはずかしめているのである。真の神である神の御子は、
御父とともに全く等しく、
不変の神性を御父と聖霊と共に共有し給う一つの神であられる。
このイエスにおける復活と高揚は、
彼の神秘体である教会、わたし達の復活と高揚の原因である。
「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。
わたしたちすべては、眠り続けるのではない。
終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
というのは、ラッパが響いて、死人は朽(く)ちない者によみがえらされ、
わたしたちは変えられるのである。」(コリントの信徒への手紙一15・51〜52)
「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、
わたしたちの卑しいからだを、
ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」(フィリピ3・21)
ご自身の栄光のからだと全く同じかたちに変容される、
これこそは、神がキリストにあってわたし達を神に召して与え賜うところのものなのである。われらはこの目標に向かって前進しているのである。
すでに頭(かしら)であるイエス・キリストにおいて実現され体験されしものを、
神秘体にも確かに保証するものとして、
聖霊によって生ける神の御名を印されたのである。
われわれはそのすばらしい栄光化・神化を期待しつつ、
アーメン、主イエスよ来たりませ! と祈りのうちに待望いたしたい。