〜十字架の黙想(第三日)〜



「起きよ、我ら往(ゆ)くべし。」(マタイ26・46)
ゲッセマネの園における内的闘争は終り、主は聖父(みちち)の御意志を理解し、
父の聖旨(みむね)に適合し、御自身を完全に父の聖旨に託することによって、
能力(ちから)を与えられ今は勇ましく敵前に進み往き給うのである。
主は進み往き給う。さらば起きよ、今は眠りより醒(さ)むべきである。
それにしてもゲッセマネの園における弟子達の態度は如何(どう)であったか、
「何処(いづく)迄もゆかん愛する主とともに」と大胆に言い切った彼等であったが、
いざとなると無関心冷淡にして、
ただの一時さえも主と共に醒(さ)めて祈ることは不可能であった。
ああ! 人間性の如何に弱きことであろうか。肉の力は凡て空である。
無にも等しいものなのに、己を何者かであるが如く過信し、
自尊心によって己に頼ることの愚かさよ!
「我ら往くべし。」最早主には微塵(みじん)も弱さはない。敢然として進み往き給う。
これぞ準備万端なりし人、確信ある人、苦しみや十字架の覚悟成り、
むしろ之を憧憬している人の態度である。
かねてより祈りをもって力づけられ、十字架を抱こうとする人の態度である。
愛こそは
人の為に己が生命(いのち)を捨つべく決然として苦難に挺身(ていしん)せしめる。
主は彼らの為に祈り給いしのみならず、
今や我らのために十字架に懸(か)かるべく出(い)で往き給う。
ああ主は如何ばかり我等を愛し給うことぞ。
人祖アダムが造られて間もなく、
アダムは軽率にも神の定め給いし戒(いましめ)を破って大罪を犯した。
神は愛に在(いま)すが、また義かつ聖そのものに在す以上、
罪は罪として罰し給わねばならぬ。
人間は最早罪人たる以上神の正義を宥(なだ)め、
その罪を償(つぐな)いかつ贖(あがな)うには無資格にして不可能となった。
如何なる君子聖人といえども生まれながらにして無原罪の人は一人もない。
ここにおいて人類の罪を贖(あがな)うために無原罪の人、
完全なる贖い人たり得る有資格者を要したのである。
第二のアダムの出現を絶対に必要としたのである。
人と人との関係において生まれるものは皆例外なく原罪を遺伝的に受け継ぐ。
故に第二のアダムたる救主(キリスト)の出生においては
空前絶後の超自然的神的方法あるのみ、
即ち大預言者イザヤの預言の如く「視よ童貞女孕(おとめはら)みて子をうまん、
その名をインマヌエルととなうべし」(イザヤ7・14)
この預言の成就として、
神性と人性のとの結合により生るるところの者を絶対に必要としたのである。
「イエス・キリストの誕生は、次の如(ごと)し。
その母マリヤ、ヨセフと許嫁(いいなづけ)したるのみにて、
未だともにならざりしに、聖霊によりてみごもり、
そのみごもりたること顕(あらわ)れたり。」(マタイ1・18)
久遠(くおん)の先在者、神御自身、
言(ロゴス)が肉体となりて我らの中に来(きた)り給いしもの、
それがナザレのイエスなのである。
人間の罪を贖うために神が全き人となりしものがイエスなのである。
かくの如くロゴスはまちがいなく人として生れ給うた。
しかしロゴスは依然としてロゴスたる神性を保有しながら、
新たに人性を具有し給うたのである。
ロゴスが単に哲学上の理念、原理、理性の如きものであるならば
如何で肉体をとって人類の歴史の上に生まれ来(きた)ることが出来よう。
ロゴスと肉、神性と人性、この両極が真実ナザレのイエスにおいて結合したのである。
故にキリストは真(まことの)の神であると同時に真の人なのである。
イエス・キリストのみが神にしてかつ人にて在(いま)すが故に、
そのなし給う凡(すべ)てのことは無限の価値を有し、
十字架の贖罪は誠に全人類の罪を償いて余りがある。
神の経綸(けいりん)におけるその時が遂に来たのである。
視よ、これぞ世の罪を除く神のこひつじ、
屠場(ほふりば)に往(ゆ)くこひつじの如く、己を殺すものの前に進み給うを。

〜十字架の黙想〜
第1章 ゲッセマネの苦杯(第1日〜第2日)
第2章 主を売る者(第3日〜第5日)
第3章 我は虫にして人にあらず(第6日〜第7日)