~聖なる道~



「イスラエルよ、主によって望みをいだけ。
主には、いつくしみがあり、
また豊かなあがないがあるからです。」(詩篇130・7)
「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」(詩篇130・7~8)
もしだれかが、「わたしが聖人になる・・・・・それは美しい手のとどかぬ高嶺の花。
神に用いられるリバイバリスト・・・・それもまた絵にかいた餅(もち)。
終末時代の残りの者である、十四万四千人のイスラエルに、
生ける神の印を押す東方の御使い・・・・・
それこそ夢のまた夢」と譫言(うわごと)を言い、
深い嘆息をもらしている人があるとするなら、
その人こそ、
キリストの豊かなあがないを、
不信仰によって極めて小さく評価しているのである。
餓死寸前の放蕩息子(ほうとうむすこ)が、父に立ち帰り受けしものは決してすくなくはない。
父の接吻(せっぷん)、
最上の着物、
指輪、
はきもの、
肥(こ)えた子牛、
生き返り、
ああ、なんと豊かなあがないであろう。
その一つ一つを手にとって味わい知る必要がある。
父の接吻・・・・・
聖霊によって、
神の愛が、わたしたちの心に豊かに注がれることである。(ロ-マの信徒への手紙5・5)
指輪・・・・・
キリストと一体とされ、
すべての契約にかかわりをもつ、
神の世嗣(よつぎ)とされたことを示している。
それはまた、生ける神の印を与えられたことでもある。
はきもの・・・・・
罪の奴隷(どれい)の生涯から開放され、
神の子の特権にあずかり、
さらに平和の福音の宣教者とされしことをあらわしている(エフェソの信徒への手紙6・15)
肥えた子牛・・・・・を食することは、
過越の小羊であるキリストご自身を排食し、
キリストの命に生きるものとされたことを示しているのである。
生き返り・・・・・とは、
「わたしはよみがえりであり命である」(ヨハネ11・25)、
キリストのいのちを豊かに受けて、死より命に復活せしことをあらわしているのである。
「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、
キリスト・イエスにあって
神に生きている者であることを、認むべきである。」(ロ-マの信徒への手紙6・11)
実に神の賜物は、われわれの主キリスト・イエスとの一致による永遠のいのちである。
「それゆえ、もしだれかがキリストにつぎ木されるなら、
その人は一つの新しい創造なのです。」(コリントの信徒への手紙二5・17、詳訳)

聖人となることは夢ではない。