1778年8月10日に完成する。
交響曲第41番については、音楽の分野に限らず、人類の記念碑的な遺産と記している文章を読んだことがあるが、全く異論はなく賛成である。
多くの人が指摘しているように、私も基本的にモーツァルトはオペラの作曲家であると感じている。しかし、モーツァルトの作品を1曲だけ選ぶとすると、交響曲第41番を選びたい。構造的にしっかりしていること、他の作曲家に与えた影響を考えるとこの結論に達する。交響曲第41番が存在しなければ、おそらくベートーヴェンも第1交響曲のインスピレーションが湧かなかったに違いない。
この交響曲はハ長調で作曲され、ソナタ形式が守られている。特に5種類のテーマが登場する最終楽章の壮麗な姿は感動的である。対位法の極致であり、何度聴いても新しい発見がある。聴き終るともう1回聴き直したくなる。(全部を聴こうとすると耳がついていけないこともあるが。)モーツァルトは短期間に、交響曲第39番・40番・41番を作曲し、その天才ぶりを示している。これらの交響曲はワンセットともいえるのだが、それぞれ個性が違い、ますますモーツァルトが天才的な作曲家であったことに疑念の余地はない。
モーツァルトが生きていた時代の交響曲について、若干触れるが、モーツァルトが活躍していた時代の音楽の先進国はイタリアであった。そのことは音楽用語をみれば容易に想像できるかもしれない。音楽会のメインはイタリア語のオペラであった。音楽会のはじめには交響曲の前半(序曲的性格なもの)が演奏され、その後メインのオペラが上演された。そして最後に交響曲の後半(フィナーレ)が演奏されていたのである。ベートーヴェン以降の交響曲中心の音楽会に慣れてしまっている我々にとって、交響曲が軽んじられていたことについては理解しにくいことである。しかし、モーツァルトの時代の音楽会はそのような形式であった。ここで、私が強調したいのはたとえ演奏のされ方はどうであれ、内容的には優れており、当時の音楽的枠組みからはみ出してしまっていることを知っていただきたいと思うのである。モーツァルトの作品には、形式が堅持されつつ、内容的には充実して枠組みに収まりきれない事例が他にもたくさんある。
最後の三大交響曲に関しては、特に具体的な演奏会が予定されていないにもかかわらず作曲されたといわれることがあり、神秘的な印象を抱く人がいるが、私の意見は否定的である。当然モーツァルト自身これらの交響曲が最後のものであると認識していないこともあるが、一番の理由はモーツァルトがプロフェッショナルな作曲家であったということである。モーツァルトは依頼を受けたり、予約演奏会などのために作曲をした。モーツァルトは、「どのような曲でも書ける。」と語っているがそのとおりであった。たとえば、アマチュアの場合嫌いな曲は無視すれば良いのであるが、プロフェッショナルな演奏家の凄いところは気に入らない曲でも、そんなことを微塵も感じさせず見事に演奏をする。作曲家についても同じことが言えるのである。また、少なくとも、交響曲第40番についてはクラリネットヴァージョンの第2稿が存在している。このことは実際に演奏されたことを示している。更に、クラリネット奏者の依頼により修正されている事実も確認されているので、ただ単に演奏記録などが残っていないだけだと思われる。
英語圏では交響曲第41番はジュピターと呼ばれている。その由来の詳細は不明とされている。ロンドンの興行主 J・Pザロモン が呼び始めたらしいが、多くの場合、曲の勇壮なイメージからギリシャ神話の雷神ユピテル(ゼウス)と名付けられたと説明される。しかし、私が1984年昭和女子大学人見記念講堂でクリストファー・ホグウッド指揮のエンシェント室内管弦楽団の低いピッチの演奏で交響曲第41番の最終楽章を聴いた際、ホールの天井にゴーッという雷のような低音の唸り音を聴き取った。これがジュピターの由来だと直感した。どの文献を紐解いてもこの解釈は記載されていない。できれば識者の意見も伺いたいと思う。
演奏・録音
CDは、PHILPS、サー・コリン・デイビス 指揮 ドレスデン・シュターツカペルレ の演奏と録音がともに素晴らしい。但し、私はレコードと2種類のCDを所持しているが、1995年発売された PHCP-3969 (410046−2) でなければならない。2002年に発売された後期交響曲選集(35・38・39・40・41番〜輸入盤;未確認であるが国内盤は出ていない。) 47054−2 は録音時期に幅があるためなのか、選集として統一した状態に音が加工されている。具体的には残響が加えられ音が劣化している。
デイビスの指揮は徹頭徹尾中庸である。指揮者としてはいろいろやりたいのではないかと思うが、踏み外すことはない。ドレスデン・シュターツカペルレの強固なアンサンブルの特性もあるが、このような指揮をするのは至難の業である。基本的にモーツァルトの交響曲の演奏はドイツのオーケストラが似合う。
他に、ニコラウス・アーノンクール指揮 アムステルダム・コンセルトへボウ管弦楽団の演奏も交響曲第41番の構造を知る上では興味深いものがある。現代音楽風に処理されている部分もあり、この録音が出た1980年代の初め、私はかなりの衝撃を受けた。得る物は多い。しかし、今は静観している。当時吉田秀和さんの「これが全てという訳ではないが。」とFM放送で解説されたことばが耳に残っている。瞬時に的確な判断をされていた。
クリストファー・ホグウッドのCDについても若干触れるが当然、オーディオの再生では倍音成分の感動を追体験することは不可能であった。なお、私が聴いた当夜の民放FMのエアチェックも保存しているが、倍音成分は聴き取れない。この演奏はCDとは違い、ホグウッドが指揮の他に通奏低音(チェンバロ)を担当しているが、じつに素晴らしい。現在、TDKでは過去の実況録音をリリースしているがこの演奏も取りあげていただきたい。
モーツァルト・イヤーにドイチュ・グラモフォンの新録音が出ているが、マルク・ミンコフスキ指揮、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル (2005年10月、グルノーブル、ライブ、アルヒーフプロダクション 00289 477 5798 交響曲第40番、イドメネオの一部、交響曲第41番、国内盤も出る予定)の録音に注目したい。この指揮者については今まで知らなかったのであるが、古楽器の演奏である。演奏内容はライブであることがすぐ分かるものであるが最終楽章などは私がティンパニ奏者だったらこようにたたくかもしれない。但し、交響曲第40番については非推薦である。
Symphony No.41 in C major "Jupiter" K.551
In the English area ,the Symphony No.41is calld Jupiter.Although it is unknown for details.However,when I heard the last movement in 1984 by the performance of the low pitch of the Ancient chamber orchestra (directed by Christopher Hogwood) in Showa Women's University Hitomi Memorial Hall,the roar sound of low piched calld "gohoo" was caught on the celing of a hole.It has sensed that this is Jupiter's origin.This interpretaion is not indicated even if it reads which reference.I will want to also ask the opinion of intellectuals.
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