「わたしのくびき(十字架)を負うて、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたの魂に休み(平和)が与えられる。」(マタイ11・29)

多くの人々は、真の学問が何であるかを知らない。
聖ボナヴェントゥラは、「イエス・キリストの御受難(十字架)には、完全な学問がある」と言った。
大学の教室や研究室に真の学問があるのではなく、
十字架の苦難の中にこそ、
真の完全な生きた学問、
崇高な生きた真の哲学、
深遠な生きた真の神学があるのである。
わたしたちは果たしてどれほど深く、この生きた真の学問を学んだであろうか。
この学問を多く学び、実際に体験的に学んだ人ほど、キリストに似たものとされるのである。
真のいのちを与え得ない学問、
人間を聖化し神化し得ない神学、
その名は、使徒パウロの言うごとく、虚無(きょむ)の哲学。
「わたしは人からの誉(ほまれ)を受けることはしない。」(ヨハネ5・41)
人よりの称賛を得ることを求めることは、肉的人物のなすところである。
かくのごとき人物は、相手とするに足らぬものである。
しかるに、俗世にはかかる人物が満ちている。
これに反し、神よりの誉のみ求むる人は、量りしれぬ偉大な人物である。
人を相手とせず、神を相手とする人物こそ、
真のキリストの弟子であり、聖人である。
神のみ旨のみを求め、神よりの誉のみを追求する者となりたいたいものである。
自己放棄、自己放棄と、百回口でとなえるよりも、
ひとつの自己放棄を実行することが大切であり、
自己放棄という言葉のみを口にして聖人ぶることよりも、
一つの自己放棄を実行することが、間違いなく聖人になる近道である。
「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、
御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。
キリストは・・・・・・ののしられても、ののしりかえさず、
苦しめられても・・・・・・いっさいをゆだねておられた。」(ペトロの手紙一2・21〜23)
受けるべき理由なきにもかかわらず受ける屈辱(くつじょく)、
それはいかに苦しいものであろうか。
しかし、このことほど、人間の自我に徹底的打撃を与え、
自我を粉砕(ふんさい)するために有効なものはない。
真に謙遜な人は、それを受けとめ、抱きしめる。
どれほどその人が霊的人物かをテストするためには、屈辱をもって試してみることである。
そうすれば、すぐわかる。
聖アウグスチヌスは、「我々がキリストに学びまつらねばならないものは、
創造の御業でもなく、御在世中に行い給うたすばらしい奇跡でもない。
かの御聖徳(せいとく)、
死に至るまで、あの十字架の死に至るまでの御父への服従、
御旨への全き委託(いたく)、
神の栄光と人類の救済に燃える心、
それらはみな学ばねばならないことであるが、
しかし、主が特に我らに学べと申されたのは、
柔和(にゅうわ)と謙遜(けんそん)についてである。
人に隠される、世に埋もれ犠牲になる徳こそ、
主がとりわけ学べと命じ給うた、ただ一つのものである」と言っている。
虹(にじ)が夢幻的で美しく、魅力的であるのは、
美しい七色の色彩にいろどられているからであり、
キリストの生涯が、神的な光輝を放って、きわめて魅力的であるのは、
その全知や奇跡よりも、
あの愛徳のゆえである。
人類を極みまで愛し、
十字架上に愛ゆえに死なれた、たぐいなきあの愛によるのである。
人の心の最奥に、キリストご自身が内在され、
人間の口を通して語りかけ、
聖霊ご自身がうちに在(あ)って祈られ、
器(うつわ)が完全に聖霊に支配される道具となったとき、
真実キリストを演ずる者となり、
キリストご自身を表現する、すばらしい名優となる。
キリスト教の宣教者は、実に多くある。
キリストに関して語ることは、容易である。
しかし、生けるキリストご自身を啓示(けいじ)すること、
キリストを目に見えるように演ずることは、だれでもできるということがらではない。
霊的生活によって、
全くキリストと一つとなり、
キリストに変容(へんよう)されていなければ、キリストを演ずることは不可能である。
「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14・9)とキリストは言われた。
彼は真実そう言うことのできる、ただひとりのお方であった。
「使徒はもうひとりのキリスト」と言われるのであれば、
「わたしを見た者はキリストを見たのである」と言い得る存在であるべきである。
「わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。
キリストがわたしのうちにおられて、
みわざをなさっているのである」(ヨハネ14・10参照)と言い得る存在となるためには、
どうしてもキリストに変容されていなければならない。
「我は主なり」と聖なる御名を啓示するとき、
単に御名をとなえるのみではなく、
実際その時、キリストに変容されておらなければならない。
わたしを愛し、わたしのために十字架にかかり給うた主イエスを仰ぐとき、
そこにすべてを見いだす。
十字架上のキリストを信仰をもって仰ぐとき、解決できない問題は一つもない。
ゆるすこと、
与えること、
祈ること、
愛すること、
そして、愛に死ぬこと、これが愛するということ、愛の頂点。
「わたしがキリストにならう者であるように、
あなたがたもわたしにならう者になりなさい。」(コリントの信徒への手紙一11・1)
使徒パウロは、死に至るまで、実際キリストに従った殉教者である。
殉教者は、キリストに徹底的に従うというこの精神に徹していたのである。
自己の意志を持たないまでに、
霊的生活において自己を粉砕した人のみが、殉教をも可能としたのである。
多くの人はある程度従う。しかし、全く従う、死に至るまで従う人はまれである。
聖人になる、殉教するということは生やさしい事ではない。
真実キリストに学んだ人においてのみ、それは可能なことなのである。
「他人のために生きる生活のみが、生きる価値ある生活である。」(アインシュタイン)
自分の存在が、
他者のために何らかの意味において有意義である場合においてのみ、
その人の存在には意義がある。
しかも、最も偉大な意義は、自己のために生きず、他者の救いのために生きる生活。
他者の救いのために、愛に死ぬ生活においては、一層偉大な意義がある。
それこそは、キリストの地上生活の再現であり、延長そのものであるから。
キリスト現存の生活、
それは愛の実行の生活、十字架生活にほかならない。
それは、全く没我的生活にほかならない。
キリストご自身においては、生きることは愛することであり、愛することは死ぬことであった。
キリストが、ご自身の尊いいのちを与えて下さったのは、
わたしたちがキリストのいのちそのものに生きるためであり、
また、わたしたちがキリストの生き方、キリストの死に方を、
そっくり再現するためにほかならない。
クリスマスに、キリストの役を演ずることは、(上手下手は別として)だれでもできることであるかも知れない。
しかし、日々の生活において、
己を捨て、
十字架を負い、
キリストに従うこと、愛に死ぬことは、だれでもできることではない。
ただキリストのいのちに生き、
キリストの愛に燃焼している人においてのみ、できることなのである。
主よ、あなたの愛のため
心から抱こう殉教を!
死も、火あぶりも恐れない。
イエスよ、あなたをあえぎ求める
私の望みはただひとつ、
この目であなたを仰ぐこと。
いともやさしい救い主、
この十字架を身に受けて、
私はみあとをたどりたい。
あなたのために愛に死ぬ、
これ以外には望みなく・・・・・・。
新しいいのちに生きるため、
イエスに固く結ばれるため、
心から私は死を望む。(小さきテレジヤ)