「私、お父さまを誘惑してくる!」
それは、こんな言葉から始まった。
―1―
その夜も、館は柔らかな静寂に包まれていた。 暖炉には薔薇のオイルを垂らした蒼い炎が燃え、蝋燭の灯りが無数の影法師を作ってちらちら揺れる。 窓際では、穏やかな表情をした女性が、揺り椅子に腰掛け編み棒を動かし、その足元で黒い子猫が考え深げに前足を舐めていた。 ――皆様、始めまして。 わたしの名前はケティ。 リドル様の使い魔兼、お傍係兼、お遊び相手でございます。 リドル様は、わたしの主。 魔界で名を知られた悪魔様の、姫君でいらっしゃいますの。 今はこの静かなお屋敷で、優しいお母さまと一緒に暮らしていらっしゃいます。 お父さまは、彼の有名な…ええと…うっかりお名前を失念してしまいましたわ。 い、いえ、失礼をするつもりはないのですけれど…。 あの方、あまりこの屋敷に留まっていらっしゃらないんですの。 この間お会いした時も、とても恐れ多くて顔など上げられず…。 ……あ、そうでした。リドル様のお話でしたわね。 リドル様は、柔らかくふわふわした長い黒髪と、愛らしい蕾の唇。 そして、ミルクに花びらを浮べたような、薔薇色の頬をしていらっしゃいます。 声は銀の鈴のように美しく、微笑みはまるで歌に聞く天使のよう。 左右色の違う瞳は、銀掛かった灰色と、目の覚めるような藍。 その姿は、至高の宝石のように気高く、曇りなきお方です。 ただ、性格の方は……いえ、大変お優しい方なのですけれど。 無茶なことも平気でなさるし、気紛れで、思いついたら即実行。 少し考慮が足りないというかなんというか…。 そういえば、この間も…… 「……ティ、ケティ!」 主の呼び声に、わたしは慌ててしっぽを揺らめかした。 「お呼びですの、リドルさま?」 にー、と鳴いて走り寄ると、リドル様は暖炉の前で寝そべり、頬杖を付いていた。 「何を、独りでブツブツ言っているのよ?」 「い、いえ、大したことではございませんわ。でも、リドルさま…」 「なぁに?」 伸びてきたリドル様の手が、わたしの顎の下を擽る。 足をブラブラさせるなんて、お行儀が悪いですわ、と言いかけたが、勝手に喉がゴロゴロ鳴ってしまう。 「あ〜、つまらない。退屈ね、ケティ」 「昨日、家庭教師が置いていった本がありましたわ。お読みになりまして?」 「…ああ、あれは暖炉の炊きつけに使っちゃったわ」 わたしは思わず、後を振り返る。大きな古めかしい暖炉の中で、楽しげに踊る炎。甘い薔薇の香りが微かに漂う。 「リドルさま…」 「だって、あの先生の話、ちっとも面白くないんですもの。ねぇ、お母さま?」 それまで、ただ静かに編物をしていたリドル様のお母さまは、揺り椅子から優しい眼差しを投げかけた。 「…暖炉に近付く時は、火傷しないように気を付けて下さいね」 「はぁい」 ……お優しいのはいいけれど、少し甘過ぎるのではないかしら。 コロコロと膝から零れ落ちた毛糸玉を、リドル様がわたしの前に転がす。堪らず、薄紅色のふわふわした塊にじゃれ付いた。 暫く遊ぶうちに、毛糸が長く伸びて、奥様…リドル様のお母さまは「あらあら」と苦笑した。 どんな時も、奥様が怒った所を見たことがない。 「あ〜、もうつまらない。平穏なのにも程があるわ!」 ほどけてしまった毛糸の巻取りを手伝った後、リドル様は小さく叫んだ。 「平和なのはとてもいいことじゃないかしら」と、奥様。 「……ねぇ、お母さま。お父さまは今日も帰っていらっしゃらないの?」 「そうみたいですね」 愛娘に蒼い瞳を向けながら、それでも手を止めることなく、彼の方は相槌を打つ。 「もう、ずっと会ってないじゃない。忙しいとか仰って、本当は女の人でも口説いているんでしょ」 リドル様は、可愛い顔に似合わぬキツイセリフを吐く。 「……まぁ、そういうこともあるかもしれませんねぇ」 「大体、お母さまも良くないわよ。浮気をしたら貴方を殺して私も死ぬ!! ぐらい言わなきゃ!」 わたしは、思わずリドル様を見つめてしまったが、奥様はまったく動じることなく、それを含めてあの方ですからね、 とか呟いていらっしゃる。 「………。決めたわ!」 ふいに、リドル様がにっこりと微笑んだ。 まるで花のように可愛いらしいその笑みを見て、わたしはいやな予感に襲われてしまう。 (リドル様は悪巧みをしていらっしゃるが、一番生き生きしていらっしゃるんですもの…) 「私、お父さまを誘惑してくる!!」 ――え? 「だから、お母さま。お父さまの落とし方を教えて?」 リドル様は、奥様の膝の上に肘を乗せて、身を乗り出した。 「……落とし方…と言われましても…」 奥様は、クスクスと笑っていらっしゃる。 「あら、お母さまがお父さまを落としたから、私が生まれたんでしょ?」 リドル様は、身も蓋もないことを言う。 「さぁ…私は別に……」 首を傾げる奥様をよそに、リドル様はすくっと立ち上がった。 「とにかくお父さまを捜さなきゃ。 …大丈夫。私の魅力の前にはお父さまもいちころよ、ね?」 リドル様は自信満々にそう言い放ち、「おいで、ケティ!」とわたしを呼ぶと、部屋から出て行く。 「に、にぃ〜」 わたしがリドル様に駆け寄ると、扉が閉まる間際に、 「お茶の時間までには帰っていらっしゃいね」 と、奥様の声が追いかけてきた。 |