〜 アンジェリーク 〜
7:夕刻
執務時間も終わりを告げ、守護聖たちがそれぞれ帰路につき始めた頃。
鋼の守護聖ゼフェルは、不機嫌な顔つきで再び光の守護聖の執務室を訪れていた。
昼を少し過ぎたばかりの頃、ジュリアスからの使者が執務室を訪れ、主の言伝を告げたのだ。
曰く、『本日の執務終了後、そなたさえよければ私の執務室まで来てくれぬか』と。
らしくない控えめなその言葉に興味をひかれたゼフェルは、それでも渋々という体で足を運んだのである。
光の守護聖は、朝の時と同様、傍らに炎の守護聖を従えて座していた。
それはまるで時間が止まっているかのように見え、ゼフェルは少々困惑し、叫んだ。
「んだよ、こんな時間に呼び出しやがって・・・。昼間の小言だけじゃ言い足りねえのかってんだ!」
戸惑いはそのまま語気の荒さに現れる。そしてつかつかと机の前まで歩み寄ると、乱暴に机に腰をかけた。
「ゼフェル!言葉が過ぎるぞ!!」
その粗雑な態度にオスカーは腹を立ててきつい調子で叱責する。
いつもならばジュリアスも同様の反応を示すのだが、今回は違っていた。
「よい、オスカー」
いきり立っている炎の守護聖を宥めるよう、その面前にすっと手を差し伸べて制したのだ。
「ですが・・・」
常とは異なる首座の態度に、少々戸惑いを感じつつ反論しようと口を開きかけたオスカーだったが、
「よい、と言っているであろう」
交わった視線の先で、紺碧の双眸に宿る穏やかな光を認め、そのまま軽く頭を垂れ、黙した。
それを満足げに見つめたジュリアスは、
「オスカー、そなたはもう退出するがよい」
命令しているわけでなく、さりとて懇願しているわけでもない、至極普通の口調でそう『命じ』た。
「はっ?」
瞬間、炎の守護聖は言われた言葉を理解できなかった。こういう風にこの場から追い払われようとしたことなど、皆無に等しかったのだ。
「退出せよ、と言っている。私はゼフェルと話があるのだ」
今度は確かに命令する響きを含んだ声音で、ジュリアスはそう告げた。
オスカーは退出することを決意したが、それでも納得がいかず、
「私がここにいては、ご迷惑ですか?」
ついそう尋ねていた。
これを受け、ジュリアスは苦笑いを浮かべ、
「迷惑・・・とは言わぬが、そなたがいては話しづらいのだ」
それでもきっぱりと邪魔であることを明言する。
返された言葉にがっくり肩を落としたオスカーは、
「・・・・・・・・・・・・。判りました。それでは失礼させて頂きます」
いつもの快活さがすっかりなりを潜めた沈んだ声音で言いながら、軍靴の音も高らかに退出していった。
二人のやりとりを終始無言で眺めていたゼフェルは、扉が閉まるのを見届けると机から身軽く飛び降りると、ぽつり呟いた。
「・・・・・・・・・・・・。いいのかよ?」
見事に主語を省略した問いに、ジュリアスは問いで返す。
「何が、だ?」
凛とした声を聞いた瞬間、紅玉の瞳に失敗したという思いがよぎる。また、考えるより先に口が言葉を綴ってしまったのだ。いつも言わなくてもいいことを考えなしに口にしてしまい、失敗するのだ。だが、一旦口にしてしまった言葉は取り消すことができるはずもなく、ゼフェルは自分が感じたことを正直に告げるしかなった。
「おっさん、何だかしょげてたぞ」
「構わぬ。明日になればオスカーも気にしておらぬ」
口許に微かに苦笑を浮かべ、ジュリアスは気軽にそう応じた。
「はあ?」
何だかよく判らないと言いたげなゼフェルに、ジュリアスは軽く咳払いをしてから表情を改めると、真摯な光を湛えた双眸を注いだ。
「それはさておき。そなたを再度呼んだのは他でもない。今朝の件だ」
静かにそう告げられた途端、ゼフェルは激しく反発した。
「んだよ!俺にまだ小言を言い足りねえってのかよ」
紅玉の瞳には苛立ちの色が濃厚に漂っている。
ジュリアスは軽く眉間にシワを寄せたが、それでも穏やかな調子で言う。
「落ち着いて話を聞くがよい」
「うるせえ!俺はな、ジュリアス、あんたのそんな態度が気にいらねえんだよ」
最初から喧嘩腰に言い放つゼフェルにどう対応したらいいのか、ジュリアスは珍しく戸惑いを感じた。しかし考えてもよい方法が浮かぶでなく、いつもの口調で静かに言を継ぐしかなかった。
「落ち着いて私の話を聞かぬか。ゼフェル」
声音に含まれる何かを敏感に感じたゼフェルは沈黙して、首座の顔を見つめた。常よりは幾分紺碧に宿る光が柔らかいと感じられたのは、見間違いなのだろうか。
鋼の守護聖の視線を感じ、ジュリアスはそっと睫毛を伏せた。
「今朝の件で、どうしてもそなたに尋ねたいことがあったのだ」
「・・・・・・、何だよ?」
ゼフェルは少々戸惑いがちに尋ね返す。今日のやりとりはいつもとは勝手が違っていてやりにくいことこの上ない。
その思いが表情に出てしまっているのだろう、ジュリアスは苦笑を微かに浮かべ、
「何故、そなたはそう聖地から離れたがるのだ?そなたにとってここは、そんなにも嫌な場所なのか?」
常々気にしていたことを口にした。
ゼフェルは思わず目を丸くして呆然と首座を見つめるしかなかった。
「あん?」
この手の会話は、ジュリアスがいつも脱走したという事柄についてのみ厳しい口調で叱責を繰り返すのが当たり前で、ゼフェルはそれに慣れきっていたし、今日もそうだとばかり思っていたのに、こんな風に脱走する理由を尋ねられるのは反則技に近いものだった。
「あんた、何言ってるんだ?」
紅玉の瞳が不安定に揺れ動く。今日のジュリアスはいつもと様子が違いすぎていて、戸惑いを感じてしまう。しかしそれもほんの数瞬のことで、すぐにいつもの調子を取り戻したゼフェルは言を継いだ。
「サクリアだか何だか知んねえけどよ。いきなり生まれ故郷からこんな所につれてこられて閉じこめられて、良いも悪いもあるかってんだ!」
常日頃から思っていることを思いきり言葉にする。それを耳にした相手がどう思うのかなど、考えている余裕はなかった。
ジュリアスはすっと目を眇めると、
「・・・・・・・・・・・・。そう・・・か。そうで、あったな」
感情の籠められていない静かな声音で呟くように告げた
「話ってのはそれだけか?なら、俺はもう行くぜ!」
室内に漂う微妙な雰囲気にいたたまれず、ゼフェルは乱暴に身体を翻して執務室から出ていってしまった。
一人残されたジュリアスは先刻まで鋼の守護聖が佇んでいた空間を静かに見つめた。その紺碧の双眸にこれといった感情は宿っていない。ただ、静かな眼差しだった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。私はここより他の世界を知らぬ。そなたのように比ぶべき世界を知らぬのだ」
静謐に支配された室内に響く呟きは、意識しなければ聞き取れぬほどに小さいものだった。
らしくない自嘲の笑みを口の端に浮かべ、
「そなたの言葉、正しいのかも知れぬ・・・な」
吐息ともつかぬ細く小さな声音で誰にともなくそっと囁いた。
ジュリアスはそのまましばらくの間何もない空間を見据えていたが、やがて衣擦れの音と共に立ち上がると宮殿を辞していった。
8:黄昏
ジュリアスの態度に釈然としないものを感じたまま、ゼフェルは鋼の館へと向かっていたが、ふとあることを思い立ち進行方向を地の守護聖の私邸へと変更した。
地の守護聖ルヴァは突然の訪問者に嫌な顔一つせず、それどころかかえって嬉しげな表情でゼフェルを招き入れた。
「どうしたんですか?貴方がこんな時間に来るなんて珍しいですね〜」
鋼の守護聖の指定席と化しているソファを勧めながらルヴァはおっとり微笑んだ。
ゼフェルは苦い顔つきで思い切りそっぽを向きながらどかっとソファに腰を下ろすと、視線を明後日の方向に向けたまま口を開いた。
「あのよ〜、ルヴァ」
短気な言動が顕著なゼフェルにしては珍しく躊躇いがちなその口調にルヴァは微かに目を見開き、硬い表情の横顔を真剣に見据えた。普段のぶっきらぼうな態度や言動を裏切るように目前の少年の心は実に繊細で柔らかく、長らく教育係として傍らで見守っているルヴァはそれをよく理解していた。
相手が自分に意識を向けてくれていることを肌で感じながら、ゼフェルはゆっくり口を開いた。
「あのよ、ルヴァ。あんた、ジュリアスとはつきあい長いんだよな」
ゆっくりとしたテンポで紡がれた言葉はあまりにも意外なもので、ルヴァは思わず目を丸くしてしまった。事あるごとに問題を引き起こしてしまうゼフェルがその度ごとに小言めいた叱責を繰り返すジュリアスを毛嫌いしていることは有名で、ルヴァもそれは熟知している。ゼフェルがなるべくジュリアスに近づかないよう立ち回っていることも知っている。そんなゼフェルが自らジュリアスに対して興味があるような言動をしたことがにわかには信じられなかった。
地の守護聖の戸惑いを感じ取ったゼフェルは明らかに不機嫌な顔つきになったが、それでも余程尋ねたいことがあるらしい。いつもならば乱暴な捨て台詞とともに飛び出していって可笑しくない状況だったがそれを実行する気配はなかった。
「まあ、それなりに・・・」
クラヴィスほどではありませんけどねとルヴァは苦笑混じりに呟く。
話を切り出す心が決まったのか、ゼフェルは硬い表情であったが紅玉の双眸をぴたりと地の守護聖に据えた。
「あいつ、すっげぇ小さい頃に此処に来たって、ほんとか?」
きっぱりとした口調で尋ねられた事柄に、ルヴァは少々表情を曇らせる。あまり他人の私的な事情に首を突っ込みたくなかったが、求められている答えをゼフェルに与えるため重い口を開いた。
「ジュリアスが聖地に召されたのは5歳の時でした」
感情をそぎ落として口にしたつもりだったのに、それでも声音に微かに含まれてしまった哀惜にルヴァはそっと目を伏せた。
「そっ・・・か・・・」
ともすれば聞き逃してしまいそうなほど小さい声音で、ため息混じりに呟かれたその言葉は、それでもルヴァの耳に届いた。
何と応じていいのか判らず、地の守護聖は途方に暮れた表情でゼフェルを見つめていたが、やがてゼフェルの分の夕餉を頼むため部屋を出ていった。
ルヴァが立ち去ったことに気づかないままゼフェルは軽く息を吐きだすと瞑目した。その脳裏に伏し目がちの首座の守護聖が浮かんだ。
9:中夜
ジュリアスは浮かぬ顔のまま館からの迎えの馬車に揺られていたが、ふっと顔をあげて窓外へ視線をやった。
夜空には皓々と輝き渡る満月が天空の高処から聖地を照らしている。
そんな月の光に誘われるようにジュリアスは馬車を止め、すでに館まで歩けぬ距離でもないことを知るとそのまま馬車を先に帰してしまい、自身は夜気のなかをゆっくりとした歩調で歩みだした。
久方ぶりに感じる夜風は心地よく、どこかで花開いているであろう月光華の甘美な香りを運んできた。
月光華。
それは、こうした月の光が惜しみなく降り注ぐ夜に花開くという不思議な習性を持つ花。花色は限りなく澄んだ純白で、月光を浴びると不思議に蒼味がかって見えるという。そして月光を一度でも浴びてしまうともう二度と花開くことはない。
滅多に見られぬその花に心惹かれたジュリアスは、館への道筋を大きくはずれ、芳香に導かれるまま小道へと足を踏み入れていた。
小道に足を踏み入れてかなり歩いたと思われた頃、紺碧の双眸が足許に無数に花開く月光華を捉えた。
月光を浴びて艶やかに輝く花びら、そして芳しいその香り。
幻想的な眺めに、ジュリアスは心奪われた。その背中へ、
「花に誘われてきたか」
静かな声が夜気を震わせた。
瞬間、ジュリアスの肩が驚きに揺れる。このような時刻にこのような場所で誰かに出会うなど、考えてもいなかった。
草を踏みしめる音と共に、闇の守護聖が少し離れたところの木立より姿を現した。
「このような時刻に、このような場所で会うとは、珍しいこともあるものだ」
そう囁き、クラヴィスは口許を微かに歪めた。こちらを見つめ返す眼差しが同じことを思っているのを認めたのだ。
揶揄の響きが込められた口調に、ジュリアスはすっと目を細めたが何も言わず、足許で咲き乱れる月光華の群生に視線を落とした。
惜しみなく注がれる月の光をその白い花弁に思いきり受け、青白く輝く姿は幻想的で、とてもこの世のものとは思えないほどに美しく、そして儚げだった。
我知らず、ジュリアスは切なげな吐息をつく。花を見据える双眸もどこか翳りを帯びていた。
人前ではあまり内心を見せようとしないジュリアスのそんな憂い顔に、クラヴィスは一瞬動揺した。
(何という顔をする)
思わず口を開きかけるクラヴィスだったが、何と言葉をかけてよいのか思い浮かばず、沈黙する。
そのまましばらくの間、二人は黙然と月光華の幽玄なまでの美しさを眺めていた。
どれだけの間そうしていたのか、やがてジュリアスは踵を返し、辿ってきた道を戻ろうと歩み始めた。
「クラヴィス、夜更かしも大概にするがよい」
そう一言言い置き、月光華にも闇の守護聖にも一瞥をくれることなく立ち去っていた。
いつもの調子を殊更に作っているようなその声音に、クラヴィスは苦笑するしかなかった。
(慰めの言葉など、おまえには不要と見える)
一個人としての顔を見せても一向に構わない時だというのに、あくまでも守護聖としての、首座としての態度を崩そうとしない、崩せない、そんな振る舞いしかできないジュリアスを見ているのは無性につらかったが、クラヴィスはただ苦笑するしかなかった。
(自ら安らぎを求めぬ者にどうしてそれを与えることができようか)
ちらと青白く輝く花々に視線を投げたが、無粋な台詞によって大いに気分が殺がれてしまっている現状では、もう眺めていようなどとは思わなかった。
諦めを多大に含んだ吐息をつくと、クラヴィスもまた館へ戻る道筋を辿っていった。
人気の絶えた夜気のなか、花々は月の光を受けてますます美しく輝いていた。
END
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