渚カヲルは、音楽室でシンジにペアを断られた時にも、大した動揺もなかった。自分でも少し唐突だったと思っていたし、彼の反論も大体において予想していたからだ。すげなく断ったシンジをどうやって説得すれば、彼の心が動くのかも想像はついていた。 しかし、一転してペアを受け入れたシンジの交換条件に、カヲルは動揺した。二度と近寄らないでほしいと、はっきり本人の口から拒絶されてしまったのだ。嫌われているのだろうかと不安になり、そんなことを思う自分に愕然とした。誰に嫌われてもどうでもよかった自分が、なぜシンジにそう思われると不安になるのだろうか。 もてあました気持ちを抱えながらも、そんな条件を自分が受け入れるわけもなく、結局この話は流れてしまったのかと残念な気持ちになりながら次の日学校へ行った。 「昨日の話、やっぱり受けることにしたよ」 放課後、どことなく沈んだ表情をしたシンジは、思いがけずはっきりとカヲルに告げた。あんなに嫌そうだったのに、急に何故? と疑問に思いながら、きちんと断わっておく。 「それは嬉しいけど、僕にはシンジ君の条件を受けるつもりはないよ」 「ああ……別に、もうどうでもいいよ」 昨日とは違う投げやりな態度に疑問を感じて、カヲルは眉を寄せた。 「だったらどうして急に受けることにしたのさ。昨日はあんなに嫌がっていたのに」 「昨日は昨日じゃないか。それに、君と組んであの先生の鼻を明かしてやるのもいいかと思ったんだ。それだけだよ」 そういうシンジの表情が、いつかの放課後のことを思い出させてカヲルは目を細めた。傷つくことを極端に恐れ、頑ななまでに身を守っている少年が、すべて吹っ切れたようにしている姿を見てなんだか心配になる。シンジに言えば、いらぬお世話と言われるだろうが。 「シンジ君がそう言ってくれるなら僕は嬉しいけど」 「じゃあ、明日からここで練習始めようか。まだ二人、足りないけど」 「心当たりのあるのがもう一人いるんだけど。惣流アスカ・ラングレーっていう、少し騒がしい子だけど。腕はまあまあだね」 「へえ。なら僕も一人、誘ってみるよ。心当たりがあるんだ。それで、その惣流さんって、楽器は何を使うの?」 「ヴィオラだよ」 「じゃあ、大丈夫かな。あ、それとさ、別にヴィヴァルディじゃなくていいから。四重奏じゃ合わせづらいから」 シンジは淡々としたままカヲルを見て、唇を上げた。笑っているのに、笑えていなくて、なんだか痛ましいものを見ている気にさせる。カヲルはヴァイオリンを弾く気にはなれなくて、楽器をケースに仕舞った。チェロケースを後ろに従えたまま、シンジは腕を組んでカヲルを見たまま言った。 「弦楽四重奏なら、ハイドンの方がやりやすいよ。きっと」 「それは構わないけど」 「十字架上のキリストの最後の7つの言葉、なんかいいかも」 「さすがにすべて引くわけにはいかないだろうけどね。それでもいいなら」 「僕は第4ソナタが好きだけど、序章を飛ばすわけにはいかないか。持ち時間も少ないから」 カヲルは黙って立ち上がって、ひっそり微笑んでいるシンジの顎をつかんで顔を上げさせた。おかしいとわかっていた。自分はこんなに他人に興味を示す方じゃない筈だと。 カヲルは目を細めて唐突に告げた。 「泣けばいいのに」 「はぁ……? なに、言って」 突然のカヲルの行動にシンジは呆気にとられたようにぽかりと口を開けた。今度は何だと呆れる視線を気にすることなく告げる。同情心やただの憐れみなどではない、不可思議な想いだが、カヲルはその気持ちを内心で押し殺す。それを告げれば、シンジの負担になるだろうことは分かっていた。 「無理して笑わないでくれ。見てるこっちが痛々しいんだ」 「無理なんてしてない」 「ごまかせないよ。そんな顔じゃ、全然……説得力がない」 シンジはカヲルの手から逃れようと首を振るが、カヲルはシンジの抵抗を気にせずに頬を両手で包んだ。かっと赤くなった頬が、ほんの少し熱を持っている。土足で人の心に踏み込むカヲルに憤る、かすかに潤んだ黒くて澄んだ瞳。カヲルを一心に見つめるその黒曜石のような瞳が好きだった。 「そんな顔をするくらいなら、泣いて。強がってばかりじゃ疲れるだろう?」 瞼を閉じて、シンジの額に優しく口づけを落とした。温かい頬に、瞼に、鼻先に。顔中のあらゆるところに、そっと。欲望ではない、慰撫するような柔らかな戯れに、シンジの体が震えた。ぐっと唇を噛みしめて睨まれる。 「無理してなんてないってば」 「嘘つき」 「悲しくなんてないし、寂しくなんてない! そんなはずないだろ!」 「意地っ張り」 シンジが口を開くたび、カヲルは優しく否定した。愛おしい気持ちが指先まで伝わって、それが少しでもシンジの凍ってしまったこころを解いてくれればいいと願う。こんな感情は生まれて初めてだ。 シンジはカヲルから目を逸らした。 「……ただ、すこし苦しいだけで。それだけだから……本当に、大丈夫なんだ」 「バカ。どこが大丈夫なんだよ」 たまらず細い体を抱きしめると、熱に怯えたように体を震わせる。こんなに小さくて薄い体で心を閉ざすまで、一体どれほど悲しい思いをしたのだろうか。カヲルはあやすように細い背中を撫でながら、シンジの震えが収まるのを待った。それを暴くのはただのエゴだと自嘲しながら、カヲルはシンジの口が開くのをただじっと待った。 「父親が、今度のコンクールに来ることになったんだ」 あれからしばらく背中を撫でていると、シンジは落ち着きを取り戻したのかカヲルの腕から逃れようとばたばた暴れた。もちろん放すわけもなく、そのまま両腕に力を込めていると諦めたようにおとなしくなった。 「嬉しそうじゃないね」 「嬉しいわけがないじゃないか。あんな人、僕は父親だって思っていないし。向こうだってそう思ってる」 「どうして?」 事の顛末を話すことになったシンジは、しぶしぶとカヲルに話し始めた。向かい合わせに椅子に座って、床を睨むようにして顔を伏せているシンジに苦笑しながら手を握った。 きゅっと、ほんの微かに力が込められる。カヲルは強く握り返した。 「父さんは小さいとき、僕を捨てたから。きっと、音楽を続けるのに邪魔だったんだと思う。捨てるってことは、自分が生きていくうえで僕が必要ないってことだろ? ……僕には庇護者が必要だった。こどもだったから」 その告白にも、カヲルは何も言わないで、ただしっかりと手を握っていた。シンジは遠くを見るような目線でチェロを眺めた。思い出すような声音は淡々としていた。 「母さんも同じ音楽家で、父さんは、母さんをすごく愛してたんだって言ってた。僕が生まれてから少しして、母さんは事故で死んでしまったんだ。父さんはすごく悲しんでいたけど、しばらくして……チェロと一緒に家を出てった。僕はただ、出ていく父さんを見送った。バカだった。僕はいつか父さんが僕を迎えに来てくれるって信じて、だからその日までにチェロをうまくなろうって思った。」 幼いシンジは、遠ざかる父の背中を見てどう思ったのだろう。人のいなくなった寂しい家で、一人で膝を抱えていたのか。泣きながら、父と母を思って。カヲルは想像して、切なくなった。初めて見たときの、煙草の灰を落とす彼の横顔と今のシンジの表情が重なる。 シンジは過去の自分を嘲笑するように口角を上げる。投げやりな言葉。 「まあ、迎えに来るはずなんてないんだけど……。でも僕は捨てられたなんて絶対に認めたくなかった。息子よりもチェロを、音楽を取った父さんを軽蔑した。でも、僕はチェロを手にした。これがあれば、父さんを追い越して、見下して、見返してやることができるかと思ったんだ」 シンジは顔を上げてカヲルに微笑んだ。諦めたような寂しさが混じっていた。 「でもダメだった。僕には才能がなかった。努力したってどうにもならないことだから。あの時、君のピアノを聞いたとき」 「うん」 「すごく悔しかったけど……感動したんだ。世の中にはこんなすごい人がいるのかって思った。あんな風に人のこころに寄り添う音を出す君が、羨ましくて仕方なかった」 はあーっと、溜息を吐いてカヲルを見上げるシンジには悪いが、そう思ってくれたことが嬉しい。ただ嫌われていたわけではなかったのだ。 「だからこそ諦めもついたよ」 「なにを諦めたって?」 「チェロを続けていくことを」 そういった瞬間に思わず睨むように見つめたカヲルにシンジは弁解する。しどろもどろになりながら、明後日の方向を見ている。 「べつに、チェロ自体を辞めるなんて言ってないだろ」 「当たり前。君がチェロを辞めたら僕と演奏出来なくなるじゃないか。そんなのは嫌だよ」 「君って……ほんとに、自分勝手っていうかさ。我が儘だよね」 呆れたように右手で顔を覆っているものの、髪からのぞく耳が赤く染まっている。本当に、彼は素直でないようでいて、この上なく正直だ。思わずほほえんでしまう。 「自分に嘘をつかないだけだよ。僕は」 「なんか……含みがあるように聞こえるんだけど」 じとりと指の隙間から睨むシンジにたまらず吹き出してしまう。年相応の顔でふてくされるその顔の他にも、もっとたくさんの表情が見たくなる。彼が好きだと、思った。 「そうかな。まあいいじゃないか」 「なんかごまかされてる気がしてならないよ……」 煙草が吸いたい、と呟いて無意識にポケットに手を突っ込んだシンジの様子に、ぱちりと瞬きをする。 「いいこと思いついた」 「どうせまたろくでもないことなんじゃないの」 「違うよ。シンジ君、コンクール終わるまでに煙草やめない?」 我ながらいい考えだと頷くカヲルに頭痛がしたのか、こめかみを押さえたシンジは「嫌だ」と唸った。さっきまでの暗い雰囲気が一気に霧散する。 「どうして。体に悪いじゃないか」 「そんなことは百も承知してる。それでもいいから吸ってるの」 「理由は?」 「理由って、そりゃ……」 口を閉ざしてしまったシンジに畳み掛けるようにしゃべる。 「美味しいから? 口寂しいから? それとも単なる暇つぶし?」 「そうだよ。なんか文句ある?」 カヲルは胸ポケットに入れていた白いハンカチを取り出し、広げる。中にしまっていたものを見て、シンジが目を丸くする。 カヲルは一粒手に取って、シンジに差し出した。 「最近キャンディーにはまっているんだ。シンジ君にもあげる」 「それと、僕が煙草を辞めるのと、何の関係が?」 「だって煙草より絶対こっちのほうがおいしいし? 体にもさしたる害も与えないし、口寂しさもまぎれるし。なにより」 カヲルはシンジの内ポケットにするりと手を差し込んだ。ぎょっと仰け反るシンジに頓着せず、同じように青いハンカチに包まれた煙草を抜き取る。 「こんなものを吸って時間潰すより、もっとお互いのことを話し合おうよ。そっちの方に時間使って欲しいな、僕は」 「……もっとって、なにを?」 「君と僕のことをさ」 これは僕が預かっておいてあげる、と煙草をしまう。カヲルは辟易したようなシンジの口の中にほんのり赤く色づいたキャンディを放り込んだ。 咄嗟に口に手をあてたシンジは、しばらくしてもごもごと口を動かした。 「いちご、だ」 「あ、それ僕のお気に入り……。ま、まあいいか。シンジ君だし……」 「だったらなんでそんなうらめしそうな顔で僕を見るんだ?」 「そんなことはないよ、うん。君の気のせい」 呆れを声に乗せるシンジに乾いた笑みを浮かべた。 色違いのキャンディーの一つ、無色透明な一粒を手にとってセロハンを取る。口に放り入れると、すっきりとした甘さの薄荷の味がする。 「そのイチゴ味ってさ」 「ん?」 「恋の味が、しない?」 どうしようもなく甘酸っぱい、密やかな恋の味。シンジを見ると無意識に食べたくなったのは、彼に恋をしていたからなのだろうか。もしそうだとしたら、なんて自分に正直な人間なのだろう。 シンジがカヲルの顔を凝視する。その視線にさらされて、頬が熱を持っていくのが自分でもわかる。 「こ、こ、こいって……!? ゴホォッ、ゴホッ、ゴホッ!!」 シンジは思わず息を呑んで、舐めていた飴をのどに詰まらせた。 「だ、大丈夫かい?」 「だ…誰のせいだと…っ!! おもっ、て……! ちょっ、ほんとに恥ずかしいその思考どうにかしなよ! お、おもしろすぎるじゃないか」 げほげほと咽ながら、目に涙をためながらシンジが大笑いする。 「えー……似てると思うけどなぁ」 腹を抱えて笑うシンジを憮然と見下ろしながら、カヲルはすーすーとする飴をかじった。 笑いすぎて腹を抱えるシンジを憮然として見下ろす。 「ちょっと、笑いすぎだよ」 「だって…くくっ…似合わないこと言うから」 「似合わない?」 うん、と即答するシンジに内心項垂れる。カヲルは、僕って繊細だったんだな、と自分の新たな一面を初めて認識する。口の中はまだ薄荷の味がして、どこかすがすがしい気分だ。こうやって、彼が声をあげて笑ったところを見たのと同じ気分。 シンジが座っている椅子の背もたれに片手を置いて、カヲルはいまだに笑い続けるシンジに顔を近付ける。 「え?」 音もなく触れたそこは、思った通りいちごキャンディーの味がして。くすりと笑う。 「君が煙草を吸うなら、今度からこうしてキスしようかな」 「は…はあっ!? なにっ」 「ほら、薄荷とメントールって同じようなものだしさ。口寂しくなったら遠慮なく僕に言ってね」 何をされたのか理解して真っ赤になったシンジをからかう。本当は、キスされたシンジよりもずっとどきどきしていたなんて、言うつもりもない。 >>続く |