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くろばねじんや
黒羽陣屋
別称:黒羽城
所在地:栃木県大田原市
形状 平城 史跡指定 国特別
平山城
山城 都道府県
陣屋・館 市町村
遺構 建築物 天守閣 現存
石垣 復原
土塁 外観復原
水堀 復興
空堀 模擬
模擬望楼(撮影年月 H18・7)
現存建築物 国宝 なし
国重文 なし
都道府県指定 なし
市町村指定 なし
その他 なし
復元建築物 模擬望楼
アクセス 公共 JR東北本線西那須野駅から大田原市営バス黒羽線50分黒羽支所下車
東北道西那須野塩原ICから国道400号線・461号線
ミニ情報
地図情報
城略史
 黒羽陣屋は、資料によって黒羽城としているものもありますが、幕末黒羽藩主大関氏は城主・城主格ではなかったので、ここではその居城の名称を陣屋としました。この大関氏は、中世以来本領に存続した数少ない大名で、那須氏の一族(那須七騎)です。
  大関氏は、家伝によれば武蔵七党のうち丹党の出で、武蔵国児玉郡大関村に住し大関を名乗ったとしています。しかし、これとは別に桓武平氏の後裔とする説もありあす。戦国時代に大田原氏から養子が入ったので、大田原氏の本姓である丹治姓を称するようになり、武蔵七党丹党の出ということになったようです。室町時代那須氏の有力家臣として飛躍しますが、天文十一年(1542)大田原氏との戦いで大関増次が敗死すると、大田原資清嫡男高増養子に迎えて大関氏の家督を譲りました。ここに大関氏は大田原氏に乗っ取られてしまい、大関・大田原両家は一族となりました。黒羽城を築城したのは、大田原から養子に来た高増です。天正4年(1576)との説が有力で、高増の時代に大関氏は戦国大名へと脱皮していきました。天正18年(1590)羽柴秀吉の小田原攻めの際、大関晴増は父高増ともに小田原に参陣し、主家である那須氏一族らを秀吉に拝謁させたことから那須衆では最大となる1万3千石を領する独立大名となりました。慶長5年(1600)徳川家康の会津攻めなどを経て、慶長7年には2万石の大名となり、分地により1万8千石となりましたが、江戸時代を通して本領である黒羽を本拠とし続けた、関東の外様としてはまれな家となりました。戊辰戦争時も勤王の立場をとったため、戦後1万5千石の賞典禄を得ています。
  陣屋は南北1.5qにわたる広大なもので、家康の会津攻めの時の改修が現在の形になっているようです。家格が陣屋なので名称は陣屋ですが、実際は城郭です。那珂川と松葉川に挟まれた比高40bの丘に築かれた山城であり、城域は比較的よく現存しています。
(参照「国別城郭・陣屋・要害台場事典(東京堂出版)」)
主な見どころ
↑城址碑:あまりにもひっそり立っているので、気づかずに通り過ぎそうになってしまいます。あじさいが碑の存在をさらに薄くしてしまっています。 ↑城絵図:現地案内板から。光の関係もあり見にくいですが、真ん中やや左の御殿のある場所が本丸です。この絵図だけ見ると山里みたいですけどね。
↑虎口:木橋はもちろん復元です。橋を渡ると本丸前の虎口になりますが、もう少し木々を伐採して見やすくして欲しいところです。 ↑空堀と土塁:見事な遺構ですが、堀はかなり土砂が堆積してしまったように見えます。
↑空堀:V字の見事な空堀です。やはり残念なのは余計な樹木です。それがなければどれほど素晴らしいか・・・。 ↑土塁と水堀:写真では見にくいのですが、手前には水が張っています。本来は空堀であったのかも知れませんが、ため池程度のものがあったかもわかりません。
↑本丸:広場と化している本丸跡。せっかく現存しているのだから、せめて礎石の展示保存などできないのだろうか。このような広場化している本丸跡を見ると、いつもそう感じる。 ↑模擬望楼:どうせ史実とも異なるのに、木々のせいで特に眺めが良いわけでもない。シンボル的なものが欲しかったのだろが、いまいちです。
探訪年月 @H18・7
併設・周辺資料館
参考見学所要時間 約1時間00分
お薦め度 私見   江戸時代における便宜上から、名称を陣屋と言っていますが、規模といい、縄張といい城郭であり、中世から同じ氏族によって脈々と継がれてきたのかと思うと、それだけで感慨深くなります。各曲輪や土塁・空堀は見応えがあります。しかし、せっかく建てたのでしょうが、模擬櫓が史実の根拠がないものであり蛇足に感じられます。雨の中での探訪でしたが、あじさいが綺麗で印象深い城跡となりました。
城郭ファン以外も必見
見逃せない対象です
城好きは行きましょう
予備知識がある方は・・
マニア向け
公式サイト
参考サイト 大田原市公式HP(市営バス時刻表掲載)
初版20070427
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