|
月下の夢物語。 そして彼女は初めて恋をした。 黒い翼と、灰色の瞳のひと。 生きる時間も、種族も違う。 魔の血、に。 廃墟となった、古い神殿の片隅。 黒いシルエットを見つけた黒髪の女性は、顔を綻ばせる。 たった一人の、自分の恋人。 帽子を被ったその影は、お伽話に出てくるボーシャのようだと思う。 思わず、駆け寄ろうとして、その表情に気付き静かに歩み寄る。 張り詰めた空気が流れ、それに戸惑った。 「ここを、離れようと思っているのです」 彼は呟いた。どこか、疲れきった眼差しで。 そうですか、という自分の声が、とても遠くに聞こえる。 「連れて行っては下さらないのですか?」 女性は、僅かな願いを込めて聞いたが、その答えはすでに解っていることだった。 「いいえ。私から離れなさい」 嗚呼。 と彼女は心の中で呟いた。 また、切れてしまう。私を繋ぐ縁(えにし)が。 私をこの地に結び付けていた、小さな楔が。 そして、もう、私を強制的に存在させ続けて来た神の力は、ない…。 女性は小さく笑った。 急速に、身体から力が抜けて、指先が朧に霞んでいくのが解る。 まだ、彼は気付いていない。 「私から離れて……”幸せ”になりなさい」 そんな言葉が、彼女の頭に木霊のように聞こえる。 「それならば、私は、消えます」 言った時、彼が、困った顔をしたことが、彼女には少し意外で。 「貴方が、私を留めている楔でした」 だから、消えるのは自然です。と囁く。 元々、彼女は神に無理矢理生かされている身だったから。 その力から逃れることを手伝ってくれたのは、彼だった。 血の契約により、自分を夜の一族に加えてくれたひと。 ありがとう……。 僅かな刻でも、私に本当に生きる時間をくれて。 そう思うと、女性の目に、泪が滲みそうになる。 無理に微笑みながら、彼女は数ヶ月前を思い返していた。 月の光に照らされた神殿。 ここで、彼女は始めて彼の人に出会った。 地獄の底から、自分の主たる魔王を捜して、地上に舞い降りた堕天使。 優しい声音と物腰に、深い闇を隠したひと。 彼女には、まるで、夜が見せた幻想のように美しく思えた。 いいえ、幻なのは多分私の方。 それならきっと、忘れることは容易い。 心の中で呟く。 彼が忘れることも……。 「でも、もし私に会いたいと思ったら、呼んで下さい」 そっと微笑み、自分の血を赤い鳥に変えながら、彼女は言う。 なんて欺瞞だろう。 こんな血の欠片を彼に託したところで。 所詮は素人の魔術の真似事。 自分の魂を、甦らせることなど出来ないだろうに。 けれど、私が消えることは、誰のせいでもないのだから。 彼が、ほんの少しでも責任を感じてしまわないように、と。 彼女が最後に残す小さな嘘。 しかし、それが試されることは、ないだろう、と。 彼が、自分が居なくなったことを悲しんでくれたり、寂しいと思ってくださることなど、多分ないのだと、 女性はそう思っていた。 少しづつ、身体が消えて行くのが解る。 海の泡のように。 やがて、この世界の何処にも、彼女は存在しなくなる。 ああ、辛さも哀しさも嫉妬も知った恋だった。 私さえ居なければ…と思い詰めたことさえある。 しかし、全て、溢れる程の幸福の中にあったのだと思う。 彼を愛した喜びの翼で、いつも抱き締められていたと。 ちゃんと伝えなくては。残った僅かな時間で。 女性は、にっこりと、心を込めて微笑んで見せた。 「貴方の傍に居ることが出来て、本当に幸せでした」 霞む目に、彼が何処か苦しそうに映る。 どうしてだろう、とぼんやり思いながら、冷たい唇を微かに重ねた。 「ずっと愛しています。永遠に……貴方だけを」 忘れないで欲しいとは思わなかった。 いつか、ふと思い出すこともあるかもしれない。その時は、穏かな思い出であって欲しい。 こんなにも愚かな女がいたと、笑って欲しい。 それでも、もし、貴方が少しでも私を惜しんでくれたなら……。 赤い鳥が、長い尾を揺らめかせて飛び立つ。 奇跡など起こせない筈の欺瞞の魔術。 女性の体が今しも、空気に溶けようとした時。 待ちなさい、と。 彼の叫びが、一滴の甘い香水となり、彼女の心を淡い薔薇色に染めた。 |
