小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会トップ

小児科医の遺言状
九鬼 伸夫 / 中原 のり子
要旨
○児科医が過労から自死に追い込まれる医療現場で、良い小児医療が提供され続けることはありえない。労働環境の改善は、医療内容改善に不可欠である。
○医師の泊まり勤務は「当直」ではなく「夜間労働」である。言葉のトリックによって労基法とかけ離れた過重労働が野放しにされてきた。
○医療提供側だけでなく、患者側や報道と連携し、必要な金と人を医療に注ぐための合意を形成する努力が必要である。
  病院の名が入った便箋3枚に、几帳面な細かい字でびっしり書かれた文書が、今ここにある。これを書いた中原利郎医師は当時44歳で、都内の民間病院の小児科部長代理だった。高三から中一の3人の子があり、公私ともに働き盛りだった。しかし激務から欝病を発症し、勤務する病院の屋上から身を投げた。1999年8月のことだ。手元にある文書は中原医師の机から見つかったもので、文頭に「少子化と経営効率のはざまで」と題が付されている。小児科医は天職と公言し、患者家族から信頼と尊敬を集めていた小児科医が、自ら死を選ぶまでに追い詰められた事情を、この文書はひどく客観的な筆致で書き綴っている。主要部分を紹介しながら、中原医師を追い詰めたものを検証し、どうしたら中原医師は死なずに済んだのかを考える材料として提供したい。医師が自死に追い込まれる医療現場が、患者にとって良い医療を提供し続けることはありえない。第二の中原医師が現れないようにすることは、小児医療の改善に結びつくことになるだろう。

●小児科消滅

 「都内の病院で小児科の廃止が相次いでいます。私も佼成病院に奉職して12年が経過しましたが、この間、近隣病院小児科の縮小・廃止の話は聞きますが、中野・杉並を中心とする城西地域では新設、拡充の連絡は寡聞にして知りません。もちろん一因として世界に類を見ない早さで進展するわが国の少子高齢化をあげる事ができます。小中学校には空き教室が目立ち、都立高校の統廃合の計画も明らかになりつつあります。しかし、小児科消滅の主因は厚生省主導の医療費抑制政策による病院をとりまく経営環境の悪化と考えられます」

  遺書の冒頭部分である。 

  当時、都内では病院小児科の閉鎖が相次いでいた。90年に327あった小児科が98年までに57も減った。また、病院そのものの閉鎖に追い込まれた病院のほとんどが小児科を抱えていたとも言われる。全国でみても、90年に4119だった小児科のある病院が、98年までに399も減っている。

  中原医師が正確に指摘しているように、背景に少子高齢化の進行はあるものの、少子化が小児医療の需要減少に結びついたわけではない。経済の停滞の中で進行する高齢化により保険医療制度の収支バランスが悪化するのを抑えようと、医療費全体の抑制政策が採られ、そのために病院全体が経営効率向上に血道を上げざるをえなくなった。小児科のみならず、一つひとつの診療科、あるいは一人ひとりの医師が、病棟稼働率やら医師一人あたりの収入といった数値で評価され、管理され、尻を叩かれるようになった。そうした中では、採算性、収益性の低い診療科、そして部長職など管理的な医師に、より強い圧力がかかっていくのは当然の成り行きである。

  中原医師は、1981年千葉大医学部卒。千葉県の国保旭中央病院小児科を経て、87年から東京・中野区の佼成病院に勤務した。1999年2月、小児科部長の定年退職に伴って部長代理となった中原医師は、そのような圧力に真正面からさらされるようになった。
●経営効率

  「生き残りをかけた病院は経営効率の悪い小児科を切り捨てます。現行の診療報酬制度(出来高払い)では、基本的には薬は使えば使っただけ、検査を実施すればしただけ診療報酬が上がり、病院の収入となります。例えば大人の場合は、だいたい注射アンプル1本分が通常の投与量となります。しかし、体重も小さく代謝機構も未熟な小児では、個々の症例で年齢・体重を勘案しながら薬用量を決定し、その分量をアンプルから注射器につめかえて細かく、慎重な投与量を設定しなければなりません。検査にしても協力が得にくい小児の場合には、泣いたりわめいたりする子供をなだめながら実施しなくてはなりません。例えば大人なら2人3人分のCT撮影がこなせる時間をかけて、やっと小児では、CT写真一枚が撮影できるという事も珍しくなく医師・放射線技師泣かせです。現行の医療保険制度はこのように手間も人手もかかる小児医療に十分な配慮を払っているとは言えないと思います」

   この「遺書」には、宛先が書かれていない。内容的にも特定の人物に宛てた部分は一切無く、自分自身の個人的な感情さえ表面的にはほとんど書かれていない。冒頭に続くこの部分は、小児医療の説明そのものだ。しかし死を目前にした中原医師は、これを書かずにいられなかった。こういう基本的なことが理解されていない、という歯がみするような中原医師の思いを、私たちはここから読み取るべきなのだろう。部長職として「経営効率」を迫られていた彼の、小児科臨床医としての悔しさ、悲しさ、悲鳴が、この文章の後ろには響いていると、私には感じられる。

  中原医師の部長代理昇進と相前後して、病院には経営コンサルタント会社が入って調査活動が開始された。月一度の「病院会議」や「診療部長会議」では、慢性的な赤字経営の立て直しが最優先課題の一つだった。中原医師は家庭に帰ると「会議が地獄のようだ」と訴え、やがて「会議が怖い」と妻に涙さえ見せるようになっていったという。

  臨床医としての中原医師は「侍のような」と評されることがあった。生真面目で、自分の診療方針に自信と信念を持っていた。患児が家庭で親と過ごす時間を大切に考え、入院の適応や期間を厳しく制限することもその一つだった。しかし昇進後には、病棟稼働率を上げるためだったのか、以前より多くの患児を入院させ、自ら受け持つようにもなっていった。
このころから、眠れない、好きで定期購読していたサッカーの雑誌に目も通さないなど、はっきりした鬱の症状が現れている。

  生真面目だった中原医師は、自らの臨床医としての信念と、管理職としての責任感と、両立し難い二つの要求を内に抱え、そのはざまで苦しんだのである。
●当直という名の夜間労働

  「常勤医6名で小児科を運営して参りましたが、病院リストラのあおりをうけて、現在は、常勤4名体制で、ほぼ全日の小児科単科当直、更には月1〜2回東京都の乳幼児特殊救急事業に協力しています。急患患者数では、小児の方が内科患者を上回っており、私のように四十路半ばの身には、月5〜6回の当直勤務はこたえます」

  病院は、中原医師の死去3年前の96年から小児科単科当直による24時間365日の小児診療を始めた。負担が増えたにもかかわらず、常勤医師は減っていった。

  激務なので、人が去る。人が去るから激務になる、という悪循環。部長代理として常勤医の後任探しに奔走するが、小児科医はどこでも不足していた。しかも中原医師は、出身大学の医局人事から離れていたから、人探しは一層困難であったものと考えられる。中原医師の職場は女性医師が多かったことも、中原医師の負担を大きくしていた。本誌昨年12月号に特集されている「女性医師問題」の重みもまた、中原医師を直撃していたのである。部長代理になって2ヶ月後の3月には、中原医師は退職医師、女性医師のカバーで月8回の当直をこなしている。

  ここまで、臨床現場の慣例に従って「当直」という用語を用いてきた。しかし、労働法規で「当直」という用語は、労働実態がほとんど無いいわば「留守番」としての宿泊を指している。一般病院での医師の当直は、労働法規に言う当直ではなく、まさしく夜間労働である。医療界では、この点があいまいにされたまま、労働基本法とかけ離れた医師の過重労働がこれまで野放しにされてきた。

  中原医師についての労働基準監督署の判断も、当直を労働時間として認めないという病院側の主張をそのまま採用し、超過勤務による過重労働は認められないとして、労災申請を却下するものとなっている。もし医師の「泊まり勤務」が労働法規に言う「当直」であるなら、月30日病院に泊まり込んで働いても、超過勤務ではないのだ。

  医師としての心身の過重負荷に押し潰されて亡くなった中原医師は、その死を業務上の死として認めない労働行政によって、もう一度殺されたのである。

●医療ミス

  「看護婦・事務職員を含めスタッフには、疲労蓄積の様子がみてとれ、これが"医療ミス"の原因になってはと、ハラハラ毎日の業務を遂行している状態です。(中略)24床のベッド数を誇ってきたわが病棟には、最近では高齢の方の入院が相次ぎ「小児・老人混合病棟」の様相を呈して来ました。つい最近、緊急事態宣言が出された結核の院内感染をおこさないか否か、また、心配のタネが増えています」

  自分の死を意識しながら中原医師が訴えたのは、自らの危機ではなく、医療の質の危機だった。

  過重労働で医療ミスや事故の危険が高まることは、いくつかのデータが示しているし、多くの医師が実感しておられると思う。医師は、自分たちを守るためにではなく、患者さんを守るために、医療労働環境の改善が必要なことを、もっともっと訴えていくべきだろう。そして、患者さんの側から、自分たちを守るために、医師の命を守らなければ、という声が上がるようになることを、私たちは運動の目標の一つにしている。

  私たち「小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会」は、医療ミスで幼い子を失った遺族らと共催で2005年5月4日、「小児医療を考える だいじょうぶ?!こどものお医者さん」と題したシンポジウムを都内で開いた。医療の問題といえば、医療ミスや医療事故を巡って患者と医療側が対立・対決し、マスコミはこれを煽る、といった構図に陥りがちだ。しかし、このシンポジウムでは、医療事故被害者遺族が「医療の改善のためには、国民一人一人が医療の現状を知る努力と、応分の負担が必要」「患者と医療者を共に守っていきたい」と発言し、中原医師の遺族は、小児医療の質の改善こそ、故・中原医師の遺志を生かす道、と応じた。ジャーナリストは、医療事故も、医師の過労死も、システムの問題が弱い部分に現れたのであり、システムの改善のために一人ひとりが想像力と痛みを共有しなければ、と語りかけた。シンポジストとして参加した日本小児科学会の救急担当理事は「こうした動きに力を得て、学会としての取り組みを加速させ、政治を動かして行かねば」と決意を述べた。

  ささやかな一歩ではあるが、ここには小児医療改善を目指す運動の、一つの方向性が示されているのではなかろうか。

●閉塞感

 「間もなく21世紀を迎えます。経済大国日本の首都で行われているあまりに貧弱な小児医療。不十分な人員と陳腐化した設備のもとで行われている、その名に値しない(その場しのぎの)救急・災害医療。この閉塞感の中で私には医師という職業を続けていく気力も体力もありません」

  「少子化と経営効率のはざまで」は、上の文で唐突に終わっている。

  こうして中原医師が世を去って6年半、中原氏を死に追いやった小児医療の閉塞状況に、出口は見えているだろうか。危機の実態がある程度広く認識され、議論されるようになってきたことは、あるいは明るい兆しなのかもしれない。日本小児科学会では、救急拠点を集中化してそこに医師を集めることで体制を整える構想をまとめ、厚労省もある程度このプランに沿った計画で体制整備を進めようとしているようだ。診療報酬マイナス改訂の中で、小児医療の診療報酬はプラスになる、と報じられている。これらは、中原医師が一粒の麦として死に、小さな芽を吹いたあかしなのかもしれない。
しかし、芽は大きく育って豊かな実りを迎えるだろうか? 中原医師が今もし生きていたら、生きがいと希望を取り戻すことができる医療現場になってきているだろうか? 残念ながら、私はイエスと答えることができない。

  小児科のある病院はその後も減り続け90年からの15年間で2割も少なくなった。「支援する会」には、中原氏の死を、明日は我が身と受け取る勤務医、昨日までの自分と語る開業医からの悲痛な声が今も次々に寄せられている。医師の過労死、過労自死の報道も後を絶たず、明るみに出るのはごく一部に過ぎないことは関係者の間では常識だ。勤務小児科医の多くが、自分の子を小児科医にはさせたくない、と考えている、という調査結果も公表されている。中原医師の労災認定も厚い壁に阻まれたままだ。

  小児科以外の医療現場でも、人手不足は深刻だ。産科、麻酔科、病理、緩和ケア・・あちこちから悲鳴が聞こえて来る。もともと日本の医療は、マンパワーの不足を医療従事者の負担と犠牲で補って、先進国の中では安上がりな医療を支えてきた、と言われる。それが全体として限界を露呈しつつある。この全体に目を向け、医療全体に必要な人と金を使う合意を広く形成できなければ、小児科への厚い手当てが、他科との対立を生む可能性さえ孕んでいると言えるだろう。

  中原医師の遺言状は、まだ不履行のまま、私たち一人ひとりにつきつけられている。そう私は思っている。
●参考文献
1)鈴木敦秋「小児救急『悲しみの家族たち』の物語」講談社 2005
2)「小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会」http://www5f.biglobe.ne.jp/~nakahara/
3)「シンポジウム 小児医療を考える だいじょうぶ!?こどもお医者さん」記録 http://www.bb.e-mansion.com/~kuki/
「妻として、母として」  中原 のり子

  突然、夫が帰ってくるや否や布団に倒れこみました。「5分後にまた病院に行くんだ。何かかき込んで食べるものを作ってもらえない?」と云いました。私は、「エー!?こんなに疲れているのに、また出かけるの?」と聞きました。夫は「人がいないんだ。他科の部長や病院の幹部が反対して人員は増やせない、と云われてるんだ」。思わず「何故?」という言葉が口をつきました。夫は、一言「不採算なんだよ」と言い放つと、くるっと背中を向けて、深い眠りにおちていきました。これは先日見た夢です。「帰ってきてくれたのね」という思いと同時に、無精ひげを蓄え見た事も無いくらい憔悴しきっている様子に心が痛みました。眼が覚めて「やっぱり夫の魂は、まだ安らかでない」と感じました。

  平成11年8月16日朝6時40分、中原利郎は真新しい白衣を身にまとい、勤務先の病院の屋上にそびえ立つ、病院名の書かれた煙突の上から投身自殺しました。享年44歳でした。亡くなる半年前に小児科部長代理に就任していました。

  夫・利郎はスポーツを愛し、とても快活な礼儀正しい人でした。彼が医学部5年生の時に知り合ったのですが、お酒が強くて生真面目な、そして勉強にも遊びにも集中してのめり込む、子どもっぽいところもある人でした。とにかく子どもが大好きで、小学校の先生か小児科医師になるのが夢だったと聞いていました。家では子供の腕を取って血管確保の練習をしたり「なんでうちの子は白血病や重い病気にならないのだろうか、有り難いことだ」と、寝顔を見ながらつぶやいたりしていたものです。

  そんな家族を愛し、仕事に打ち込んでいた人の態度が変わり始めました。月に5〜6回あった当直明けには、体を引きずるように帰宅し、家族に当たり散らすこともありました。特に当直が週に二度以上入ると痛風の発作を繰り返し、余程痛かったのでしょう、痛みのあるくるぶしにドライアイスを当ててヤケドのようになってしまったこともあったほどです。それでも仕事を休むこと無く、夢中で働き続けました。慢性疲労でくたくたになる姿を見て「仕事を辞めたら」と頼んだこともありました。しかし「小児科医は、僕の天職だ」と言い、私が夫の行動をさえ切るような発言は出来なくなりました。

  夫の職場は女医さんや看護士さんなど、女性が多くて結婚・出産・育児また家族の介護などが必要な主婦も多く、夫がいつも誰よりも多く当直に入るように計画していたようです。平成11年に6人居たスタッフが3人に減少した3月は、8回の当直がありました。そのころから家族に当たり散らす元気も無くなり、家に戻るとぐったり体を横たえるような状態でした。「5月になれば新しい先生が一人増えるから」と、それだけを頼みの綱に力を振り絞っていたようです。でも新しい先生が一人増えてからも、特段仕事量が軽減された風はありません。心身の落ち込みは日増しに募っていく様子でした。7月には、自分のことがフッと分からなくなるから、と言って車の運転も控えるようになりました。8月には、ようやく自分から仕事を辞めたいと言い出しました。私は大賛成して、「病院長と事務長に退職を切り出してくださいね」と約束して家を送り出したその10時間後に彼は、病院の煙突の上から飛び降りてしまったのです。

  「そんなことがあるわけが無い!」と混乱する中で、遺書の「少子化と経営効率のはざまで」を手にしました。「嗚呼、夫はこの文章をきっと多くの方に読んでもらい、過酷な小児医療の現状を訴えたかったのだ。私が夫のメッセンジャーとして、この現状を伝えるのだ」と感じたのです。

  先ずは、労災申請して、夫は働きすぎで命を落としたことを証明してもらおうと考えました。でも、労働基準監督署は働きすぎでは無い、という判断を下しました。当直は労働時間ではない、過酷な長時間勤務は無かった、という理由でした。勤務先の病院からは「労災申請は詐欺罪だ」と言われる始末で、もしかすると私の言い分は違っていたのかもしれない、とも思うようになりました。「医者であれば、月8回の当直は常識。もっと頑張っている医者もいる」とか、「医者のくせに自ら命を絶つのは許しがたき行動。心が特別弱かった」という仲間の声まで聞こえてきました。それでも、こんな私の行動を支援する方々に巡り合い、全国から聞こえてくる小児科医の悲鳴が、やっぱり私のやっていることは間違っていないんだ、と確信に変えてくれたのです。

  「医者だけにはなってくれるな」と言い遺した父親の言葉に反し、ただただ輝いて働いていた父親の後姿を慕って長女が今春から研修医として羽ばたこうとしています。目指すは小児科医師です。私は、妻として、母親として、今までのような医師の犠牲心の上に成り立つ医療からの脱却を強く望んでいます。私たち家族のような思いを、二度と誰にも味わって欲しくないのです。

「月刊保団連」2006年2月号(特集「小児救急の現状と展望掲載

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