〜 アンジェリーク 〜
1:早朝
執務開始時刻までまだかなり時間がある早朝、光の守護聖はいつも通りの時刻に聖殿に出仕してきていた。余程のことがない限り、厳格な首座は自分のペースを乱すことなどないのだ。
颯爽と肩で風を切るような足取りが、突然乱れた。こんな時間にこんなところで見かけることなど珍しい人影を認めたのだ。紺碧の双眸が闇の守護聖の執務室からその主であるクラヴィスが眠そうな表情を隠そうとせず、廊下へと歩みでてくるのを見つけたのだった。姿を認めた途端、ジュリアスの表情が険しくなり、こちらに気づくことなく立ち去ろうとしている相手に追いすがった。
「クラヴィス!」
すでに名前を呼ぶ声にも隠しようのない棘が含まれている。
実に億劫そうに声のした方角を振り返った闇の守護聖は、やれやれと言いたげなため息をひとつつき、相手と向かい合った。
この時も、犬猿の仲だと言われているその言葉を裏切ることなく、筆頭守護聖たちは朝から陰険な遣り取りを始めた。
「そなた、ゼフェルが無断で聖地を出てゆくのをそのまま見逃したそうだが、どういうつもりだ?」
光の守護聖の言っていることがすぐに理解できず、クラヴィスは少々考えこむ素振りを見せたが、やがて相手の言わんとしていることが何であるのか思い当たったらしくその口許を歪め、
「どう・・・とは?」
低い囁くような声音でそう問い返すが、さして興味がある風ではなかった。
そんな無気力を絵に描いたような態度がジュリアスの癇に障ってしようがないのだが相手は一向に態度を改める様子はなく、いつものようにジュリアスは柳眉を逆立てた。
「いくらそなただとて、どうして我らがこの地に居るのか、その理由ぐらいは十分理解していよう。それなのに、何故、あの者の行動を止めようとはしなかったのだ?」
きつい調子で言い放つが、相手はそれをさらりと流してしまった。
口許を歪めて冷笑も露わに、クラヴィスは鼻で笑う。
「ふっ、無駄なことを・・・・・・」
(いくら言い聞かせたとて、あの者にはおまえの言葉は届きはしない。首座としてのおまえの言葉など・・・)
心の内で思っていること全てを理解できたわけではなかったが、その口調、その眼差しから自分が侮辱されたと感じたジュリアスは怒気を含んで叫ぶ。己の司るサクリアそのままに誇り高いジュリアスは己が理不尽に愚弄されることが我慢できない性分だった。
「何!?」
感情の籠もらぬ空虚な闇に満たされた黒水晶の双眸が怒りに燃える紺碧の双眸をしっかり捉える。口許の笑みはすでにかき消え、限りない無表情でジュリアスを見据えた。
「己が求めるものを知らず、心の餓えのままに彷徨う者を止めることなど、出来ようはずもない」
謎かけのような言葉を呟く。
そんな曖昧な物言いにジュリアスはますます激昂してしまう。
「クラヴィス!戯れ言も大概にせよ。私はそなたと言葉遊びをするためにここに居る訳ではない」
裾捌きも荒々しく闇の守護聖にずいっと近づき、ほんの僅かに自分より高い位置にある瞳を睨み据えた。
「そなたがどうしてあの者を止めなかったのか。わたしはその理由を聞いているのだ」
互いの距離の滅多にないその近さに、クラヴィスは鬱陶しい様子を隠そうとはせず、眉間にシワを寄せ、
「おまえには判るまい。この地より他に世界を知らぬおまえには・・・」
ふっとクラヴィスの双眸に表情が生まれた。
「何故、あれほどまでに外界を恋うるのか。おまえには理解できようはずもない」
それは憐憫の色にも似た哀しい色を宿していた。
ジュリアスは瞠目してその場に硬直してしまった。あまりにも意表をついた表情、声音に、明晰なはずの頭脳が一瞬動きを止めてしまったのだ。
闇の守護聖は自分が相手に与えた衝撃など知らぬげに、重い足取りでその場から辞去していった。
やがて硬直が解けたジュリアスはそれでもしばらくの間、その場に立ちつくしていた。
(私が何を知らぬと?そなたは一体何が言いたかったのだ。いつも曖昧な言葉ばかり残して去ってしまう。残された私がどう思うのか知ろうとせずに・・・)
しかしそんな物思いに囚われたのもほんの僅かな間のことでしかなく、ジュリアスは面から一切の表情を消すと、颯爽と己の執務室へ向けて歩き始めた。
2:午前1
一旦館へ戻りかけた闇の守護聖だったが、執務にでも取り組もうなどという実に珍しい気紛れを起こし執務室へと鎮座した。そしていつもより早い時刻から執務に取り組んだ結果、それなりのペースで書類を片づけていた。しかしいつもと違う行動のつけがきたのか、クラヴィスは執務机に向かったまま眠りの淵へと沈んでいこうとしていた。
昨晩遅くまで月の光にその身を曝していたこともあり、訪れる心地よい眠気に抗いきれず、というよりも抗おうなどと毛頭思いもせず、クラヴィスは机の上に広げていた書類を脇に押しやると両肘を机について軽く指を組んだそこに顎を乗せて目を閉じる。いつもならばこのまま浅い眠りに落ちるのだが、今日は何故かそうはならず、クラヴィスはその姿勢のままつらつらととりとめのないことを考え始めた。
とりとめのない思考はとりとめのないまま様々な事象へと向かっていったが、やがて昨夜見上げていた見事な月光へと流れていった。その月の光から連想されたある事柄に知らず微かに笑みを口許に浮かべるクラヴィスだったが、しかしそれも脳裏を金の輝きが過ぎったことで不意に途切れた。
金の輝きの正体は室へ侵入した外光だった。隣室の扉に比べて格段に開かれない闇の執務室の扉を誰かが押し開いため、薄暮に支配されていた室内に外光が忍び込み、それが闇になれていた黒水晶の双眸を射たのだ。
「失礼いたします」
涼やかな声音とともに水の守護聖リュミエールが愛用の竪琴を片手にしずしずと入室してきた。
心地よい微睡みを一瞬にして粉々にした相手に良い感情を抱くことなどできるはずもなく、クラヴィスは不機嫌な顔つきで不躾な来訪者を一瞥した。
自分に注がれる鋭い視線に水の守護聖は相手の機嫌を損ねてしまったことを悟り、水色の瞳に悲しげな光を宿し視線を床に落とした。
今朝方、光の守護聖と諍いめいたやりとりを交わしていたことを聞き及んだリュミエールは、闇の守護聖のことが気にかかり、少しでも慰めになればいいと竪琴を携えて出向いてきた訳なのだが、その行為がかえって相手の気分を害していたのでは本末転倒もいいところである。
「何用だ?」
片眉を軽く引き上げてやはり不機嫌な声音のままクラヴィスがそう問えば、リュミエールはますます申し訳なさそうな表情を浮かべ俯いてしまう。そしてそれ以上何ら行動を起こそうとしなかった。
このままでは埒が明きそうにないことに気づいた闇の守護聖は、面倒なと言いたげなため息をひとつつくと組んでいた指先を解き、居住まいを正した。そして扉の前に佇む水の守護聖に改めて声をかけた。
「何用だ?」
再度問われたリュミエールは、その声音が幾分先刻のものよりは和らいでいることを知った。
「はい。クラヴィス様に竪琴の音をお聞き頂こうと思い、さしでがましいこととは思いますが、こうして足を運んで参りました」
その姿に相応しい涼やかな声音で、水色の麗人は詠うようにそう告げ流れるような動作でクラヴィスの傍らに歩み寄ると、竪琴を奏でるために支度にとりかかり始めた。
数分後、闇の執務室は玄妙な音色に満ちた。
3:昼1
緑の守護聖マルセルは浮かない表情のまま、聖殿の中庭を重い足取りで歩いていた。
昨日遅く、鋼の守護聖ゼフェルが無断で聖地から外界へ遊びに行ってしまったことを知りながら、それを阻止できなかったということで、守護聖たちの首座を務めている光の守護聖ジュリアスにきつく叱られたのだ。
無論、外出していた当の本人も一緒に小言を聞かされていたのだが、すぐに雑言を放つとそのままどこかへ雲隠れしてしまったのだ。そしてその分、マルセルへの小言の量が増えたことは言うまでもなかった。
確かにジュリアスの言い分はいちいちもっともなことで、非の打ち所がないくらいの正論だったが、マルセルにはどうしても納得のいかない部分があった。
ジュリアスの話はあくまでも理性的な意見に支えられた理想論といってしかるべきものだったが、ジュリアスが考えるほど人は物事を理性的にとらえることなどできはしない。
守護聖などという特殊な環境に置かれてはいるが、人である以上は守護聖にだって色々と雑念があると思うし、そうそう自分の感情を押し殺せる訳がない。
そんなマルセルの言い分を、多分ジュリアスは『若さゆえ』と断言してしまうのだろうが、マルセルには納得できなかった。そして、そんな風に理性的に振る舞ってしまえる光の守護聖が理解できなかった。
聖殿の自分の執務室に向かう途中、不意にマルセルは声をかけられた。
「はぁ〜い、マルセルちゃ〜ん。浮かない顔して、どうしちゃったの〜?」
綺麗に整えられた手をひらひらさせながら、夢の守護聖オリヴィエが壁にもたれてるようにして佇んでいた。
「オリヴィエ様?どうされたんですか、こんなところで・・・」
常日頃から自分にお化粧をしようと目論んでいる相手だけに、マルセルの声が自然と固くなった。
「どうしたの?暗〜い顔しちゃって・・・。ジュリアスにでも怒られちゃったのかな?」
無邪気な緑の守護聖にこんな顔をさせるだろう出来事のうちの一つを、冗談交じりに口にする。
その途端、マルセルは唇を噛みしめて俯いてしまった。
「あら、大当たり?」
むき出しの肩を軽く竦め、足音をたてずにマルセルの傍らまで歩み寄ると、すっと顔を覗き込んだ。
感じやすいスミレ色の目を潤ませて、マルセルは唇を軽く噛みしめていた。
守護聖になってまだ日が浅く、自分の感情にとても正直な少年のそんな様子は見ているだけでとても痛々しく、オリヴィエはやれやれとため息をついた。
「マルセル、ジュリアスはあんたに何ていったのさ」
オリヴィエの宥めるような口調に、マルセルはぽつりぽつり執務室でのやりとりを口にした。
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