【孤独な夜に泣いた火 〜藹藹〜】





 男は名をムクロと言った。年はツナより五つ上で、ムクロの家にはツナが聞いてもよく分からないような本が沢山あった。

 ツナとムクロが初めて出会ったあの日の前の晩、ムクロはどこかの町から引っ越してきたらしい(どこから来たのかは教えてくれなかった)。この村を夜通し散策していて、気がついたら朝になっていた。喉が渇いたので水を飲もうとしたところにツナがバケツを手に持ったツナが現れたのだ。
 「ふしぎな縁ですね」と本当におかしそうに笑うものだから、ツナも思わずムクロさんは出会ったときから変な人でしたね、と口をすべらせてしまった。ムクロは笑顔でツナの頬を引っぱり、痛くて涙を浮かべるツナを見て満足げに笑うので、やっぱりムクロさんは変な人だとツナは思う。

 ムクロは確かに変な人間だった。

 少なくともツナが今まで出会ってきた人間と違って、親がいないからといってツナたちを馬鹿にしたこともなかったし、同情もしなかった。それがツナにとっては背中が痒いようなくすぐったさをもたらして、礼を言ったら「感謝しているならそれなりの態度で示してもらわないと」と一日中こき使われるはめになったので、ツナはそれ以来その話題をするのをやめた。
 ムクロの家は院からそれほど離れていなかったので、怪我が治るまでの三ヶ月は毎日ムクロがツナの手を診察にやってきてはツナの変わりに働いていった。
 はじめはその行動にひどく恐縮していたシスターも兄弟も、次第にムクロに慣れ今ではすっかり家族の一員として生活している。

「ムクロさーん、もうご飯だよ」

 ムクロの的確な治療のおかげで薬にまけることなもなく、すっかり傷が癒えたツナは、今では水汲みと皿洗いのほかに、ムクロの家まで彼を呼びに行くという仕事も増えた。
 ムクロの噂はいったいどこからどう広まったのか知らないが、今では腕のいい薬師としていつのまにか町へと浸透していた。

「もうそんな時間ですか」

 ツナの声に書類を読んでいたムクロに「おや?」とツナは疑問に思う。

「その紙、お昼のときもムクロさん読んでなかった?」
「ええ。ですが邪魔が入ってまだ半分しか読めていないんです。たかが子供(ガキ)の擦り傷ごときで診てくれという馬鹿が来たのでほんと、まいりましたよ」

 確かにそれくらいのことでムクロさんに薬を貰いに来るなんてなんて命知らずな。机に散らばっていた書類を几帳面に揃え、引き出しにしまうムクロから視線を外してツナは思った。
 ムクロから視線を外して室内を眺める。すると、仕事机とは別の机の上に載っている物に気づき、ツナは目を丸くする。

「むむむむムクロさん!!」
「はい?」
「い、いったいどうしたんですかこれ!」
「ああ・・・」

 机の上には葡萄や梨などのくだものや、琥珀色の液体が口いっぱいまで入った瓶が数本置いてあった。ツナが知る限り、くだものは一部の特権階級しか口にすることの出来ない贅沢品だ。実際ツナはこれらのくだものを本の中でしか見たことがなくて、本物がいま目の前に無造作に置かれているのが信じられない。

「診察代とは別の手数料です」
「てすうりょうって?! これだけでもじゅうぶんな値段しますよ、絶対」
「そうかもしれませんね」
「そ、そうかもしれないって……こんなに貰って申し訳ないとかちょびっとでも思わないんですか!?」

 ツナの言葉に心外そうに眉を上げ、羽織っていた白衣を椅子にかけると、ムクロは「どうしてですか?」と逆に聞き返した。

「どうしてって」
「君はせっかくの自分の時間を無理に邪魔されたらどう思いますか?腹が立つでしょう。本来なら頼まれても応じる義務なんて僕には無いんですから」
「それはそうかもしれないけど」
「そうでしょう」

 そんな当然のことのように言い切られてしまうと、そんなものだろうかとツナは納得してしまいそうになる。なんとなく腑に落ちないような気はするが。

「それに、確かに僕は人より物事を知っていますが、医者でも神でもないただの素人ですから」

 壁にかけてあった上着を手に持ったムクロの背に、嘘だとツナは思う。でもムクロの言葉が嘘だという証拠など無いので「そんなもんですかね・・・」とだけ呟く。

「そんなものです。免許を持っていないのに治療してるなんてばれたら面倒なことになるので。僕だってリスク大きいんですから」
「人を見るのに免許なんているんですか?」
「ええ。色々面倒くさいんですよけっこう」
「ふ〜ん」
「まあだからといってはなんですが、人の好意はありがたくもらっておくべきでしょう?」

 にっこりと眩しい笑顔に隠された本心など鈍いツナには気づかなかったが、なんとなく不穏な気を察して曖昧に頷き返した。

「僕は甘い物が得意ではないので皆に持っていってあげてください」
「え?!」

 机の上に乗っていたくだものをすべて、手近にあった布に包んでムクロはツナに手渡した。両手にかかるずっしりとした重みに、ツナは驚いて何と言っていいのか分からなかったが、

「食べずに腐らせるよりは、君に食べてもらったほうがいいと思うんです」

 ぽんぽんと頭を軽く叩きながら言ったムクロに

「……ありがとうございます」

 と一言だけ言って、笑った。

「さて、君も納得したところでそろそろ行きましょうか」
「げっ!そうだった、早く帰ってご飯食べないとハナに怒られる〜!!」

 本来の目的をすっかり忘れてくつろいでいたツナは、ムクロの一言にさあっっと顔を青く染めた。出かける前、「冷める前に早く帰って来るんだよ!」と怖い顔をして送り出したハナを思い出して慌てる。
 焦って急かすツナの内心などお見通しなのか、ムクロはわざとゆっくり戸締りをして外に出る。

「何やってんですか! 早くしないと追いてっちゃいますよ!!」

 先に外に出て待っていたツナは、ムクロののんびりとした歩みに手を掴んで先へ先へと急ぐ。

「そんなに急がなくても。皆には僕が上手く言ってあげますから」

 ムクロは掴まれていた手を自分からしっかりと握りなおし、星明りしかない薄暗い道を一緒に歩く。

「ムクロさんそう言っていっつもオレのせいにするじゃないですか!」
「そうでしたか?今日は大丈夫ですよ、お土産だってありますしね」

 右手に持った重みに思わず緩んだ顔に、くすりと笑われる。
 こんなことで喜ぶ自分を子供だと思っているのかもしれないとツナは悔しく思った。
 でもまあ、今日くらいはいいかといつものようにムクロに丸め込まれたツナは、左手につながれた意味を知ろうとはしなかった。

「星が綺麗ですねー」

 いつもの道のりを、ほっかりと幸せな気持ちで歩いた。

「そうですね」

 微かに込められた指先の力に、ツナは不思議に思って後ろを振り返った。見上げれば、そこにはいつものようにムクロが微笑んでいて。きらきらと瞳に入り込んだ星のきらめきが綺麗だと思った。

「どうかしたんですか?」

 普段と同じなのに、何故だか同じじゃない気がしてツナは立ち止まってムクロに聞いた。ムクロは不審に思って見上げたツナを静かに見下ろして、口を開いて閉じた。
 ふぅ、とこぼされたムクロのため息に、ツナはやはり今日のムクロはどこかおかしいと感じる。

「ほんとにどうしたんですか?具合悪いなら今日止まってったほうがいいですよ」
「体調が悪いわけではありません」
「でも、今日のムクロさん・・・なんか変だよ」
「変? ですか」
「うん」
「きっぱり言いますねぇ君は」

 草むらで、気の早いこおろぎが鳴いていた。
 涼しげな声に包まれた二人は足を止めたまま動かない。ムクロは何かを探すように視線を横に逸らしたので、ツナも後を追ってみるが、そこには丈の短い草が生えているだけだった。

「なんと言えばいいんですかね。僕は…幸福とはいつも僕の手の届かぬところにあると思っていましたし、そうあるものだと思っています」

 ツナが視線をムクロに戻すと、ムクロはどこか他人事のような口ぶりで話し始めた。その間にも視線はちらちらと動いて定まらないので、探しているのは言葉だとツナは理解した。

「手を伸ばせば遠ざかって、こちらが求めるのを止めれば近づいてくるでしょう? でも決して手に入れることは出来ないんです。手にしたとしても泡沫のようにすぐに消えてしまう。そんな幸福とは名ばかりのものに踊らされるなんて真っ平ゴメンだと思っています」

 淡々と語るムクロは、ツナを見ていなかった。ツナはムクロが話す言葉を聞いて、相槌も言葉もかけずにただ黙って聞いていた。
 ツナにもムクロの言うことに思い当たることはあった。幸せなど、そんな言葉が世に溢れた中でツナはただ諦めて、目を閉じていたのだから。
 ムクロと出会った九ヶ月の中で、ムクロは自分のことを話そうとはしなかった。ツナも聞こうとも思わなかったし、聞いてもきっと笑って誤魔化されていただろう。

「君は、出会った当初から僕を驚かせることが上手でした」
「それは……ほめてるんですか?」
「もちろん。初めて会ったときは僕を見て逃げ出して、追いかけたら挙動不審で酷く怯えるし、いつもドジばっかりで見ていて面白かったです」
「ぜんっぜんほめられてるようには聞こえないんですけど!!」

 くふふと笑うムクロにむかっとしてツナは睨みつけるが、ちょうど雲が月を覆って辺りは黒く塗りつぶされる。
 だからツナは、

「でも、そんな君と過ごすことが嫌いじゃない」

 どういった真意で言ったのかは分からなかったが、きっと笑っているんだろうとツナは思った。
 地上に吹く風が雲の背を押して、月と星は二人を照らす。
 ムクロはツナの予想通り笑っていた。ほんの少し戸惑いを浮かべながら、いつもとは違う顔で笑っている。

「オレも」
「?」
「オレも、ムクロさんと一緒にいるの、そんなに嫌いじゃないです」

 そんなムクロの笑みを見て、思わず口からこぼれた言葉にツナは自分で驚いて、恥ずかしさに全身が赤く染まった。驚いて言葉を失ったムクロの視線に晒されて居た堪れない。

「ぷっ」
「な!? なんで笑うんですか!」
「くっ、はははは……っ!」

 ギャーギャーと恥ずかしさと照れを誤魔化すように喚くツナに、ムクロは初めて声を上げて笑った。あまりにも遠慮も何もなく楽しそうに笑うので、最初は怒っていたツナもなんだかおかしくなって、二人で声をたてて笑った。










 ツナもムクロもこおろぎも、周りを囲んだ草ですら笑いあって、星々が柔らかな眼差しで彼らを見守っていた。










 幸福とはきっと、意識しないところにひっそりとある