〜十字架の黙想 第1日〜



「わが心いたく憂(うれ)いて死ぬばかりなり。」(マタイ26・38)
「わが父よ、もし得(う)べくば此(こ)の酒杯(さかずき)を我より過ぎ去らせ給え。
されど我が意(こころ)のままにとにはあらず、御意(みこころ)のままに為(な)し給え。」
(マタイ26.39)
「イエス悲しみ迫(せま)り、切に祈り給えば、汗は地上に落つる血の雫(しずく)の如し。」
(ルカ22・44)
ああ!主は如何(いか)ばかり我が為に苦しみ給いしか。
主の御苦難と十字架を深く黙想すること程、
人々の心を魅了(みりょう)し、慰(なぐさ)め、浄(きよ)め、強め、
愛に報(むく)ゆるに愛をもってすべく燃え立たしめ、
かつ霊的生活をして甘味なるものとなし、キリストと一致せしめ、
主に肖(あやか)らしめるものは他にはない。
アシジの聖フランシスコがある日、悲涙(ひるい)にむせんでおるのを見た人が、
その理由を尋ねると「主の御苦難や恥(はずか)しめを想(おも)うと泣けてならぬのです。
一番悲しく思うのは、人々の為に、かくも主が御苦しみ下さったのに、
彼らは少しもそれについて考えない事です」と言って尚(なお)一層激しく泣き出してしまったので、
尋ねた人も深く感動して遂(つい)に一緒に泣き出してしまったとのことである。

基督(キリスト)者の心を恍惚(こうこつ)たらしめ、
一切の苦しみ、十字架を甘受(かんじゅ)し、
殉教を憧憬(どうけい)する心を燃え立たしめるものは、
主の御苦難、十字架、聖霊によりてわれらの心に注がれし神の愛に源泉(げんせん)を発するのである。
キリストに向かう祈り(聖イグナチオ)
願わくはキリストの御体我を救い、
キリストの御血我を酔(よ)わしめ、
キリストの御脇腹(わきばら)より滴(したた)りし水我を潔(きよ)め、
キリストの御受難我を強めんことを。
慈愛(じあい)深きキリスト、
我が願いをききいれ、
御創(きず)の中に我をかくし、
主を離るるを許し給わざれ。

この杯(さかずき)
ゲッセマネの苦杯(くはい)こそ十字架の御苦難の序曲であり、
主の御生涯における最も深刻な試(こころ)みであり、
その御心痛(しんつう)の程は人の想像だに及ばない言語に絶するものものであり、
祈りと黙想とにおいて各自が聖霊の御啓示をうけ、
その幾分(いくぶん)なりとも味い知ることが望ましい。
「常のごとく、オリブ山に往(ゆ)き」(ルカ22・39)
ゲッセマネの園はエルサレム東方の郊外、ケデロン渓谷(けいこく)にそったオリブ老樹の一面に茂る園である。
数時間後に恐るべき十字架の死苦を直視しながら、
例の如く平素、閑静(かんせい)と休息、
祈祷と黙想の為に絶好の場所として選び給いし園に、
世の争騒(そうそう)より遠ざかり、夜の静けさの中に、
銀色の月光を浴びたオリブの葉陰に、祈祷の為に来(きた)り給うたのである。
我らも真に主御自身を渇望するならば、世の争騒(そうそう)より逃れ、
静けき処(ところ)に退き、一心一念に主を求むべきである。
真の祈祷は神の衷(うち)に自己を見失う迄に己を没入せしめ、
流転(るてん)の世界より退いて神の衷(うち)に憩(いこ)うことであり、
しかして神の聖旨(みむね)に一致適合することである。
神との真実にして本質的な完全な一致を望むなら、神の聖旨(みむね)のみを求め、
聖旨(みむね)以外は一切望まないものとならねばならない。
かくしてこそ速やかに完徳(かんとく)に達することが出きるのである。
されば主の御跡(みあと)に従いてゲッセマネの園に来たり、
其処(そこ)において大いなる感激の光景を見、
かつ主が如何に祈り給うかに全精神を傾けたい。
主はゲッセマネへの同伴者として最愛の弟子ペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人を伴(ともな)い給うた。
彼らは主の御変貌(へんぼう)の目撃者達であったが、
今や主が人類への深き愛のために如何なる御姿を取り給うかを目撃なさしめ、
かつその愛する者達に御自身の御心痛をもらし給うのである。
ああ! 聴く耳あるものはきけ、神の悩み、その痛みを
主の胸中深く秘められしその御苦悶(ごくもん)とはそも何であろうか。
「わが心いたく憂(うれ)いて死ぬばかりなり」
人となり給いし主(かみ)の御苦悶(ごくもん)、深き憂い悲しみ、死ぬばかりの心痛、
その苦悶の烈(はげ)しさは肉体にも影響を及ぼし、
血の汗を流し給うまで至らしめ程の苦悶、
三度(たび)まで「この杯を我より去らせ給え」と祈り給える
この杯
この杯には何が盛られていたのであろうか。
キリスト・イエスの聖心(みこころ)及びキリスト教の真の精神を理解し得ない人々は、
このキリストの苦杯に対する嫌悪戦慄(けんおせんりつ)について、
キリストの人性の通有性の弱さと解するものが多いのであるが、果たして真実そうであろうか。
主の眼前にパノラマの如く展開し差し迫れる恥辱(ちじょく)と十字架の受苦及び死とに対する苦悩恐怖であろうか? 
否! それは覚悟の上であり、これに直面すべく、毅然(きぜん)として此処(ここ)迄来(きた)り給うたのではなかったか。
この苦杯とは単に肉体的苦痛を指すものでは決してない。
あれ程までに覚悟し求められし贖(あがな)いの犠牲(ぎせい)を恐(おそ)れ給うはずがない。
小さき殉教者達さえ喜び勇んで抱く十字架、
子供でさえ逡巡(しゅんじゅん)せざりし十字架を、主が恐れ逡巡し給う道理はない。
主は彼らよりも弱い勇気のない方ではない。
さればこの心痛こそ、
全人類の愆(とが)・不義・病患(やまい)・罪(イザヤ53章)
を悉(ことごと)く御自身のものとして受け呑(の)み尽(つ)くさねばならぬ、
罪そのものに対する嘔吐(おうと)的嫌悪(けんお)に他ならないのである。
人祖アダムの罪よりカインの殺人罪から、最後の人の最後の罪に至るまで、
その大小如何(いかん)を問わず、
全人類凡(すべ)てのあらゆる醜悪(しゅうあく)極まりなき、
「淫行(いんこう)・竊盗(ぬすみ)・殺人・姦淫(かんいん)・樫貪(むさぼり)・邪曲(よこしま)・詭計(たばかり)・好色・そ謗(しり)・傲慢(ごうまん)・愚痴(ぐち)」(マルコ7・22)
の罪の毒汁(どくじゅう)を一目に見給うたのである。
全世界全人類の過去・現在・未来の凡(すべ)ての罪が全部この杯の中に盛られていたのである。
いと崇高にして至聖至純なる精神の所有者なる主にとりて、
この杯こそ最も嫌悪すべきかつ唾棄(だき)すべきものであったのである。
されば主の憂い、悲しみ、怖れこそ確かに主御自身のものではなく我等の与えしものであり、
反対に聖徒殉教者達の持ったあの神的能力・勇気・平安・喜悦(きえつ)・勝利こそ、
彼等生来のものではなく、主御自身のものである。
したがって主に加えられし恥辱(ちじょく)・詛(のろ)い・苦悩こそは全部我がものであり、
自分に与えられし名誉、栄えは全部主御自身のものである。
我は御自身の愛の中に包まれし自己を見出すとき、
キリストとその十字架とを主において誇り、我が罪のために悩み苦しみ、
十字架に懸(かか)り給いし主を仰ぎ見て、わが罪の深さ重さを今更(さら)の如くに悲しむ。
我が凡ての愆(とが)・不義・病患(やまい)・恐れ、
凡ての人の凡ての罪が悉(ことごと)くこの杯の中に盛りつくされていたのである。
之(これ)こそ不潔(ふけつ)極りなき死毒なのである。
些細(ささい)な一点の罪すら嫌悪し給う主が全世界、凡ての時代、
過去・現在・未来に至る迄の死毒を呑(の)み給う苦悶を深く黙想する時、
わが罪のかくまで主を憂い悲しませ奉(たてまつ)り、
遂(つい)に十字架の死に迄至らしめしを強く確認せざるを得ない。
ああ!わが罪はかく主を痛ませ奉り十字架上に殺すに至れり。
これ以上の罪が何処(どこ)にあろうか。我は実に罪人の頭なり。
    〜1〜
静かなる夜半(よわ)のはじめに
悲しき嘆(なげ)きの声きこゆ
慄(ふる)えおののきつつ見しに
いと聖(きよ)き者嘆きはじめたり。
   〜2〜
熱き血に燃ゆる聖い者が
唯一人、従者(とも)もなく
はげしき悩みに地に平伏し
園の中にて死するばかり悲しみ祈る。
  〜3〜
それは愛すべき神の御子である
地に伏し、頭をかかえて悶(もだ)ゆる
月よりも蒼白になりゆく御顔
心なき石すらも悲しみ痛む。