~聖なる道~



「わたしは、神に生きるために、律法(りっぽう)によって律法に死んだ。
わたしはキリストと共に十字架につけられた。
生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤの信徒への手紙2・19~20)
「この奥義は、
あなたがたのうちにいますキリストであり、
栄光の望みである。」(コロサイの信徒への手紙1・27)
キリスト教の奥義の核心とは何かを、この二つのみことばはみごとに示している。
新約聖書の主要テ-マは、永遠に生けるキリストである。
しかも、「わたしのうちに生きておられるキリスト」である。
ああ、驚くべき愛の奇跡!
「神がわたしのうちにおられる、それで十分なのである」と、
聖フランシスコと共に、生涯くりかえすことである。
そうすれば、本当の意味がわかるようになるであろう。
「わたしにとっては、生きることはキリストである。」(フィリピの信徒への手紙1・21)
使徒パウロが確信をもって語っているこのことばは、
間違いなく彼の生活原理がキリストであり、
彼の生活そのものが、
キリストの地上生涯の再現・延長そのものであることを証(あかし)しているのである。
使徒パウロの比類なき驚異的業績、そのエネルギ-源がここにあるのである。
まことに使徒職の秘訣は、この他には絶対にない。
自分自身をキリストに変容せしめるためには、
つまり神に生きるためには、
自分自身がキリストと共に十字架につけられ、
第一のアダムより受けついだ、旧(ふる)きいのちに死なねばならない。
しかして、第二のアダムであるキリストのいのちに、よみがえらなくてはならないのである。
旧きいのちと、新しきいのちの交換が、絶対に必要なのである。
このいのちの交換によって、わたしのうちで生き、かつ働き給うものは、キリストとなるのである。
「生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤの信徒への手紙2・20)
との使徒パウロの体験が、現実的にわたしのものとなるのである。
「わたしたちは、この宝(キリストの現存)を土の器の中に持っている。
その測り知れない力は神のものであって、
わたしたちから出たものでないことが、
あらわされるためである。」(コリントの信徒への手紙二4・7)
めざましい奇跡としるしを行い、
リバイバルを起こすこと(使徒言行録5・12、6・8、8・13、19・11)は、
人間単独では絶対に不可能である。
そのためには全能力を必要とする。
「主よ、わたしには不可能です。今こそおんみの出番です。」
うちにいますキリストご自身に、立ちあがっていただくように、要請(ようせい)することである。
「ただ、心の中でキリストを主(アドナイ)とあがめなさい。」(ペトロの手紙一3・15)
「キリストは神に立てられて、
わたしの知恵となり、
義と聖とあがない、
すべてのすべてになられたのである。」(コリントの信徒への手紙一1・30)