小児科医中原利郎先生の過労死認定を支援する会

小児科医・中原利郎氏の死が問いかけるもの

九鬼 伸夫
銀座内科診療所院長
「小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会」事務局長


 5年前の夏の朝、都内の或る総合病院屋上から、その病院に勤務していた小児科医が身を投げた。中原利郎氏、44歳。「小児科医は天職」と公言し、地域の子供たちのサッカー指導にも情熱を燃やし、3人の愛児のよき父でもあった。そんな彼が、なぜ自ら選んで情熱を注いだ仕事や最愛の家族を遺し、唐突に去っていかなければならなかったのか。そして、彼の悲劇が問いかけるものに、どうしたら、私たちは答えていくことができるだろうか。

「最高の小児科の先生」

 一通の手紙を紹介することから始めたい。 「中原先生、本当に本当にありがとうございました。娘の香奈(仮名)の命が今ここにあるのは中原先生のお力のおかげです。平成6年○月○日、初めて受診させていただき入院。救急車にて清瀬小児病院へ転院の折りにもずっと付き添っていただきました。一心に香奈の顔を見つめられ、見守っていただき、あちらの病院へ行きましたね。清瀬小児病院を退院後は数えきれぬほど先生にお世話になりました。

 風邪、咳、熱、予防接種、体の弱い娘はそのたびに○○病院を、中原先生を、頼りにしていました。困った時は中原先生、中原先生。この8月も9日から12日まで入院。11日の日に小児病棟のソファーの所で娘と私に声をかけてくださいましたよね。いつもの様に『おう、香奈ちゃん、どうした?』。毎日、中原先生にお会いしたいと思っていた私は先生のお顔を見て安心し、お話ができて安心し、中原先生にお会いできて良かった、と思いながら翌日に退院しました。いつもの事ですが、中原先生のお顔を見るだけで、どれ程安心していた事でしょうか。

 私達母娘にとって中原先生がいらっしゃる、というだけで、どんなに生きるうえで娘を育てている事に安心があったでしょうか。ありがとうございました。ありがとうございました。今まで何度も先生にはお葉書を書いていましたが、いつも診察室で『はがきありがとう、よんだよ』と言ってくださいました。あの診察室に、中原先生はいらっしゃらないのですか・・。私は一生に一度しか会えない先生に出会うことができた、と思っておりました。感謝しても感謝しても足りません。中原先生、中原先生、本当にありがとうございました。娘の香奈も泣いています。

 どうぞ香奈も他の子供たちも見守っていてください。香奈をしっかり丈夫に育てることが、中原先生へのご恩返しと思っています。中原先生、御家族を残され、病院の子供たちを残され、どんなにかお心のこりかと思います。ですが、どうぞ、どうぞ、ゆっくり、ゆっくり休んでください。この五年間本当に感謝しております。悲しいですが、寂しいですが、先生のぬくもりのある数々のお言葉、決して忘れません。中原先生は最高の小児科の先生です。本当に本当にありがとうございました」。 中原氏が患者・家族にとってどんな医師であったか、この手紙につけ加えるべきことは何もないだろう。1981年千葉大医学部卒。子供好きで、小児科医でなければ小学校の先生になりたかった、という。国保旭中央病院小児科を経て、87年から12年余り、最後の職場となったその病院に勤務した。

「会議が怖い」

 その病院の小児科常勤医は定員6人だったが、女性医師が多く、結婚や出産で休職、退職が多かった。小児心身医療で有名な病院であったため、心身医療が専門またはそれを志す医師が多く、感染症を始めとする一般小児科医療は、中原医師の肩にかかる比重が一層大きかったようだ。死去3年前の96年から病院は小児科単科当直による24時間365日の小児診療態勢を開始、(ちなみに中原医師の死去の後、小児科単科の当直は廃止となっている)。そしてその年、1999年2月、小児科部長が定年退職となり、中原氏は部長代理となる。常勤医は3人に減っていた。3月には月8回の当直をこなしながら、常勤医探しに奔走した。 国の医療費抑制政策の中で、病院の赤字減らしが経営課題になっていた。部長職となって病院会議に出席するようになった彼は、「会議に出るのが怖い」と家で泣くようになった。子供はできる限り家庭で過ごす時間を大切に、という小児科医としての信念から、かつては入院適応を厳しく限定していた彼が、病棟稼働率を上げるためだったのだろうか、以前よりも多くの患児を入院させて自ら受け持つようにもなっていった。どんなに忙しい時も休まなかった少年サッカーの指導を断り、楽しみに定期購読していたサッカー雑誌に手を出すこともなくなっていった。

 その日、8月16日朝、前日朝に「当直だ」といって家を出たままだった彼は、病院屋上から身を投げた。部長室の机には、病院の便箋3枚にびっしりと細かい字で書かれた文書が遺されていた。「少子化と経営効率のはざまで」と題されたその文(別項参照)は、小児医療が直面する困難な状況を冷静な筆致で綴った末に「経済大国日本の首都で行われているあまりに貧弱な小児医療。不十分な人員と陳腐化した設備のもとで行われている、その名に値しない(その場しのぎの)救急・災害医療。この閉塞感の中で私には医師という職業を続けていく気力も体力もありません」と、唐突に結ばれている。

 小児科医療の不採算、小児科医の不足、小児救急体制の不備、といった現在では広く社会的な議論になっている多くの問題、個人の力ではどうにもならない制度の歪みが、心優しく誠実で、困難な場から逃げることをしなかった小児科医師の心身にのしかかり圧し潰す様を、眼前に見るような思いがするのは筆者だけではないだろう。

「遺志に応えるには」

 遺された妻・のり子さんは、薬剤師である。病院薬剤師として勤務していた病院で、見学にやってきた医学生であった利郎氏と出会い、彼の卒業の年に結婚、三児に恵まれた。利郎氏死去の当時、長女は高三、長男は高一、そして次男は中一。利郎氏を喪った家族は病院の寮を出てのり子さんの実家に身を寄せた。転校先で長男・次男は不登校になった。厳しい心の危機、家族の危機。自問自答の中でのり子さんは、夫の遺志が自分に託された、という確信を得て、それを支えに、立ち上がる。

 「遺書に記されたような問題点の改善に取り組むことを、夫が私に託したのだと思う」とのり子さんは言う。第二の中原利郎を出さないこと・・。そして、それに、母親としての思いが重なった。長女・智子さんが医学部に進学し、小児科医を志しているのだ。利郎氏は生前、智子さんの医学部進学に反対し続けた。しかし父の病院に入院したこともあった智子さんは、父の背を見て育ち、その後姿を追った。夫を奪った戦場へと赴こうとする娘に、母は何を思うのか。「子供を、安心して送り出せる小児医療の現場であって欲しいのです」。のり子さんは、おずおずと、しかし敢然と、声をあげた。

 2001年9月17日、利郎氏の死が業務に起因する労災であることの認定を求めて新宿労基署に労災保険法による遺族補償給付を申請。2002年12月26日、勤務していた病院を相手取り、東京地裁に損害賠償請求訴訟を提起。医師のいわゆる「過労自殺」としては、初めての裁判である。目的は、言うまでもなく、「金」ではない。利郎氏の死が業務によるものであることを認めさせること。その過程を通じて、小児医療現場の問題点を明らかにし、社会に広く訴え、その改善につなげることが目的である。

「明日は我が身か」

 たった一人の行動を、支援する人たちが現れた。利郎氏の中学・高校・大学の同級生やサッカーの仲間たち。そして、のり子さんの友人たち。声は広がり、つながって行った。2003年8月、利郎氏の大学時代からの友人であった守月理・船橋二和病院心臓外科部長を会長として、「小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会」が発足。11月には東京・渋谷で「小児科医の過労を考える集会」を開いた。この集会には、衛藤義勝日本小児科学会会長(慈恵会医科大学小児科教授)も、メッセージを寄せた。会の活動を、NHKや読売新聞などのマスコミも取り上げるようになった。

 発足から間もなく1年を迎える「支援する会」には現在、百人余が会員として参加している。小児科はもちろん、内科、外科、整形外科、精神科などの医師、看護師のほか、弁護士、報道機関の記者、会社員、主婦、公認会計士など職種はさまざまだ。小児科勤務医からは「中原氏のことは他人事とは思えない。明日は我が身かと思いながら働いている」といった声が。そして医療職以外の会員からは、「医師が過労死するような労働条件で働くのがあたりまえになっている現状を何とかしないと、患者は安心して医療を受けられない」という声が、寄せられている。厚生労働大臣宛の小児医療改善を求める署名活動なども継続中だ。

 私事になるが、筆者は生前の中原利郎氏とは全く面識がない。薬剤師中原のり子さんと仕事上の関係ができ、彼女の活動を知って応援するようになった。「支援する会」の事務局長として、会報の発行やメーリングリストの管理などを担当している。支援する会に入会いただける方、署名活動に御協力いただける方、メーリングリストに御参加いただける方は、別項を御覧いただき、ぜひ仲間になっていただきたい。


「国家的課題」

 中原氏が遺書で述べた「あまりに貧弱な小児医療」を改善しようとする動きは、既に広く大きなうねりとなりつつあるようにみえる。小児科医療の不採算、小児科医の不足、小児救急体制の不備、こういった問題がデフレスパイラルのような悪循環になっている現状を何とか断ち切らなければ、我々の社会の未来がますます暗いことは、もはや誰の目にも明らかだからだろう。

 例をあげる。厚労省は全国の小児科・産婦人科教授クラスを集めて研究班を組織し、平成14年度から3年間の予定で厚生労働科学研究費補助金による「小児科産科若手医師の確保・育成に関する研究」を進行中だ。この研究の目的には次のように明記されている。

 「最近の我が国における小児医療の危機的状況は、一般社会はもちろん、医療行政上も深刻な問題として認識されております。採算性の低い小児科の医療が病院に集中し・・(略)若手医師の過酷な労働を生み、厳しい勤務条件がますます若手医師の数を減少させる悪循環に陥っております。いかにこの事態に対応していくかは、・・(略)国家的に取り組むべき問題であります」。

 具体的な課題として、小児科・産科医師の過重労働の実態を明らかにすること、改善のために人材をいかに確保育成するか、などを検討することが謳われている。

 また、医療費全体の縮小圧力の中で、小児科関係の診療報酬にはわずかながらプラスの改訂が行われるようになってきている。小児の夜間・救急医療態勢についても、各地で診療連携の模索が行われつつある。 しかしながら、いわば預言者のように危機のメッセージを発した中原医師の労災認定は、未だ厚い壁に阻まれたままだ。

 中原のり子さんからの労災申請に対し、新宿労基署は昨年3月「自殺は業務上の事由によるものとは認められない」として申請を却下。取り消しを求めた審査請求に対しても東京労働局労災審査官が今年3月、新宿労基署の判断を支持し請求を棄却する決定を下した。のり子さんは国レベルの労働保険審査会に対して再審査請求を今年5月に行い、さらに行政訴訟も視野に入れて検討中だ。

 病院を相手取っての民事(損害賠償請求)訴訟は未だこれから証人尋問が始まろうとする段階ではあるが、病院側は、中原医師が過労状態にあったこと、労基署が認めた欝病を発症していたことさえも一切認めず、全面的に争う姿勢を見せている。

 労基署が労災認定を却下する「論理」は、こうだ。中原医師が欝病に罹患し自殺に至ったことは認める。個人の資質や家庭事情など業務外に原因となる要因はない。しかし、業務の過重性を評価すると、過重と評価すべきほどでは無かった。過重でないものを重く受け止め過ぎたための自殺であった・・と。 労災というのは、仕事中に天井から物が落ちてきて死ねば、無条件に労災死である。ところが中原氏のように巨大な業務そのものの重みがのし掛かって死んでも労災でないとすれば、こんな理不尽はないと思う。なぜ、こんな論理ならぬ論理がまかり通ってしまうのか。

「医師の世界は無法地帯」

 労災認定を阻む壁の正体を調べてみると、医療の世界と一般社会の常識の乖離、そして、それを放置してきた医師の意識の問題が、浮かび上がってくるように私には思える。 問題点の最たるものは、「当直」の扱いだ。

 一般に過労死を労災として認定する場合、超過労働時間は労働の過重性の大きな目安になる。脳卒中や心筋梗塞の場合は月に100時間以上の超過労働があればほぼ無条件に、月80時間以上でもほぼ自動的に労災と認定されるという。中原医師は3月には月に8回の当直をしている。それだけで上記条件を満たしそうに見えるが、病院は当直時間を超過労働時間としてカウントしておらず、労基署も病院の解釈をそのまま受け入れている。「寝ている時間もあるから、実際に診療行為をした時間だけを労働時間と計算する」というのだ。

 本来、労働法規上の用語としての「当直」は、ほとんど労働実態のないいわば「留守番」的な役割を想定しているものだという。中原氏の職場は、当直といえば常に一睡もできない超多忙勤務ではなかったとはいえ、外来も病棟も持った小児科の当直が「お留守番」でありえないことは、言うまでもない。当直勤務の中では、仮に睡眠中でも、いつでも即座に緊急の診療活動に入れる状態におり、自宅で勤務から離れて休息しているのとは全く異なる。このことが社会にきちんと理解され、それにふさわしい扱いを受けるべきだが、そうなってはいないのだ。

 この状態では、仮に医師が月に30回当直をしていても、ほとんど労働時間にカウントされず違法でもない、ということがありうる。こうした実態を指して「医者の世界は無法地帯」と、岩波新書「過労自殺」の著者で中原弁護団の一員である川人博弁護士は語っている。刺激的な表現だとは思うが、我々医師自身が無法地帯に置かれていることを、放置あるいは黙認してきたと言われても仕方がないと、私は思う。医師の夜間労働が「当直」という名前ですりかえられ、労働時間としてカウントされないまま詐取されていることを、どれだけの医師が意識してきたろうか。

 EUでは、医師の当直は待機中の睡眠時間も含め無条件に勤務時間として算定する、という判例が既に出ている。日本でも、医師なら当然と思うに違いないこの判断を、社会的に定着させなければならない。

 もうひとつ例をあげよう。いわゆる「過労自殺」の労災認定では、厚労省によって@欝病などの精神障害を発病していたことA発病前約半年の間に、発病の原因となりうる業務による強い心理的負荷が認められることB業務以外の心理的負荷および個人的な要因で発病したとは認められないこと、の三要件が必要とされている。ABについては、出来事によって心理的負荷の強度をT〜Vに分類する評価表がある。中原氏の業務が「過重ではなかった」と判定されているのも、この分類表に従っての判断だ。この認定基準は全体としても、強度Uの出来事が数多くあっても総合的にVに相当する強い負荷とは認めない、判断が恣意的になりやすい等の問題点を含んでいるが、それを措くとしても、ここに記載された出来事はごく一般的な職種しか想定しておらず、医師固有の業務の困難が考慮される余地がない。職場における強い心理的負荷とされるのは「退職を強要された」「会社にとって重大なミスをした」といった項目でしかないのだ。

 医師の日常業務は、直接他人の生命にかかわり、ミスが即生命に関わる事故と結びつく点や、時に長時間の連続労働が避けられないなどの点で、旅客機の操縦士などと同様に、特殊な業務にふさわしい特別な基準で判断され管理されるべきだ。

 医師の健康管理、特にメンタルヘルス面の管理がこれまで全くと言ってよいほど自己管理に任されてきたことにも、注意を喚起しておきたい。

 こうした諸問題を、より具体的に明らかにし、改善を促していくことは、中原氏の裁判の大きな意味だと考えている。

聖職意識を超えて

 医師の過労はこれまでほとんど放置され社会的に問題とされてこなかった。国や雇用者である病院にその責任があることは言うまでもない。しかし、それに甘んじてきた医師の意識にも、問題はある。中原氏の件についても、「中原氏以上の激務をこなしている医師はいくらでもいるではないか」といった冷淡な声を、医師仲間から聞くことがある。残念なことだ。

 私を含め多くの医師は、1日24時間を患者さんのために捧げる覚悟を教えられ、それを自らの覚悟として受け入れて生きてきたと思う。医師としてあるべき心構えであり、失ってはならない職業倫理の根幹だと思う。しかし、そのために、医師は自らの労働条件について語り、ましてそれに注文や不満を差し挟んだりすることを潔しとしないようなところがあったのではなかろうか。誰より長く厳しい労働を黙って喜んでこなすことに、秘かなヒロイズムのようなものを感じるところはなかったろうか。自分が休みやケアを必要とする状態になってもそれを口外するのに後ろめたさを感じなければならないようなことがなかったろうか。

 そうした点について、我々医師が自らの意識にメスを入れ、脱皮していかなければ、結果的に自らの、そして仲間の、ひいては患者さんの首を絞めて殺すことになるのだと、気づくべき時が来ていると思う。 使命感、倫理観の高い優れた医師ほど、もしも使命に殉じて実際に命を落としたのでは、患者さんを含めた多くの人が困る。しかもその死が労災とは認められず、いわば個人的な死に過ぎないと扱われるのでは、どうして後世にこの仕事を託すことができようか。

 私たちが求めようとしているのは、医師の使命感を否定することではない。ひときわ強い使命感と責任感を抱く医師が死なずに済む仕組みであり、自らの心身の合理的管理を内に含む新しい職業倫理であり、そして万が一そうした医師が亡くなった時には、いわば公務に殉じた死として弔おう、という社会的合意なのである。


東京保険医協会発行「診療研究」2004年8月号掲載


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