小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会トップ

「過労死」した小児科医の夫
―いのちのメッセージ
中原 のり子

  1999年8月16日の早朝、自宅の電話が鳴り、「すぐ来て下さい」という声が響きました。疲労困憊した夫の顔が浮かび、何事かの予感を抱きながら、私は夫の勤める病院へと駆けつけました。そして、思いもかけない変わり果てた姿を目にしたのです。

  都内の総合病院で小児科医として働いていた夫は、前夜は当直だと言って出かけましたが、実際は、自らの旅立ちの準備を進めていたのです。自宅で一緒に夕食をすませ、送り出したのは夜8時過ぎ。玄関でいつものサンダルを「あ、きょうはこっちだ」と、革靴に履き替えたのが気にかかりました。それから10時間後、真新しい白衣に着替え、病院の屋上から身を投げたのです。

残された遺書

  小児科部長室の机の上に、一通の書類が残されていました。「少子化と経営効率のはざまで」と題されたそれは、国の医療費削減の下で採算のとれない小児科がまず切り捨てられ、医師に過重な労働が強いられている惨状を、便箋3枚にわたって訴えたものでした。

  夫は当時44歳。勤務していた病院は東京都指定の救急医療機関でもあり、365日24時間態勢の小児科に、6人の医師で当たっていました。女性医師5人に、男性は彼1人、誰よりも多く当直をしていました。さらに、99年の1月から3月の間に、部長を含めた3人が退職。3月の当直は8回を数えました。5月になってようやく1人補充されたものの、月に5、6回の当直をこなしていたのです。

  部長代行を任じられ、「収益が上がらないと、医局ごと他の大学病院系列の医師に交代させる」と言われたことも、心に重くのしかかっていたようです。注射一本するにしても、泣いて嫌がる子どもをなだめ、不安を取り除かなければならない小児医療は、時間も手間も人手もかかり、不採算なのです。

  最後に綴られた「経済大国日本の首都で行われているあまりに貧弱な小児医療…(略)…この閉塞感の中で、私には医師という職業を続けていく気力も体力もありません」という几帳面な文字に私は、これは夫の遺書にほかならない、私は彼の苦悩を多くの人に伝える役目がある、と直感しました。

「小児科医は、ぼくの天職」

  振り返ると、夫の様子が目に見えて変わりだしたのは、亡くなった年の初め頃からでした。日勤に続いて夜の当直、さらに翌日の日勤と32時間続く勤務を終え、体を引きずるようにして帰宅すると、そのまま布団に倒れこむことが増えました。子煩悩だったのに家族に当たり散らしたり、部長会議の前夜には「怖い!」と私にすがりついて泣いたり、ちょっとしたことでも涙ぐむようになり、明るく温厚だった夫からは想像もつかないほど、情緒不安定になってきたのです。

  疲れきった状態を見かねて退職を勧めましたが、「小児科医は、ぼくの天職だ」という夫に、それ以上強くは言えませんでした。家族一緒に過ごす時間がないことをしきりに謝るので、「大丈夫。うちの子どもたちはみんな元気だし、私も幸せよ」とニッコリ笑って温かく包んであげるのが、私にできるせめてものことでした。
 7月になると夫は、ふと自分がわからなくなると言って、車の運転をやめました。休みたくても、自分を待っている病気の子どもたちのことや、同僚に負担がかかることを考えると、どうしようもなかったのでしょう。心も体も、疲れ果てていたのだと思います。

  夫を亡くした当時、私は43歳でした。子どもたちは、大学受験を控えた17歳の長女を頭に、15歳の長男、12歳の次男と、思春期まっただ中。住んでいた病院の寮は、夫の死の翌日に、早く出て行くように言われましたが、周囲の方々が病院にかけあって下さり、年度末までそこで暮らしました。

  やがて小田原の実家に引っ越し、私は薬剤師の仕事を再開したものの、息子ふたりは不登校となってしまいました。長女は「医師にだけは、なってくれるな」という夫の強い反対と葛藤しながら、それでも医学部を目指し、思いつめたように受験勉強に打ち込む姿は痛々しいほどでした。それぞれ父の死を受け入れるまでに時が必要でした。

医師も人間らしく働ける環境を

  子どもが大好きで、小児科の仕事を誇りにし、心から愛していた人が、ここまで追い詰められ潰れてしまう構図はおかしいという気持ちは、私の心の中で、日に日に強まっていきました。

  医者が疲れきっていたら、患者だって安心していのちを任せられません。夫の「過労死」が認められれば、壊れかけた小児医療の現状を社会に伝えられるかもしれない……。そこで2001年9月、労災の申請に踏み切ったのです。長男の「やるっきゃないよね」とのひと言が、私の背中を大きく押してくれました。

  医師の労災の認定は難しいということはわかっていましたが、申請を出してから聞こえてくる声に胸がつぶれる思いをしたのは一度ではありません。「当直もこなせくて医者が務まるか」「そんな弱い性格で、医者になる方が間違いだ」「医者のくせに自死した」……。挫けそうになるのを思い止まらせたのは、夫の死を無駄にしたくない、これ以上、小児科医を殺さないで! という祈るような気持ちでした。

  02年12月、勤務先の病院を相手取り、私たちは東京地方裁判所に「中原利郎の業務に対する、安全配慮義務違反を問う」民事訴訟を起こしました。裁判が始まると思いがけず、周囲に支援の輪が広がってきました。苦しんでいたのは夫だけではなく、同じ立場に置かれている医師や医療従事者がたくさんいたのです。それは、小児科に限らないことも知りました。ホームページが立ち上がり、励ましのメールをいただくようになり、張り詰めていた緊張がようやくほぐれました。私は、ひとりではありませんでした。

  03年3月、労働基準監督署は、夫のうつ病発症と、その理由が業務以外に見当たらないとしながらも、「自殺は業務上の事由によるものとは認められない」として、夫の労災申請を不支給決定しました。医師の当直は「労働性」がないために、月8回の当直業務は過重労働でも長時間労働でもない、との説明でした。当直の定義は、電話番程度の軽度なもので、実態とかけ離れていました。

  私たちは納得がいかず、5月に東京労働局に対して再審査を請求、署名活動も始めました。医学部に進学した長女、獣医師への道を歩き出した長男も一緒に街頭に立ってくれるようになり、うれしいことでした。そして8月には、「小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会」が発足。04年3月、審査請求が棄却されると、中央審査会に再審査請求をし、5月に国に対して労災であることを認めるよう、行政訴訟を起こしました。

  そして07年3月、東京地裁は夫の死が「過労死」であることを認め、国に労災の不支給決定の取り消しを命じる判決を言い渡したのです。国は控訴せず、勝訴が確定しました。支援して下さった方々の握手と涙でもみくちゃになり、うれしさをかみしめました。

  けれど同月、同じ東京地裁で下された民事判決は全面敗訴。過重労働さえ認められない内容に、呆然としました。翌月東京高裁に控訴しましたが、昨年10月に下りた判決は、「過重労働は認めるが、雇用主である病院には責任はない」というものでした。

  いま、労働基準法に守られていない最後の職場が病院と言われています。夫を追いつめた労働環境に対して、私はNOと声を上げます。責任感と使命感ゆえにうつを発症し、死を選んだ者に対し、自己責任と言う司法に対しても、NOと言いたい。その一心で、昨年11月、最高裁へ上告受理申立をしました。最高裁の扉は厚く、受理の可能性は0.1%以下と聞きますが、医師を見殺しにする病院や司法にSTOPをかけなければ、医師は身を守るために、黙って現場を立ち去るしかありません。残された患者はどうなるでしょう。

支えられる側から、支える側へ

  裁判のために、全国の小児科医に協力していただいた、当直勤務が心身に与える影響についてのアンケートを読むと、ほとんどの方が多すぎる当直勤務にストレスや不安を感じていて、診断や治療にも悪影響を及ぼしかねないと訴えています。医学の進歩によって重症の患者さんが救えるようになった反面、手厚い医療が必要になりました。それは、医師の聖職者意識や犠牲的精神で乗り越えられる範囲を、すでに超えているのです。

  この10年、医療の現場の環境は改善されるどころか、ますます深刻になっています。それを見ると私は、じっとしてはいられません。みなさんに支えられてきた私が、いつの間にか支える側にまわったことを、夫はどんな顔をして眺めているでしょうか。いまでは一児の母となって、小児科医として働いている娘のことを思っても、医療の現場のあり方を問い続けることが、私の役目。小児科医師を守ることは子どもを守ること、そして未来を守ること、と信じて活動しています。 


それでもやっぱり医者になった
―父の守りたかったもの
  

千葉智子(横須賀市立うわまち病院・小児科後期研修医)


  私はいま、横須賀市の病院で、小児科後期研修医をしている。医師になろうと決めたのは、大学の進路選択を前にしてだった。父は小児科医、母は薬剤師という家庭に育ち、医療を身近に感じていたからかもしれない。

●憧れの父が……
 
  小学生になった頃の忘れられない想い出がある。父に初めて採血をしてもらったとき、注射器を見た私は怖がって泣きベソをかいた。

  すると父は笑顔で、「智ちゃん、目をつぶって。お父さんと一緒に、10まで数えよう」と言った。「い〜ち、に〜い、さ〜ん……」と声をそろえるうちに、採血は終っていた。不安は吹き飛び、ちっとも痛くなかった。お父さんすごい!と思った。いつも明るく、みんなに信頼されていた父は私の憧れで、お父さんのようなお医者さんになりたいという気持ちが膨らんでいった。

  高校3年になるとき、「医者になりたい」と言うと、父は「それだけはやめろ」と猛反対した。そして、その夏、帰らぬ人となってしまったのだ。いくら仕事が大変だからって、どうして死んだりするの!? お父さんは逃げたんだ……。私は父の死を受け入れられなかった。思い出すと涙が止まらなくなるので、考えないようにした。

  父が苦しむ様子をつぶさに見てきた母には、その仕事の過酷さが身に沁みていた。それでも、医学部を目指そうとする私に対して、「賛成はしないけど、応援はする」と言ってくれた。

●未来ある子どもたちのために

  医学部に進んだ私は、まず現場で働いて医者の仕事を自分で感じて理解した上で厚生労働省に入り、医師の労働環境を整える仕事をしたいと考えるようになった。そんな大学一年の夏休み、初めて父の遺書を読み、綴られていた小児医療の現場の惨状に、ようやく父の苦悩が少しわかった気がした。その父の死を労災として認めてもらい、医師の労働条件を改善しようと活動を始めた母の姿には、事実を伝えることの大切さを教えられた。

  ある日、小児科の臨床の講義で、「子どもには発達があり、未来があり、病気が治る可能性がある」という言葉に出会う。これだ! お父さんがいのちを削っても守りたかったものは、これだったんだと思った。父は逃げたのではない、闘い続けたのだ……。小児科医になりたい、お父さんと同じ小児科医に――覚悟を決めた瞬間だった。

  2年前、同業の夫との間に子どもを授かり、病院に子どもを連れて駆け込む親の気持ちも、少しわかるようになってきた。赤ん坊を抱えての勤務は大変だが、新米・子持ちの女医でも安心して働き続けられる環境をぜひ作っていきたい。そして同じ新米のお母さんたちが不安にならないよう、子どもの病気について、病院へのかかり方について、もっと伝えていきたい。患者も医者も、お互いを知ることが、これからの医療を作っていくのだと思う。

「婦人之友」2009年2月号掲載

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