小児科医中原利郎先生の過労死認定を支援する会

崩壊する小児医療、なぜ名医は自殺したのか
 

●○執筆 ノンフィクション作家・小林照幸氏▲△


☆ 憔悴した顔で「病院に殺される」

 「一体どっちが大切なんだ! と会議のたびに大声で言いたい気分です。会議が毎度毎度、前半と後半で矛盾しているんですから」

 日本海側にある、とある国立大学医学部の教授が憤慨している。会議、とは毎月行われる医学部の教授と大学病院の院長、事務長らが一同に介する会議のことだ。 「連絡事項など多々ありますが、前半の議題は、わが医学部が、大学病院がどうしたら地域からもっと信頼され、貢献できるかについて。これについて各市町村の医療状況など、最新のデータを参考にして話し合う。学生への期待、未来への展望も描き、熱く論じます。この後の話題は、大学病院の経営状態について。不採算部門が名指しされ、診療報酬の高い患者で効率よくベッドを回転させろ、と健全な黒字経営推進の話が始まる。医療は仁術で、算術じゃない。診療報酬の低い患者は切り捨てろ、と堂々と言いながら地域に信頼され、貢献しようなんておこがましい。生命に値段をつけてる状態に溜め息も出ますよ」

 不採算部門を縮小しての経営合理化は、現在の企業では常識的な概念だ。だが、生命を預かる病院で、不採算部門の縮小による経営の合理化を推し進めるのは、企業のそれと同義だろうか。

 一九九九年八月十六日早朝、小児科医・中原利郎さんは、勤務していた立正佼成会付属佼成病院(東京都中野区)の屋上から身を投げた。享年四十四歳。医師としても、父親としてもこれからというときだった。

 自席に残された遺書の冒頭部には、こう綴られていた。《生き残りをかけた病院は、経営効率の悪い小児科を切り捨てます。(中略)大人なら二人分、三人分のCT撮影がこなせる時間をかけて、やっと小児では一枚が撮影できることも珍しくはなく(中略)現行の医療保険制度は、手間も人手もかかる小児医療に十分な配慮を払っているとは言ないと思います》  便箋三枚に丁寧な文字で書かれた遺書には『少子化と経営効率のはざまで』と題もつけられ、小児医療が抱える問題点を切々と訴えていた。

 「私は主人の遺書を『小児科医療の危機を世に訴えてくれ』というメッセージだと思っています。中原さんだけが多忙じゃない、と指摘されるのは理解できますが、亡くなる直前の主人は、へトヘトになりながら働いている印象がありました」

 妻・のり子さんは、いま語る。のり子さんら遺族は二〇〇一年九月、自殺は過剰勤務から鬱病になったためとして、労災申請を新宿労働基準監督署に提出した。この労災申請は小児科医療の危機の一例としてマスメディアで大きく取り上げられ、同時に「小児科のある一般病棟は一九九〇年には四一一九だったが、一九九九年には三五二八に減った」と、小児科を取り巻く環境の悪化が多くの人に認知されることとなった。

 中原さんが亡くなって間もなく医師寮を出たのり子さんら遺族は現在、東京都中央区に住む。中原さんを祀る仏壇の横には、サッカーボールが置かれている。 「主人はサッカーが趣味でした。大学時代(千葉大学)はサッカー部でしたし、佼成病院の勤務時、私たちは病院の医師寮に住み、彼は地元の少年サッカーチームの監督もボランティアで務めてました。九八年のフランスでのワールドカップを観戦に行き、スポーツ誌に観戦記も寄稿したぐらいです。冗談で『日本でワールドカップが開催されるなんて夢みたいだ。この目で見るまで僕は死ぬないから』と、よく言ってました。男の子の患者さんが来ると『スポーツは何をしてるの?』とたずねて、サッカーと答えれば話も弾んだようです」

 中原さんは八七年四月から東京都中野区の佼成病院に勤務し、九九年二月に小児科部長代行に就任した。のり子さんが、夫に異変を感じたのは、部長代行就任後、中原さんが大好きだったサッカーを遠ざけたからだ。いや、遠ざけねばならなかった、の表現が正しいだろう。 「亡くなる三カ月くらい前、ボランティアで六年間も続けていたサッカーの指導に行かなくなりました。定期購読していたサッカーの雑誌は封すら開けなくなり、スポーツニュースも見なくなって。当直明けから戻ると憔悴した顔で『病院に殺される』と吐露していました」  部長会議の前夜には「怖い」と言い泣いてのり子さんにしがみついたり、ちょっとしたことですぐに涙ぐむようなこともあったという。

 部長代行の就任は、前任者の退職によるものであった。六人いた小児科は五人の医師となったが、九九年三月末でさらに二人の医師が退職。五月に一人が補充されて四人になるも、四人で六人分の仕事を強いられ、部長代行の責任もある中原さんの当直(午前九時から翌朝九時までの二十四時間勤務)回数は三月は八回、四月は六回。この当直回数は全国平均(一九九八年の厚生省研究班調査)の二倍に当たる。

 当直を終えたら帰宅できるとはならない。そのまま通常勤務に入り、連続三十二時間勤務は少なくとも毎月三回ほどあった。加えて、中野区で小児科の救急外来の指定病院は限られており、急患が佼成病院に集まってくるという状況が中原さんら当直医の激務を生んだ。  その佼成病院では九八年から運営効率化プロジェクトを始めていた。毎月の部長会議で中原さんは事務長から「小児科の利益を上げて下さい!」と指摘され、科内の部下からは日々「小児科の常勤医を増やして下さい!」と懇願された。

 両者の板挟みになり、毎日の苛酷な診療業務に携わる中で、知人から「礼儀正しく真面目」と評される中原さんの肉体と精神はストレスの毒牙に蝕まれていった。 「六月、七月の主人は、些細なことで子供を叱責したりもしました。当時、長女が高校三年生で医学部を目指していましたが、主人は『医学部だけは行くな』と激しく反対しました。中学三年生だった長男の医学部志望も反対だった。『あの子たちのためにも医学部は駄目なんだ』とまで言って。亡くなる直前の七月、長女が取り寄せた医大のパンフレットを主人は破り捨てました。なぜ? と私が問うと主人は、よく覚えていない、と話していましたが」

 中原さんの遺書に、こう書かれている。 《急患患者では、小児の方が内科患者を上回っており、私のように四十路半ば過ぎの身には、当直勤務はこたえます。また、看護婦・事務職員には、疲労蓄積の様子がみてとれ、これが〃医療ミス〃の原因になってはとハラハラの毎日》  激務と小児科医を取り巻く環境を憂えた中原さんの遺書はこう結ばれた。 《間もなく二十一世紀を迎えます。経済大国・日本の首都で行われているあまりに貧弱な小児医療。不十分な人員と陳腐化した設備のもとで行われている、その名に値しない(その場しのぎの)救急・災害医療。この閉塞感の中で私には医師という職業を続けていく気力も体力もありません》  中原氏の自殺を非難する声もあろう。だが、遺書を見ると否応無く、中原さんは自殺に追い込まれたのでは、とも考えさせられる。いま、中原さんの長女は医学部に学ぶ。長男も医学部入学を目指し、勉学に励む日々だ。 「主人は医療の現場を『夢と希望と誇りが持てる場所に』と生前、よく言っていました。そうなるよう、私も願います」

 のり子さんは薬剤師の仕事をしながら、夫の遺志を継ぐ子供たちを見守り、労災認定の裁判を注視し、ホームページで全国から署名を集める活動を続けている。


☆ でも、倒れなければ休めなかった

 医療に関する報道は、利用する立場、医師に「一〇〇%完璧」を求める患者側からのものが多い。だが、医師や看護婦など医療を遂行するスタッフが健康で休息も十分でなければ、安全な医療は行われない。中原さんの遺書は、我々にそれを訴えている。 「自分が倒れて病院運ばれたとき、妻に『ついに来るべきものが来たね』と言われた。『自分もただの人間だった』と妻に私は言いましたよ。私も三児の父。それまでは子供は社会の宝、小児科は子育てのサポート役と自負して、土日の休みがなくても『自分はスーパーマンなんだ』と信じて働いていましたから」

 沖縄県立中部病院(沖縄県具志川市)の小児科医長・吉村仁志さん(四十三)は、まずこう話す。過労による体調不良のため、二〇〇〇年七月に一度は中部病院を退職している。 中部病院は沖縄本土復帰前からある総合病院で、今も昔も沖縄県を代表する総合病院として県民の信頼は厚い。京都出身の吉村さんは九州大学卒業後、中部病院に研修医として着任。そのまま勤務した。中部病院を希望したのは学生時代、開業医が診る一次診療、入院し検査を受ける二次診療、さらに高度な医療を必要とする患者さんが対象の三次医療を分け隔てなく救急症例として二十四時間受け入れる患者本位の中部病院の方針に共鳴したからだ。研修医を終え、勤務してみると、各科の壁もなく、先輩医師が後輩医師を指導する卒後教育の指導体制があることにも魅力を覚えた。だが、現場は苛酷だった。患者が運ばれ、医師に労働基準法で保障される労働条件など一切関係ないと知る。

 吉村さんは、沖縄県内でも希少な小児腎臓病の専門家だけに、三次診療の患者が中部病院に集中した。また、こんな背景もある。IT化は作業効率を上げ、同時に、医師の目標を上げた。診療の密度は高くなり、やるべきことが年々増えていった。患者への説明も丁寧に行えうようになった。完全にオーバーワークである。 「四十時間連続勤務もありました。四日に一度は当直でした。最高は月八回です。退職する一年前の九九年には半年間で三回、当直勤務明けに自宅に戻る途中で交通事故を起こしました。一睡もできなかった後での居眠り運転です。いずれも前の車にぶつかって……」

 吉村さんは二〇〇〇年の三月末の深夜、妻の運転する車で勤務する中部病院の救急科に運ばれ、緊急入院した。不整脈による動悸の症状が強く、吉村さん本人も、診療した仲間も「過労による体調不良」と見解を同じくした。

 入院した前々日は当直勤務だった。運び込まれた救急患者が呼吸不全に陥り、人工呼吸器を取り付けた。朝方になり、双子の出産に立ち会い、二人とも低体重で人工呼吸器を取り付けての経過観察、そして通常勤務へ突入。五〇人の外来患者を診た後に、重症の入院患者を診て帰宅。翌日早朝に那覇空港から石垣島に飛び、県立八重山病院で診察した−−殺人スケジュールと言うのはやさしいが、そこに子供の命がかかっているのだから、医師の緊張は余人の想像を絶する。 「いま思えば、倒れたときは何も考える余裕のない鬱の状態だった気がします。でも、倒れなければ休めなかった。自分は中部病院でこれ以上は働けない、と決断しました」

 当然、慰留はあったが、その年の七月、吉村さんは退職。だが、吉村さんが抜けた大きな穴は補充されず、外来受付時間が短縮されることになった。

 沖縄を離れ、埼玉県立小児医療センターに勤務した吉村さんだが、〇二年四月に中部病院に復帰した。早々に生体腎移植も実施し、患者の経過も良好だ。 「埼玉では『逃げてきた』と自責の念に駆られていました。中部病院で診ていた患者さんが、埼玉まで来られることも少なくありませんでした。『残された患者さんのためにも。スタッフも増えたから』と言う病院側の説得もあり、復帰を決めました。また同じことになる、と妻は反対しましたが、当直は月に一、二回となって休息も取れています。気持ちの余裕が以前とは全然違う」

 中部病院はじめ沖縄に県立病院は七つある。高度医療、救急医療、僻地医療など赤字部門も厭わず、生命を救うことに全力をあげてきたが、いま、県立七病院の赤字が問題となっている。〇二年度の県立七病院の赤字は、単年度で過去最高の三十八億六千万円、累積赤字も最大の三百六十六億六千万円となった。赤字解消のために合理化が進むとすれば、吉村さんら現場にどんな負担がかかるのか、と心配だ。中部病院では来年一月から外来診療を限定し、入院を中心とした高度医療の専門病院「急性期特定病院」に転換する。

 激務を強いられている医師も、入院治療中心の医療体制に変われば負担も軽減する、との配慮が背景にはあるのただろう。吉村さんを取り巻く環境は少しずつ改善されている。  統計上、日本の小児科医の数は足りないどころか、逆に微増している。しかし、中原さん、吉村さんは病院という組織で、入院患者、救急も含めた外来患者に「朝から晩」ならぬ「朝から翌日の晩」まで働いた。たとえ同僚がいても、激務が課せられていた。なぜ、一部の医師が死の危機に瀕するまでの激務にさらされるのか。吉村さんはこう語る。 「日本は面白い国で、ベッド数は多いが、病院あたりの医者の数は少ない。米国の六分の一です。その典型が小児科なんです。医者を一カ所に集めてくれば、効率的に診れますし、交代で休むこともできます。二人で三〇〇床を診れるとすれば、四人では六〇〇床ではなく八〇〇床は診れるんです。いま前線において、少ない人員で患者を守る医者たちは、休みを取らずに働いている。国の政策として、病院の統廃合を進めてほしいと思います」

 吉村さんの最後の言葉が印象に残った。 「辛い場面にも多く立ち会いますが、悲しいという感情は絶対に麻痺しません」  医師は寝食を忘れ、患者のために全力を尽くす。改めてその思いを強くした。

☆ できるだけ長くいていただきたい

 日本には小児科医は一人、さらにはいない、という地域もある。

 東京都には、太平洋に浮かぶ八丈島や大島のある伊豆七島もある。人口およそ九千三百人の八丈島のメディカルセンターは、一九六六年に開設され、一九九八年に新装開院した町立八丈病院。現在のベッド数は五十二で、診療科目は一般外来は小児科、内科、外科、産婦人科で医師は計七人(小児科一人、内科四人、外科一人、産婦人科一人)。眼科、耳鼻咽喉科、皮膚科、精神科などの専門外来は臨時診療で月に二日ほど、日本医科大学の派遣医師により診療が行われる。科によっては一カ月待ち、二カ月待ちもある。 「島として、医療は恵まれています。小児科に関しては、伊豆七島の中で小児科医が島に常駐しているのは八丈島だけ。小児科が設けられたのは一九七五年からです」  同病院の事務長の奥山弘喜さんはこう語る。八丈島生まれの奥山さんの事務長歴は七年になる。離島という地理上の問題もあり、事務長の最も大切な仕事は医師確保だという。 病院はある。必要なのは現場に立つ医師だ。そのために八丈島での生活面を全面的にサポートするなど、好条件の整備が必要になる。 「病院の財政が厳しい中、国や町の協力があるからこそ、医師も確保できている状態です。半年、一年の期間で戻られる先生が多い中、できるだけ長くいて頂きたいのが私たちの切なる願いで……。新任の先生が来ると患者さんから『先生はいつまでいて下さいますか?』『前任の先生は戻ってきますか?』と早々に問い合わせがあるぐらいです」

 島で唯一人の小児科医は多忙である。八丈島には小学校が五つ、中学校が三つある。八校で四十九学級、生徒数は約八〇〇人。八丈病院の小児科医が一人で、各学校の検診医もする。本土なら検診医は学校にほど近い、開業医が行うのが一般的だ。 「検診のために病院にいなければいけない平日の昼間、不在の時間が生じてしまう。不在のとき、一刻を争う重度のお子さんが八丈病院に運ばれてきたら? これは深刻な問題です」

 同病院の院長で内科医でもある大谷晋一さんは、こうした現状に苦い顔をし、島で一人の小児科医のスケジュール表を見せてくれた。ほとんど白い部分はなかった。これでは、小児科医の健康状態が危惧される。仕事量の偏在が患者に頼られる医師をじわじわと追い込んでいく。患者や家族にとってみれば、「小児科の先生がこの島にいる」は大きな安心感があるはずだ。しかし、医師の多忙さなど患者に意識されることはない。

☆ 一人の子供も死なせるものか

 二〇〇四年度から、医学部卒業後の二年間はローテーション形式による各科での臨床研修が必修化される。小児科をローテートする研修医が増加することで、需要はあっても供給が足りない小児科志望への期待は高まる。とはいえ「キツい割には儲からないし、休めない。責任も重大」の現場は直ぐには改善されない。現場のそうした事情は、子供を抱える保護者にすれば関係ない。小児科は小児の総合診療科。小児の体は、新生児から青年期まで病気になっても片時も休まず成長し、発達している。口頭での説明がうまくできない小児の生理的、精神的な特性を常に意識しながら、小児科医は日々診療にあたる。

 突然、痙攣、発作、腹痛にわが子が見舞われたとき、保護者の心配は大きい。平日の昼間ならば、診察は比較的容易だが、土日祝祭日の昼間は緊急医に連絡し、診察を仰げる。だが、平日、休日を問わず、深夜に子供の体調が急変したとき、救急車に乗るも救急指定病院の当直に小児科医がおらず各病院をたらい回しにされた、診察してもらったが小児科医ではなかっため治療ミスが生じた、などの事例はマスメディアでも取り上げられきた。
 働く母親が増え、夜間外来の大部分を子供が占める今、小児医療のあるべき姿は「夜間小児医療の充実」であることは疑う余地はない。

 「年中無休、二十四時間、紹介状なしで受け入れてくれる小児科」という究極の理想を実現させた一組の夫婦がいる。横浜市戸塚区の住宅街に『スマイルこどもクリニック』を開業させた加藤隆さん、ユカリさんだ。元はコンビニエンスストアだった建物を利用したもので、二四時間営業していることから、「コンビニ病院」と親しまれている。

 二人は鳥取大学在学中に知り合い、九二年、卒業と同時に結婚。ともに精神科医として母校の病院に勤務するも、二人目の子供の誕生が転機をもたらした。 「早産による未熟児で、一時は呼吸停止にも陥って。元気になった姿を見て、このとき『子供の命を救う仕事がしたい』と思いました」
 ユカリさんは振り返る。夫妻は二人の子供を抱えながら、大阪や神奈川の病院で研修を積んだ。〇一年二月には米国へ留学。各科をローテーションで学ぶシステムの中で、広範な臨床能力を養った。帰国後、同年八月に『スマイルこどもクリニック東戸塚院』を開業。共鳴した小児科医が徐々に集まり、〇二年の元旦から年中無休二十四時間体制に移行できた。近隣に十五台の駐車場を確保し、夜間は来院者を誘導するガードマンを雇っている。 親はいつでも安心して来院ができる。一日平均一三〇人が来院、カルテは延べ二万一千人分にも及ぶ。年中無休、二十四時間開業はユカリさんの強い意志を隆さんが後押しする格好で実現したのだが、「本当に二十四時間できるのか? 採算が取れるのか? 看護士、薬剤師らスタッフは確保できるか?」と危惧の声もあったが、杞憂だった。やればできたのである。ユカリさんは、備品を一〇〇円ショップで揃える一方で、必要と判断した高価な医療機器は迷わず導入した。採算は考えない、と決めていたからだ。開院から数カ月後、それまで一切見なかった帳簿を開くと、「なんとか続けられる」数字が並んでいた。

 東戸塚院が軌道に乗り、今年七月には、友人から要請を受けて長野県松本市に夜間・休日診療専門の『スマイルこどもクリニック松本院』を開業した。ユカリさんが院長に就任し、東戸塚院の医師と交代で診療にあたっている。長野県内では初の夜間・休日中心の診療所だ。 「一次、二次、三次と診療の区別は親御さんには関係ない。すぐに診察を願うわけですから、コンビニ感覚で利用してもらって構わない。夜、急患で運ばれる子供たちの九割は、適切な処置を施せば劇的に回復します。ぐったりしてた子供が朝、バイバイと笑顔で元気よく手を振り、病院を後にするのを見るたび、私はこの仕事への確かな手ごたえを感じます。子供を抱えての研修時代に比べれば、いまはスタッフも増えて、きつくはないですよ。やめられないなあ、楽しいなあって(笑)。一人の子供も死なせるか、って使命感も湧いてくる。小児科を取り巻く現状は厳しいですが、小児科の明るい面をぜひ、志す人には知ってもらいたいですね」  前向きなユカリさんの笑顔と煌々と灯るクリニックの明かりが、日本の小児科のこれからのひとつの方向性を示しているように見えた。


「PRESIDENT」(プレジデント社発行)2003.11.3号掲載
※掲載に当たりまして、本文は記事と一部異なる点があります事をご了承下さい。
 ※出版社と執筆者の承諾を得て掲載しております。


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