都心が満開の桜に包まれた三月二十九日、東京・霞が関の厚生労働省講堂。「02092」。医師国家試験の合格者一覧をもどかしそうにめくり、自分の番号を見つけると、千葉(旧姓中原)智子さん(24)は心の中で父にそっとささやいた。「許してくれたんだね」。
七年前の夏。小児科医の父利郎さん=当時(44)=は勤務先の東京都内の病院屋上から飛び降り、命を絶った。執務室から、横書きの便せん三枚の手紙が見つかった。
「少子化と経営効率のはざまで」と題されたあて名のない遺書。その最後は、こう締めくくられていた。
「間もなく二十一世紀を迎えます。経済大国日本の首都で行われているあまりに貧弱な小児医療。不十分な人員と陳腐化した設備のもとで行われている、その名に値しない(その場しのぎの)救急・災害医療。この閉塞(へいそく)感の中で私には医師という職業を続けていく気力も体力もありません」
勤務歴二十年近いキャリア。責任感が強く、陽気な性格だった。地元では少年サッカーチームのコーチを務め、スポーツマンで知られた。
利郎さんに異変が兆したのは一九九九年春。小児科の責任者となったばかりで同僚が退職。産休の女性医師の後任も見つからず、三月の当直は計八回。その後も昼夜連続の激務をこなした。帰宅するとぐったりして、好きなサッカーの話にも興味を示さなくなる。
長女の智子さんは高校三年生となり、進路選択を迫られていた。「医師だけにはなるな」。利郎さんは強く反対した。大学医学部のパンフレットは二つに裂かれ、ごみ箱に捨てられた。
診療報酬が低く、不採算の小児科から撤退する病院が相次いでいた。少ないスタッフと深夜休日の時間外診療で疲弊した小児科医が絶望し、現場を去っていく。そして自分も…。遺書は、小児医療の危機に身をもって警鐘を鳴らしていた。
「つらい思いをさせたくない」。利郎さんが医学部進学に反対した理由はそこにあった。
それでも智子さんは医師への夢を捨てきれず、大学医学部に進学。しかし、父の死にかかわる一切を封印した。「なぜ死んだのか」。そう考えることも、問うことも…。向き合うことはつらく、その自信もなかった。
不慮の死は波紋を広げた。「先生に子供の命を救ってもらったのに」。そんな手紙を寄せ、早すぎる死を嘆く母親もいた。
入院はできるだけさせない。患者の子供や親の話にじっくりと耳を傾ける。父のそんな仕事の流儀も見えてきた。心のこわばりが少しずつ解けだした。子供の命と向き合う小児科医の姿は、輝きを増していった。
「あなたの子供の命、疲れ切った小児科医にまかせますか」。母のり子さんは小児医療の改善を求めて声を上げた。二〇〇四年二月、東京・JR渋谷駅前。署名活動に智子さんも加わった。「お願いします」。最初は気後れもあったが、気付くと誰より声を振り絞っていた。
医師らの過酷な勤務で辛うじて支えられている小児医療。「何とかしなければ」。その一念で利郎さんが未来に託した重いバトン。渦中に身を投じる不安は大きいが、小児科医としてつかみ取ろうと決めた。
神奈川県内の病院で四月から研修が始まる。
「道は楽ではないけど進もうと。父もきっと見守ってくれるはず」。智子さんはそう言って笑顔を見せた。
(2006/4/3東京新聞掲載記事)