【孤独な夜に泣いた火 〜着火〜】









「っはぁ…はっ……はあっ…」

 久々に全力で走ったために、あがる息を整えるのが辛い。
 息を吸うたびに冷えた空気で頭が痛むので、ツナは家に入らずしばらくその場でじっとしていた。

「まさかこんな朝はやくっ・・・あそこで人に会うなんてなぁ! っはぁ、明日はいないといいんだけどっ!」

 徐々に元に戻っていく呼吸に安心して、ツナは水の入っているバケツを手にして室内へ入る。空のバケツを放り出してきてしまったが、まだいるかもしれない男のことを考えると、拾いに行く勇気は遠のいていった。
 どうせ明日も行くのだからそのときに拾って、シスターには適当に誤魔化しておこうとツナは考えた。

「っはよ〜。あいかわらず早いねあんた」
「おはよーハナ。あれ?チビたちももう起したのか?」

 バケツを手に室内に入ると、台所で火を熾しているハナの姿が見えてツナは驚く。黒く焦げ付いたなべに水を入れながら疑問に思っていると、顔に出ていたのかハナは眠気のせいで不機嫌ながらもツナの疑問に答えた。

「教会に寄付してるササガワって物好きいるじゃん」
「ササガワ? 誰だそれ」
「あんた知らないの? 一応私ら、そいつらのおかげでこうやって生活できてるんだけど」
「知らないよそんなの。誰のおかげで生きてるとか興味ないし」

 呆れたように話すハナに腹立ちながらも、ツナは言い返す。ツナの冷たいとも白状とも思える言葉に、ハナは眉を寄せながらも異論は無いのでただ頷いた。

「まぁ私にもよく分かんないけど、そこの家は海の向こうから香料とか絹織物とか仕入れて金儲けてんだって。役人や貴族もそこ利用してるから、かなり金持ってるみたいだね」
「ウミの向こう?」

 ウミとは一体なんだ。
 聞いたことの無い言葉にツナが頭を捻っていると、ハナが察して「川よりもずっと広い水たまりみたいなもん」とだけ説明した。ふぅんと鼻を鳴らして首を縦に振るが、やっぱりよく解らないとツナは思った。
 ハナが熾した火に底と周りが焦げ付いた鍋をかけ、二人で暖を取る。

「んで、今日はそのササガワの家に日ごろお世話になってるって感謝を表すってことで皆でそいつの家の隅から隅まで掃除することになってるってわけ」
「はぁっ?! オレそんな話ひとことも聞いてないぞ!」

 ハナが言うには七日前の昼にシスターに言われていたらしい。町へ行くのかと焦るツナの背中をハナは加減もせずにばしばしと叩き、

「心配しなくてもあんたは留守番係だよ」

 と言った。
 長い髪をゆるく後ろで結んで朝食の準備をし始めたハナに言われて、ツナは壁にかけていた大きな籠の中からじゃがいもを数個取り出した。冷たい水で土を落としたのをハナに渡すと、沸騰したお湯に小さな芋をさらに細かく切って入れた。そして秋に皆で山に入ったとき採った香草を棚から取り出して鍋に放り込む。スープを作っているハナを背に、ツナは人数分の食器を準備する。
 己の臆病な気持ちで兄弟全員にかかる負担を考えると、粗末ないものスープすら食べるのがなんだか申し訳ない気がした。

「ハナ……やっぱりオレも」
「変な勘違いしないでよ?あんたは家でなにかあった時のための対処要員。つまり責任重大な仕事を任されたわけ」
「うっ…」
「こんなぼろ屋でも私らにとっては大切な場所なんだから、泥棒が来てもちゃんと追っ払うんだからね!」
「ヒィ〜ッ!! 脅かすなよ!ほんとに来たらどうするんだよ」
「……番犬っていうのもなんだか頼りない気がするんだけど。チビども残しとくよりはマシか…」

 じろりと切れ長の瞳に睨まれ、それ以上の反論も許されずにツナは口を噤む。不承不承ながらも受け入れたからには、泥棒も町の人間も誰も家に訪れないように願うしかないツナなのだった。












「あ〜ぁ、つまんね」

 朝食を済ませると、兄弟は面倒くさ気なハナを引っ張って元気に出かけていった。
 外で皆の分の皿を、汲んできた冷たい水で一枚ずつ洗いながらぼやく。皿を振って水気を切り、殺菌させる為にツナはいつものように染みのついた脆い家の壁に並べて立てかけた。

「痛っ!?」

 寒さにもはや痛みしか感じない両手は真っ赤に染まっており、指を動かすと無数に出来た傷口からぷくりと血が滲んだ。
 薬を買う余裕がないことをツナは知っていたし、薬をつけてもまた出来てしまう傷ならば別に治さなくてもいい。でも、この痛みだけは何とかならないだろうかと両手を見下ろして眉を寄せる。

『痛いことも苦しいこともない毎日を、皆で一緒に過ごせますようお守り下さい』

 毎晩布団に入りながら全員で祈る言葉は、どうやら天には今日も届かなかったらしい。出したくもないため息が自然に口から零れて、ツナは浮かんだ血を雪に擦りつけながら今日の計画を練る。本当は自分だけで家の掃除をしようかと思ったのだが、シスターが毎日綺麗に雑巾掛けから窓拭きまでこなしてしまうので、家の中はぼろいが常に清潔だ。ツナはその考えをすぐに頭から押し出した。
 次に考えたのは読み書きや計算の練習だが、ただやろうかなと何気なく思っただけで実際にすることはないだろう。ツナは自分の、面倒なことは最後までやらない性格をよく知っていた。
 この点はハナとも弟たちとも共通しているし、血は繋がっていなくてもやっぱり兄弟なんだよな、とツナは一人笑った。

「ん〜、どうしよっかな」

 でもそれだと何もすることがないので、普段あまり使わない頭を悩ませながらツナは家の扉を開けようと取っ手に手を伸ばした。

「おはようございます」
「!」

 がちゃりと回した音に被さるように聞こえた声に、ツナは思わず悲鳴を上げる。しまった、と口を手で塞いだが背後にいる人間には聞こえてしまっただろう。
 口の中が乾いて、舌が思うように動かない。震える指先を袖に隠して、ツナはゆっくりと後ろを振り返ったと同時に目を丸くする。

「あ、朝の……」

 川で何をするでもなく立っていた男が今、ツナの目の前に立っていた。
 遠目から見ても高かった背丈は、近くで見ると威圧されているように感じる。そうだ、自分はこの男が怖くて逃げ出したのだと、ツナは今朝の自分の行動を思い出し血の気が引いた。

「これ、君のですよね」
「えっ?!あ、はい。オレのじゃないけど…家のバケツ、です」

 いきなり目の前に差し出されたバケツは上のほうに穴が開いている。それは確かに今朝ツナがが落としたもので、明日拾いに行こうと思っていたものだった。
 戸惑いながらバケツと男の顔を交互に見るツナに、男は柔らかく笑って話し始めた。

 本当は落としたバケツをすぐに届けようと思ったこと。
 道が入り組んでいてその場でしばらく迷ってしまってツナを見失ってしまったこと。

 男があまりにも軽い調子で言うものだから、てっきり殴られると思っていたツナはぽかりと口を開けて男を見た。

「どうかしましたか?」
「え、何でですか?」
「いえ、ただじっと見ているので僕の顔になにかついてるのかと少々心配になったんです」
「と、とんでもないです!! だって、まさか拾って届けてくれるなんて思わなかったから……。びっくりしたんです」

 本当に、まさか迷子になってまで探して届けてくれるなど思っていなかった。ツナ自身、姿を見て逃げ出してしまったので失礼なことをしたと自覚しているのに。

「あの、ほんとにありがとうございました」
「いえいえ、どういたしまして」

 目の前の男は酷く恐縮して言ったツナの言葉に首をかしげて、礼を言い続けるツナに困ったように微笑んだ。
 おずおずと両手を差し出してバケツを受け取ろうとしたツナの手のひらを見て、男は急に目を細めて手首を掴んだ。

「この手は一体どうしたんですか?」

 男はバケツを床に置いて、血が薄く滲んでいるツナの手のひらの傷口をしげしげと眺めて言った。

「これはいつも水仕事やってるから、気づいたらこうなってて……」
「こうすると痛いですか?」
「だだだっ! いだいですっ!!」

 男にとっては本当に軽く触っただけなのだが、ただでさえ動かすだけで鈍く痛む場所に力を入れられてツナは叫ぶ。涙ぐんだツナを見て、男は「何か薬はありますか」と尋ねた。

「くすり? そんなの買うお金あったら食べ物買うよ。じゃなくて買いますけど」
「ということはないんですね」

 シスターから気休め代わりにでも、と貰った薬草はツナの体には合わなくて、治すつもりがかえってかぶれてしまった。
 その一件のせいでどうしても薬というものを信用できないツナは、男の言葉に黙って頷いた。
 ふぅ、とため息を吐いて、男は今まで傷を見ていたときとは打って変わった満面の笑みでツナを見下ろした。その笑みに嫌な含みをツナは感じた。

「あかぎれ自体は水仕事をしていることもあって傷ができるのもしょうがないかもしれませんが、君の場合はすこし傷が深すぎますね。傷口が乾く前に指を動かすものだから」

 ほら、と言って男がツナの指を軽く折ると、関節の部分にできた傷から新しく血が浮かんだ。

「そんなこと言われたって…仕事しなきゃいけないんだからしょうがないよ。ただ血が出るだけで、べつに大した病気でもないし」

 ツナは掴まれていた手首を男から取り戻して、後ろに隠しながら呟く。目の前の男が親切心で注意をしているのかどうかはわからないが、家族の役に立っているのだから別に良いではないか。痛みも、傷口から浮かぶ赤い血も、ツナにとっては勲章なのだ。
 男はそんなツナの内情など気にせずに話す。

「たしかに今は血が出ているだけですが、ここから細菌でも入ったらどうするんですか?」
「ど、どうするって言ったって・・・そんなの」
「下手したら死にますよ。まあ細菌や病気の種類にもよりますが、それでも苦しくて痛いでしょうねぇ」

 想像もしていなかった言葉に、ツナの顔色は青から白に変わる。
 痛いのは我慢できる。やせ我慢だけど。本当はイヤだけど。でも死ぬのはもっとイヤだ。
 こんな恐ろしいことを平気で、しかも笑顔で言うなんて、なんて酷い男なんだとツナは目の前の男の顔を恨みがましく見上げた。真実などというのは知らないことのほうが幸せだとツナは思う。
 しかしもとはと言えば傷口をそのまま放っておいた自分が悪い・・・気がしないでもない・・・ような気が少しする。男の言葉に耳を貸したのが今となっては良かったのか、良くなかったのかツナには判断がつかなかった。

「少し待っていてください。僕の家からなにか持ってきますから」
「はぁっ?! いいですよ別に、ほんともう結構ですから!」
「まあまあ遠慮なさらず。死にたくないでしょう?」

 それはまあ、そうなのだが。バケツを届けてくれただけでもありがたいのに、そこまで甘えてしまってもいいものかと唸るツナに、男は意地悪く笑って、「ただし条件があります」とツナの目の前に人差し指を立てた。

「な、なんですか」
「傷の手当てが終わったら、君の名前を教えてください」

 思わず身構えたツナに「拒否は認めませんよ」とだけ言い残して、男は呆気にとられているツナを残してさっさと歩いていってしまった。
 もっと凄いこと、殴らせろだとか金よこせなど言われるのかと思っていたツナは、男の、あまりにも軽すぎる条件に拍子抜けどころか呆然としてしまった。




 親切なのかただの阿呆なのか、これがツナが初めて出会った男の第一印象だった。




















続き


 何がどういうきっかけで、世界はどう変わっていくと言うのだろう