電話のコール音が、虚しく耳に響いてくる。
電話をかけているのが誰なのか判っているはずなのに、常人離れした身体能力を持っているから絶対聞こえているはずなのに、決して呼び出しに応じてくれようとしない。
しつこいくらいコール音を響かせてみせたけど、結局は電話に出てもらえず、留守番電話に切り替わってしまった。
とりあえず自分が受けた仕事の内容をメッセージとして留守電に残すと、私は大きなため息をひとつついた。
◇
最近の彼は何だか様子がおかしかった。
もともと、他人に自分のことを話すのは苦手だったけれど。
それでもある程度は私たちには話してくれていた。
なのに、最近はまったくと言っていいほどしてくれなくなっていた。
あからさまに私たちを避けるようになっていた。
それが顕著になったのは、時々、本当に時々、左腕を無意識に押さえるのをみるようになった頃からだと思う。
気がつけば、何故だか左腕を隠すように袖で覆っているようになっていた。
どうしてそんなことをしているのか。
聞こうと思えば何時でも聞けたのに。
何かが壊れてしまう気がして、今まで何も聞けずにいた。
その結果がこれ。
彼はいつの間にか私たちの前から姿を消し、声すら聞かせてくれなくなった。
彼が確かに私たちと一緒に暮らしていたという痕跡は、デスクに未整理のまま置かれている伝票と、部屋の片隅に放り出されたままのスペアタイヤ。
そして彼一人だけがそっぽを向いて写っている、私たちの写真。
彼が今何処で寝起きしているのか、私は知らない。
恐らく其処にいるだろうと思える場所は見当がつくけれど、私は知らないふりをする。
どんなに心配しているのか伝えても、彼からの連絡は一切ない。
心配しているのに、心配しすぎて気が変になりそうなのに。
彼は薄情にも沈黙を守ったままなのだ。
だから、私は一切知らないふりをする。
2年前のあの闘い以来、彼がずっと自分を責め続けているのは知っている。
知っているけれど、私にはどうすることもできなかった。
彼の問題は彼自身で解決しなくてはいけないことだと思うから。
だから、私にできたのは、ただ一緒にいることだけ。
傍に一緒にいてあげることだけ。
最初は、それでもよかったんだと思う。
それだけで本当によかったんだと思う。
蒼い瞳が優しく和んでいたから。
蒼い瞳が穏やかな光を湛えていたから。
私は安心して彼の傍らにいられた。
彼にすべてを預けていられた。
それが狂いだしのは、一体何時の頃からだったんだろう。
彼の瞳に翳りが見られるようになった。
その翳りは日増しに濃くなっていき、彼の口数もどんどん減っていった。
どうしたの?何かあったの?と、子供たちに尋ねられても、彼は何も言わなかった。
私より子供たちに心を開いていることを知っていたから、私は何も聞けずにいた。
彼にこれ以上拒絶されるのは嫌だったから。
彼のなかに自分の居場所がないと思い知らされるのが嫌だったから。
だから、私は口を噤んでしまった。
彼に感情をぶつけるのを躊躇ってしまった。
その結果がこれ。
彼と私たちとの間には、いつの間にか明らかな一線が引かれてしまった。
この店を開くとき、彼に割り振られたのは、店で出す簡単な料理のための食材調達係だった。
私は店を切り盛りしなくてはいけないから、必然的にそうなったのだ。
最初、人付き合いの下手な彼に上手くできるのかなって心配だったけど。
彼はどうにか自分に与えられた仕事を、彼なりに懸命にこなし始めた。
未来に目を向けて精一杯進んでいこうと、努力し始めた。
そんな彼の姿がとても嬉しかったこと。
私はいまでもちゃんと覚えてる。
そして・・・。
食材調達の仕事が高じて、彼は荷物の配達人になっていた。
荷物を通して人と人との架け橋になる。
それはとても素敵なことに思えたから。
前向きに生きようとする彼を応援したくて、私も子供たちも積極的に協力した。
『セブンスヘブンで一生ただで飲み食いできる権利』。
ある日、彼はそんなものを発行してもよいかと、私に相談してきた。
聞いた最初はとても面食らったけど・・・。
少しでも彼の力になりたくて、事情も聞かずにOKを出した。
そうして、そんなおかしな権利と引き替えに、彼は愛車を手に入れたのだ。
それからの彼は、バイクで行ける場所という制限はつくものの、世界を巡り始めた。
荒廃した世界のあちこちを目にすることになった。
彼の目にはどんな光景が写しだされていたんだろう。
それを目にした彼の心はどんな色を帯びていたんだろう。
私は、それを知りたいと、今は思う。
私は、それを知りたいと、強くそう思う。
・・・・・・・・・・・・。
今の現状が、互いの傷口を広げるようなことを避けてきた結果だというならば。
今度彼に再会したときには、私は遠慮なんて捨てるつもりでいる。
物分かりの良い振りなんて、上辺だけの優しさなんて、捨て去ってやるんだ。
どんなに醜く思えても、心に溜まったすべてを彼にぶつけてやるんだから。
私たちは家族なんだよ。
血のつながりなんてない、赤の他人同士かも知れないけれど。
それでも、私たちは、確かに家族なんだよ。
一緒に過ごした温かい時間。
一緒に感じた優しい思い。
それを覚えている限り。
それを心に抱いてる限り。
私たちは、誰が何と言おうと、家族なんだよ。
それを彼に伝えたい。
彼に伝えてあげたい。
◇
また、電話が目の前で鳴った。
私は受話器にそっと手を伸ばす。
受話器から聞こえてきたのは、さっき受けた依頼主と同じ声で、何故だかとても急いで連絡をとりたいって言っている。
私も連絡をとりたくて仕方ないのに、それでも上手くとれないでいらついてるのに、そんな要求をされても困る。
そう思いながらも、私はできるだけ早く彼に連絡するからと相手を宥めすかして電話を切った。
改めて、彼へ呼び出しをかけてみる。
やっぱり出てくれる気配はなく、私は思わず唇を噛みしめてしまった。
それに目頭がじわじわ熱くなってきている。
でも、それ以上は悔しいから何とか気力で押さえ込んだ。
そうこうするうちに留守番電話サービスを告げる無機質な女声が流れてくる。
私は大きく息を吸い込むと、もう一度、今度はできるだけそっけない口調で、メッセージを残す努力をした。
END