いつもはあまり顔を出さない事務所に、その日珍しく顔を出したのは給料日だったからだ。綱吉は付き人のスクアーロと一緒に雑然とした事務所の廊下を歩いていた。 「あの……。沢田せんぱい!」 後ろから鈴を転がしたような可愛らしい声が聞こえ、綱吉は振り返った。前を歩いていたスクアーロは立ち止まった綱吉に気づくことなく先を急いでいる。スケジュールが押しに押しているため、ゆっくりしている暇はないのだ。 小走りに向こうからやってくるのは事務所に所属してまだ一年の、新人の女の子だった。 「えーっと……? なにか用かな?」 いかんせん人の名前と顔を一致させるのが苦手な綱吉なので、頬をかきつつ誤魔化すように少女に微笑んだ。目深にかぶった帽子とサングラスのせいで少女の顔が良く見えない。綱吉はかけていたサングラスを上に持ち上げた。暗い視界が一気に色を取り戻してほんの少しばかり目を細める。 「凪、ちゃんだよね。次に一緒のドラマに出る」 「! は、はい!」 「それで、どうかした? オレに何か用事?」 ちらりと腕時計を見ると、まだ少し時間がある。通行の邪魔にならないよう廊下の端によって質問する。新しく建てられたばかりの事務所はまだすべてが真新しく、綺麗に磨き上げられた廊下が二人の姿を反射する。 凪はすでに仕事を終えたのか、最低限の薄い化粧に、髑髏のロゴが描かれたワンピースを着ていた。ん?と、綱吉が首を傾げると、凪はうろうろと視線を彷徨わせた後、綱吉の目を見て唐突に切り出した。 「沢田せんぱい。せんぱいの次の役って、好きな人を振り返らせるためにバンドを結成した不良少年の役ですよね」 「そうだよ。あれ、もう台本ぜんぶ読んだの?」 「はい。それで、あの……私、知り合いからチケット二枚貰ったんです。メジャーじゃないんですけど、良かったら、今度のオフにコンサートに行きませんか」 「コンサート? え、あの……オレ、と?」 だめですか?と潤んだ目で見つめられ、咄嗟に否定することが出来ずに首をかしげる。この手の誘いは日常茶飯事だが、綱吉は一度として乗ったことはなかった。理由は単なる物ぐさなだけだが、売名行為などの面倒に巻き込まれるのも面倒なので、付き人に行くなとキツク注意されていることも関係している。 どう言おうか困って、綱吉は天井を見上げた。いつもだったら綱吉が断る前に付き人が「すっこんでろ゛ぉぉお!!」と、相手を蹴散らしてくれるので何の問題もないのだが。さすがに女の子相手にそれはどうかと思うので綱吉は困った。 「役作りのためにギターの練習を始めたって聞きました。だから、せんぱいが良かったら生の演奏を聴いたら何か掴めるんじゃないかなって」 「あ〜〜、よく知ってるね。たしかに、楽器を買ったはいいけどなかなか練習できてないんだよなあ」 腕を組んでハア、とため息を吐く。本読みはすでに二週間後に迫っていたが、いまいち楽器を扱えずに苦戦していたところだ。 「でもコンサートって日時とか決まってるもんじゃないの? 大体日曜とか土曜とか。たしかどっちも仕事入ってたような気がする」 「プロのバンドとかはそうみたいですけど、でも大丈夫です。知り合いのバンドだから融通利くと思います」 「へ?」 「アマチュアなんです。でもすごく人気あるんですよ」 そう言った凪の表情はどこか落ち着かない様子だったが、綱吉は「そうなんだ」と相槌を打っていて気づかなかった。 「ん〜〜、オフがいつかはマネージャーに聞いて見ないとわからないな」 「……そうですか」 「でも予定があえば顔を出して見ようかな……。本番は実際に演奏しなくちゃいけないし、観客の反応がどんなのかも見てみたいし」 「ほんとですか!?」 「う、うん」 しゅん、と肩を落として落ち込んだ凪に焦って言葉を重ねると、ぱあっと表情を輝かせた凪の勢いについつい頷いてしまう。綱吉は間近で見た美少女の笑みに顔を赤くした。 「……よかった。じゃあ、沢田せんぱいの都合のいい日を教えてもらってもいいですか?」 「あ、ゴメン。今はマネージャーいないからちょっとわからないんだ。だから後からメールでしてもいい?」 「はい……!」 ポケットに突っ込んでいた名刺を凪に渡した瞬間。 「う゛ぉぉい!! このガキがぁぁっ!! なにやってやがる!」 鬼の形相をしたマネージャーがすっ飛んできて綱吉の襟首を掴むと、一緒にいた少女に構うことなく走り出した。周りにいた人間がギョッとして道を開ける。 「ちょ!? スクアーロ!! オレまだ話してるとちゅう!」 「知るかッ! なんでてめーはちょっと目を離すとすぐふらふらしやがるんだ!?」 「今のは違うって。呼び止められてたの!」 「同じことだろ゛ぉーーが!」 きょとんとしている凪にひらひらと手を振りながら、綱吉は文句を言った。スクアーロはその綱吉の態度にこめかみの血管を浮かび上げながら怒鳴った。 社長室についてからもずっとぎゃあぎゃあ言い合っていたので、すっかり凪とのやり取りを忘れていた綱吉だったが、仕事が終わって携帯電話を開いたときに思い出した。 「あ……メール来てる」 『新着メール61件です』と、待ち受け画面に表示されているのを順番にぱらぱらと目を通しているうち、知らないアドレスから送られたものがあった。タイトルに今日初めて話をした後輩の名前を見つけて、メールを開く。 『凪です。沢田せんぱい、お仕事お疲れ様です。初めてせんぱいとお話してすごく緊張しましたが、お話できて嬉しかったです。下に電話番号とアドレスを書いておくので、時間があるときにでも連絡ください。TEL 090-XXX-XXX Address XXXXXX@XXXXX.XXX.XXX』 控えめながら可愛らしい絵文字が数個ついている女の子らしいメール。それをアドレスに登録して、短く返事を打つ。時間はすでに朝方近い。芸能界という特殊な環境にいても、この時間帯に連絡されるとなかなか迷惑な時間帯だ。 送って数分経たないうちに了解の返事が来る。それに一言二言返事をして、携帯電話をポケットに突っ込んだ。ふう、と疲れた体を座席に凭れさせて目を閉じる。睡眠時間は昨日を含めて八時間も取れていない。何より惰眠を欲する綱吉には厳しいスケジュールだった。 スクアーロから聞き出したオフは四日後の金曜日だった。久しぶりの休みに一日中寝て過ごそうかと思っていたのだが、そうは行かなくなりそうだ。 (買い物とか最近行ってなかったし、ちょうどよかったって言えばそうなんだけど……。大丈夫かなあ。オレいつも車だから、電車とか乗るの不安だな。間違えそう) 役者として目まぐるしい日々を過ごしてはいるが、たまには纏まった休みが欲しいと切実に思う。車に積んでいる自分の枕と毛布を引き寄せ、家までの距離を車に揺られる。朝の道路は渋滞もなく快適だが、タクシーやトラックが横を忙しそうに走っている。もぞもぞと寝心地のいい体制を探して寝返りを打つ。窓から見えたビルの隙間から見えた朝焼けが綺麗だ。綱吉は目を閉じて家に着くのを待った。 「ごめん! 遅れた!!」 「ううん。大丈夫。まだ時間あるよ」 待ち合わせの時間に遅れた綱吉が慌てて駆けつけると、凪は背中を寄せていた壁から離れた。比較的余裕を持って家を出たはいいが、生憎事故か何かで出来た長い渋滞に巻き込まれてしまったのだった。一応連絡は入れておいたが、女の子を一人待たせることに申し訳なく感じて、タクシーを降りた瞬間走り出したのだ。これなら躊躇ったりしないで電車に乗れば良かった。 「よかった。間に合わないかと思った……。待たせてホントにごめん」 ぜえぜえと荒い呼吸の綱吉に首を振って、凪はバッグから取り出したチケットを見せた。 「開演七時からだから、まだちょっと時間あるよ」 「どれどれ。えっと、凪ちゃんの知り合いは何時頃からだ?」 チケットには何やらマジックで走り書きがしてある。筆記体で書かれたそれに綱吉は首を捻った。一応、英語はスパルタの家庭教師によってみっちり鍛えられたが、これは英語で書いているのではないようで読めなかった。 「それ、沢田せんぱいと行くって言ったら席空けとくからって。入るときにスタッフに見せなさいって」 「へえ〜〜。なんだか悪いなぁ。このチケットもタダでもらっちゃったし」 真っ黒い紙に紫色で開演時間と場所が印字されている。その上に被さるように白いインクで何かを書き足されていた。 「とりあえず行こうか。あ、行く前になにか飲み物買っていい? のど乾いた」 貰ったチケットを鞄にしまい、街中を歩き出す。本当なら車で移動しなければいけない程人気があり、顔が割れている綱吉なのだが、本人はサングラスをかけて髪を弄っているだけだ。危機意識が足りないと一昨日マネージャーに怒鳴られたばかりだ。 「せんぱい」 「ん? なに?」 「これ、被ったほうがいいと思う」 凪は被っていた自分の帽子を綱吉に渡すと、先に歩き出した。手渡された物をどうしようか迷って、結局手に持ちながら綱吉は後を追いかけた。 会場に着く前に自販機で自分のジュースと凪のお茶を買い、飲みながら歩く。金曜の夕方なだけにいつもの人ごみはさらに混雑していて歩くのが難しかったが、なんとか会場に着いた。真っ暗なステージには、まだ誰もいないのにすでに多くの観客がいて、列に並びながら綱吉は物珍しそうにあちこちに視線をめぐらせた。観客は男性も混じっているが、圧倒的に女性が多かった。 「あれ? あんたら六道さんの知り合い?」 入り口でチケットの確認をしていた坊主の青年が、チケットを手渡した綱吉と凪を見下ろして胡散臭そうに見下ろした。全身を這うような視線に居心地の悪さを感じる。自然と庇うように前に出た綱吉を驚いたように見上げ、凪は雪のように白い頬を薄く染めた。 「おい何やってんだ! さっさと入れよ」 入り口でつっかえた二人に向かって、後ろから苛々した様子で促され、綱吉は「すいません!」と謝りながら凪の手を取った。もちろんササっと門番らしきスタッフからチケットを取り返すのも忘れない。 「なんか、おっかない雰囲気の場所だな。狭いけど客入りはいいみたいだし。こんなもんなのかな?」 「せんぱい……」 「あ!? ゴメン!!」 狭い部屋の中に沢山の人間がギュウギュウに押し込まれ、綱吉は辟易しながら壁沿いの比較的まだ立っていられる場所に移動した。酸欠になりそうだと思いながら凪を気遣おうとした瞬間、繋いだままだった手に気づいて慌てて手を離し謝る。自分より細くて柔らかな手の感触にカァァっと頬が燃える。生まれて十七年、役以外では女の子とまともに話したことすらなかった。 「あ……」 「ほんとゴメンな! ああもう何やってんだオレ。いつもこんなんじゃないのに」 自分の行動の挙動不審さが恥ずかしい。綱吉は恥ずかしさを誤魔化すように凪の手によって被らされた帽子の上から頭を掻いた。放された手を名残惜しそうに胸の前で握った凪の顔が、綱吉には暗くてよく見えなかった。 「あのっ」 凪が綱吉に話しかけようとした途端、真っ暗で無人だったステージからエレキギターの激しい音に掻き消された。一斉に湧き上がる周囲に驚いて綱吉はステージに顔を向ける。ステージは未だ真っ暗だが、そこには先ほどにはなかった三人の男のシルエットが、周囲の暗さよりも濃い黒を描いてそこに立っていた。 ドラムのスティックを打ち鳴らす合図から一気に曲が流れ始めたステージに、パッと眩い照明が照らされる。あっ、と思うまもなく一気にステージに引き込まれて綱吉は思わず目を瞠った ステージには三人の青年が立っていた。奥には派手な金髪に濃緑の制服を着崩して激しくドラムを叩いている青年と、綱吉たちがいる方向とは逆のステージに立って涼しげにベースをかき鳴らしている青年。眼鏡と帽子が制服に微妙に似合っている。そして正面には照明の光で青く見える髪を綺麗に弄ったとんでもない美青年が、エレキギターを弾きながらマイクに向かって言葉をぶつけている。艶のある美声が、音色を紡ぐ。観客見下ろしているその瞳は、左右で色が違っているように見えた。人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべると、場内の女性ファンが彼らの名前を声高に叫ぶ。 「スゲ〜〜っ!」 あまりの周囲の迫力に少々引き気味になりながら、綱吉はステージの三人を見つめた。会場の汗を掻くほどの熱気と、ステージに立っている彼らとでは、何か壁で隔てられたように薄い膜が張られているようだった。興奮するファンとは違った場所で、彼らはそんな彼女たちをどこか冷静に見下ろしているように感じられたのだ。 「凪ちゃん見える!?」 綱吉は鳥肌が立つ二の腕を摩りながら、周囲に埋もれるようにして同じように立っている凪に叫んだ。普通に喋っていたのでは回りの声に掻き消されてしまうからだ。 凪は綱吉に二度頷いて、ステージにいる青年たちを黙って見上げた。女性ファンのように名前を叫ぶでもなく、一緒に歌うわけでもない。 それならいいや、と同じように壁に凭れて見始めた綱吉と、ステージの正面に立っている青年の視線がばちりと合った。紅と蒼の色違いの瞳は綱吉を見つけて、綺麗に整えられた眉を器用に片方上げる。驚いているようにも見えた。 (な、なんでサングラスしてんのに目があってんのーーっ!? あ、でも気のせいってことも) だらだらと冷や汗す。綱吉は蛙に睨まれた蛇のように彼から目を逸らせなかった。 唐突に、ニヤリと口角を上げて綱吉に向かって不敵に笑った青年に、ぞくりと背筋が震えた。今までになかったセクシャルな笑みに、感極まったようなファンの悲鳴が上がって綱吉はハッとする。そして何度か勢いよく頭を振って大きくため息を吐いた。 (なんか、アレだな。立ってるだけで女の人が寄って来るフェロモンでも出してるんだろうな) 青年たちの圧倒的な衝動に飲み込まれたような空間。音楽もそうだが、あの場に平然と立って観客を魅了している青年たちが心底恐ろしい。再びステージを見れば、クライマックスに達した青年たちが各々の楽器を派手に鳴らし終わったところだった。 「ドクロっ!」 興奮の波からまだ抜け出ぬままの空間で、不意に大声で名前を叫んだのは先程までドラムを派手に叩いていた青年だった。ステージからこっちに来るように合図されているのは明らかに隣に立っている後輩。周囲の視線が隣にいる少女に目に見えて突き刺さるのを感じる。 (女の人っておっかね〜〜!!) 敵意が混じったその視線に青くなる綱吉に対して、凪は平然としたまま青年に向かって頷いた。 「あれが凪ちゃんの知り合い?」 「うん。終わったら顔を出すように言われてるから。せんぱい、行こ」 「えっ!? オレも!?」 ガシっと右腕を抱きこまれて、綱吉は焦りながら『STAFF ONLY』と書かれた扉を潜った。扉一枚隔てただけの通路は暗かったステージと違って、明るかった。狭い通路を凪に誘われるようにして歩くと、そう歩かないうちにさっきまで確かにステージに立っていた三人の青年が何人かの人間に囲まれるようにして立っていた。 「骸」 引きずられるようにして連れ込まれた楽屋らしき部屋で、輪になっているグループに近づくと、凪は誰かを呼んだ。綱吉はさっきの金髪の青年かと思ったのだが、呼ばれて振り返ったのはさっきサングラス越しに目があったあの青年だった。 「髑髏じゃないですか。本当に来たんですね」 「私は嘘つかないよ」 「そうでしたね。どうやら僕は少々君を見くびっていたようですよ」 「し、知り合いってこの人?」 先程から凪ではなく髑髏、と呼ばれていることから、この場で凪と呼ぶのもまずい気がして、綱吉はおずおずと名前を出すことなく少女に尋ねた。途端に集まる視線にヒィィイッ!!!と内心青くなる。彼らの外見にしても、眼差しひとつとっても、お世辞にも好青年とは言い難かった。それぞれ派手な外見をしている彼らに似合った格好ではあったけれども。尻込みしてしまう。 青みがかった黒髪の青年は、綱吉を見下ろして微笑んだ。サングラスに隠された瞳を見透かすような視線だ。長身の彼と平均を少し下回る綱吉の身長差によって、綱吉は青年を見上げる形になる。長めの髪に隠されていた彼の耳につけられたピアスが音もなく揺れた。 「場所を変えましょう。千種」 「はい」 「もう移動するんれすか? 打ち上げは?」 「今日はナシです」 リーダー格らしき青年の言葉に、眼鏡をかけた猫背の青年は携帯電話を弄り始める。金髪の青年は後頭部で両手を組みながら首を捻った。それに短く返した青年は、綱吉の前まで歩み寄り、周囲に聞こえない程度で囁いた。 「お会いしたかったですよ。沢田綱吉くん」 「なっ……!?」 (やっぱりこの人オレのこと知ってる――!?) 絶句した綱吉を面白そうに見下ろして、彼はクフフ、と笑った。 「骸様。予約入れました。すぐ近くです」 「焼肉やきにく〜〜!!むくろさん早く行きましょ〜〜」 「お肉苦手……」 「それしかない訳じゃないでしょう? ああ、君は何か食べられないものは?」 「お、オレ? 特にない、けど」 行くの決定ですか?と、面と向かって言う勇気がない綱吉は項垂れながら首を縦に振った。 >>続く |