―1― 天界。それは神の造りし箱庭。 天上の樹が無数の大きな枝を広げているそこは、端から端まで透き通り、光の反射さえなければ、 何かがあるということにも気付かない程、澄み切った透明な空。 そして、遥かな神秘の泉に浮かぶような、幾つもの虹色の卵。 それがゆっくりと回転しながら、銀の光を吐き出し、不思議な模様を描いていた。 光の帯は波紋のように広がり、重なり合い混じり合ってもけして消えることは無い。 それは、どこか惑星の軌跡にも似ている。 空に浮かぶ波紋の中に踏み入れば、そこには広大な空間が広がっている。 真っ白な象牙と銀で編みこまれた神殿の扉や、白い鳥が遊ぶ湖があり、甘い香を漂わせる無数の花園が彩りを添える。 ここは、天界の中でも重要職につく天使や王族しか足を踏み入れられない神聖な場所(ベリアー)。 キラキラ輝くパス(小径)が世界を繋ぎ、無数の光の網が出来ている。 その様子は、遠くから見るとまるで複雑な細工を凝らしたティアラのように、美しく映った。 もっとも、そんな風景を見られるのは、本当に神だけであろう。 その鏤められた珠と糸の全てを総して、”大天使たちの守護する城”と呼ばれる。 その右上の端、ちょうどセフィロトで言えばコクマーのあたりにある卵の中に、その建物はあった。 霧の海にぽっかりと突き出した小さな空中庭園。 何も知らない者ならば、見逃してしまうような場所に、一人の天使が降り立った。 「おはよう…いいお天気ですの」 のんびりとした透明な声が響いて、小さな鳥篭の扉に白い手が伸びる。 「…あら? また間違えてしまいましたの…」 手は、鍵に差し込もうとしていた金の鍵を引込めて、代わりに銀色の鍵を差し出す。 鍵は、かちりと開いて、開いた扉から真っ白な鳥がふわりとその手に飛び移った。 「よしよし。いい子ですのね」 小鳥の頭を撫でているのは、この庭園で働く天使。 正確に言えば、庭園にある唯一の建物……この世の全ての書物を集めた図書館の、司書の役割を務める者だった。 長い赤銅色の髪が、何故か顔の半分以上も覆い隠している。 鳥篭の鍵を、鍵束の中に戻して、いとおしげに肩に鳥を乗せると、重厚な柱が立ち並ぶ中庭を後にする。 床にぴったりと飴細工のように伸ばされ、磨かれた蛍石が、天使が通った痕を淡く煌かせた。 やがて、複雑な回廊を迷うことなく抜けたその天使が、数メートルある大きな銀の扉の前で足を止めた。 長い前髪に隠れ掛けた瞳を、細く顰める。 「……誰かいらっしゃるのかしら…」 ティン、と鍵束の中から赤い鍵を外す。あかがね色に輝く鍵は、天使の手の中で長い杖(ロッド)と化した。 この図書館には、天界の施設としては珍しく、魔界にも利用者がいる。 悪魔も高位の者ほど洗練され、紳士的に振舞うので揉め事は少なかったが、天使としてはまったく気を許すという わけにもいかなかった。 しかし、象嵌細工が施された縁を押して、重そうな扉がなんなく開くと、そこに感じたのは堕天使特有の邪気ではなく、 いっそ清々しい程の、光溢れる気配だったので、ほっと杖を下ろす。 「もう……」 天使はつかつかと部屋の右端まで歩いていく。長い、束ねることもせずただ垂らしただけの髪がゆらゆらゆれた。 天井まで届く本棚と本棚の間に作られた、閲覧用の長椅子を覗き込む。 赤いビロードの張られた肘掛に銀髪の頭を凭れさせて、一人の天使がすぅすぅと寝息を立てていた。 白い頬に、繊細な睫が影を落とし、微かに開いた薄紅色の唇から安らかな息が漏れる。そのたび、 僅かにウェーブがかった銀糸の髪が胸にゆっくりと降りかかった。 その、あまりにも幸せそうな寝顔に綻びかけた顔を引き締めて、赤銅色の塊のような天使はもう一人の天使の肩を突っついた。 「…閲覧室は、仮眠所ではありませんのよ?ツァド」 「ん……んん…ふ……う?」 ツァドと呼ばれた銀髪の天使は寝返りを打とうとして、ずるりと頭が落ちた。眠そうに目を擦りながら、いかにも大儀そうに 身を起こす。 「おはよう……シーズィエル」 「おはようございます、ツァドキエル。もう、こんなところで寝るのは、貴方ぐらいですの」 シーズィエル、と呼ばれた天使は、ツァドキエルが勝手に閉めてしまった大きなフランス窓のカーテンを開けた。 部屋の中に、眩しい日の光が差し込む。 「……あう、溶ける……」 「あんたは吸血鬼かですの!」 窓とは逆向きの肘掛に頭を移して、ゴソゴソと丸まろうとする相手に、思わず突っ込みが飛ぶ。 「その分だと、また、警備官を撒いて地上から直接来ましたのでしょ? ガジュエルが捜してましたのよ」 「……あいつは、お役目熱心だからなぁ…」 神の国を守る、警備官たち…その中でも地上と天界の境を守る知人の名前を出されて、ツァドキエルは遠い目になった。 知人といっても、仲がいいわけではない。どちらかというと最悪の域に達する。 「どうして、正規のルートで帰還しませんの? それだから堕天の疑いを掛けられたりするのです…」 シーズィエルは、心配そうな表情になる。 天使にとって、堕天は最も不名誉かつ重大な罪だった。 もはや天使ではないと判断されて烙印を押された者は天界を追われ、地獄で暮らすことを 余儀なくされる。天使の持つ様々な能力も取り上げられる。力の弱い者なら、発狂しそのまま狂い死ぬか、または凶暴な魔物に 食われることになるという。 堕天使の容疑ある者を狩り立てるのも、警備官の役目である。 「…う〜ん。まぁ面倒臭いし…」 「もう、ツァドったら。仕方の無い方ですのね」 シーズィエルは、しょうがないというように肩を竦めて、白い鳥を腕の方に移した。 椅子に沈み込んで目を閉じるツァドキエルを尻目に、シーズィエルはバサリと翼を広げる。 その背中から生えたのは、天界でも珍しい、大きな朱色の羽だった。 「ru-rura-rurarari-…rarararu-rira……」 シーズィエルが甘い声でハミングを始めると、その翼はまるで炎のように輝き、赤銅色の髪も見事な朱金に染まった。 「raurau-ri-ra-……rara…」 シーズィエルが腕を広げロッドで複雑な紋章を描いた。それに答えて、白い鳥の羽がふわふわと抜け落ちてまるで雪のように舞う。 その羽の一つづつが小さな本になり、シーズィエルの手の中に集まってきた。 「ruiri-ruira-rara-ri-ra…」 シーズィエルは丁寧に一冊一冊の本を受け止めて、そのあるべき棚へと送ってやる。閲覧室は、暫く本のバサバサいう音に包まれていたが、 やがて静まり返った。 人間が作った書物などの情報体を、劣化しない状態にして保存する。それがシーズィエルの役目だった。 「ru-ruria-ra-ra-ra-…」 歌詞の無い歌を唄い終えると、羽もゆっくりと光を失い、重そうに畳まれる。ロッドも元の鍵に戻し、鍵束に付けた。 「ぱちぱち」 ツァドキエルは半分頭を上げて、本当に手を叩くのは億劫だとばかりに、口で呟いた。 「…綺麗な声だよね。そんなに歌が好きなんだから、もっとみんなの前で歌えばいいのに」 「ダメですの!」 シーズィエルは、僅かに見えている頬をその羽と同じ真っ赤に染めた。 「みんなの前でなんて、とても恥かしくて出来ませんの。それに、私はツァドのように美しい、天使らしい天使じゃありませんし…」 ばたばたと手を振る。その口調はとんでもないと言っているようで。 「そうかな?」 ツァドキエルは、シーズィエルの、一度も櫛を入れたことがないようなボサボサの髪に包まれた顔を見上げた。 その髪は前髪と一緒になって顔の半分以上を覆い隠し、更に濃紺の長い衣の上に肩から腰へと流れ落ちている。 前髪の間から見える瞳は、何色だか良く解らない薄い色で、瞳孔の小ささと相まって、なんとなく見るものを 不安にさせる目だと言えた。 「…個性的なのは、いいことなんじゃないかな?」 「全然良くありません。ツァドってば意地悪なのね」 ツァドキエルはう〜んと伸びをする。 「そういえば、昔、自分の髪が黒すぎるって悩んでいた奴がいたっけ。ホント、女性って外見を気にするね」 「……私は女性ではないですの」 シーズィエルは、むすっとして答える。 「天使は、人間のように生殖活動で繁殖するわけではないので、性別は必要ありませんの。そりゃ性別がある天使で立派な方も いらっしゃいますけれど。とにかく、私は無性体(セクサレス)ですの。ツァドキエルと一緒です」 「ああ、そうだったね」 ツァドキエルは、天井に描かれた宗教画…人間の世界では、失われたと言われている名画…をぼんやり眺める。 「ねぇ、情報の天使でアカシック・レコードの守護者たる君に尋ねたい」 「もう、またそんな言い方をして。…なんですの?」 「人間と天使の違いは、何だと思う?」 ツァドキエルの問いかけに、シーズィエルは、少し戸惑ったように答えた。 「何って…。全て違います。私たちは人間と違って、自分の存在の基盤を物質に頼っていないし、 それに…」 「それに?」 「翼だってある」 シーズィエルは、自分の朱色の羽根をパタパタさせた。 「ああ…なるほどね」 「ツァドはどう思っていますの?」 「僕?僕が思うに、天使は決められた時に、決められた目的を持って生み出される。 人間は特に使命もなく生まれて来る」 「それだけ?」 「うん、それだけさ」 ツァドキエルは、足を投げ出して欠伸をした。 「僕たちは精密に作られた機械のように、全く遊びがない。目的から外れたら天使ではなくなる…つまり堕天するってことだね。 ようするに、人間の方が自由だってことさ」 「そういえば、そうなのかもしれませんけれど…ツァドキエル、貴方まさか本当に堕天するつもりなのでは……?」 シーズィエルは不安げに相手を見やった。 「……まさか。そんな面倒臭い。僕は、別にやりたいこともないし、魔王(ルシフェル)に味方する義理もないし。 このまま天界でやっていくさ。多分永遠に…ね」 そういえば、とツァドキエルは半分長椅子に沈みかけた顔を上げる。 「もう一つ、人間と天使の違いがあったなぁ。僕たちは物理的な食事では、活動エネルギーを摂取したことにならないんだよねぇ」 「つまり?」 「つまり……ねぇ、シーズィ、お腹空いた」 ツァドキエルは、情けない顔で空腹を訴える。 「お腹が空いた、というのは解りませんけれど、ツァドのアストラルが薄くなっているのは解りますの」 「うん、つまり天界の門番が気がつかないくらい、僕の存在が希薄になっているってこと。ただそれだけなんだよ」 消え入りそうなツァドキエルの告白に、シーズィエルは薄い瞳を見開いた。 「それは、とても危ないことではありませんか! どうしてそんなになるまで放っておいたんですの?」 「いや、迷惑を掛けたくないしね…」 「私は迷惑だなんて思っておりませんの。ほら…手を出して」 ふわっとシーズィエルの翼が広がった。それに対応するように、うつ伏せになったツァドキエルの背中にも、大きな羽根が開く。 日の光の元で、眩しいくらいに輝く純白の翼。しかし、それは片方しかない。 昔ツァドキエルがある罪に問われた時、その一方の翼を折られたのだ。 羽根が無ければ、天使は生きていけない。生体エネルギーであるアストラルも取り入れられず、身を守る抗魔力も無くなる。 例え片羽根でも、折られた天使は存在を侵食される。精神は変化する自分に付いていかずに狂う。 痛みから気を失い、また苦しみで覚醒する。そんな中でその殆どは”天使でないもの”になってしまう。神の祝福を受けない、闇の生き物に。 しかしツァドキエルは、天界の牢獄でなんとか片羽に順応した。 堕天もせず、生き残ることが出来た彼の罪は不問とされ、暫くは城に幽閉されていたが、ある方の口添えもあって、役目に復帰している。 それは、彼にとっても、長い苦しい時間だった筈なのだが…。 そんなことを考えながら、差し出されたツァドキエルの手を握ったシーズィエルは、一気にアストラルを解放した。 二人の間で踊り狂う光たち。その乱反射の中で、シーズィエルの羽根が一際美しく輝く。 やがて混じり合った二人のアストラルが、清らかな水のように翼に流れ込み、身体と精神を潤した。 おお、わが主よ。祈りを聞き届けたまえ。 哀しみの海から、御魂を救いたまえ。 涙は、天に還り、光の花を咲かせ。 鳥は、天を駆けて喜びを唄う。 おお、我が主よ。 苦しみは、神聖な言葉で語りかける。 どんな暗闇も、貴方に至る路になり。 光の花が照らしてくれるのだと。 おお、我が主よ。 その優しき腕に、病む心を寄せて。 閉じた瞼に、癒しの言葉を給わん。 確かにそうなることを(アーメン)… パチパチパチ、と二人から少し離れた場所で、拍手が聞こえた。 翼を畳んだシーズィエルが振り返ると、エメラルドのような涼しげな緑の瞳に出会った。 「…ガジュエル」 「さすが、シーズィエル。フェネクスの親族(かたわれ)だけあって、見事な声だな」 「やめて下さい」 シーズィエルは、ふいと視線を逸らして硬い声で言った。 「もうあの人と私は関係ありませんから」 「…いや、別に貶した訳ではなく。彼は、非常に優れた歌い手だった。君も、その赤い干草のような髪をなんとかすれば、 神の御前で唄えるようになるかもしれないな」 シーズィエルの白い手が微かに震えているのを見たツァドキエルは、長椅子から起き上がった。 「君が用があるのは、僕じゃなかったかな?」 「……勿論そうだ。ツァドキエル。何回呼び出しを無視すれば気が済む?! 上の方も、お前の態度にはお怒りだぞ!!」 「あ〜……そうだったかな?」 「まったく、ふざけた奴だ。これが木星の大天使か?! ほれ、さっさと手を出さんか!」 「……シンファ(アストラル交換)だったら、さっきシーズィエルにして貰ったばかりなんだけどなぁ…」 ガジュエルは、何かを問うようにシーズィエルを見た。 「私は、心と心の交流であり、大切なアストラルをお互いに交換するためのシンファを、尋問の道具に使うのは好きませんの」 「しかし、相手の心から情報を得るにはこの方法が一番だ。君は情報を引き出すことに長けているのだろう」 「……いいえ、出来ません」 ガジュエルは、しょうがない、という風に溜息を吐くと、ツァドキエルの手をぐぃっと掴む。 「私だってお前なんかとシンファはしたくないが、これも役目だからな」 「乱暴だなぁ」 「煩い、黙れ。私のアストラルが受け取れないというのか!」 「……はいはい」 ここでは静かにしてください、と眉を顰めるシーズィエルをよそに、ガジュエルは純白の翼を広げ、 ツァドキエルはそれに従うように片羽を開いた。 二人の間の光は、まるでお互いを探り合うように衝突したが、やがて諦めたように混じり合って消えた。 「う……いたたた」 ツァドキエルは、手を離すと額を押さえてうめいた。 気が合わないもの同士が、しかもリラックスしない状態で行うシンファは、時に酷い悪酔いを起こす。 「…ふ、ふん。まだ堕天はしていないようだな」 ガジュエルも、眉を顰めて呟く。 「…ツァドキエル、今日はこれで許してやるが、まだ我々はお前への疑いを無くした訳ではない。行いに気を付けるんだな」 「りょ〜かい〜」 ツァドキエルは、力なくパタパタ手を振る。 「それでは、私は役目に戻る」 無理に姿勢よく去って行くガジュエルを見送って、ツァドキエルは長椅子に崩れ落ちた。 「元気だなぁ…あいつ」 呟いて、目を閉じる。 「あの……ツァドキエル」 ぎゅっと服の裾を握っていたシーズィエルが、おずおずと口を開いた。 「ん?」 「……なんでもありませんの」 シーズィエルは俯くと小さく溜息を吐く。 フランス窓の外では、沈むことのない太陽がなお優しい光を投げかけていた。 |