他人というのは、どうしてこうも自分を突き崩そうとするのだろう。
 せっかく守ろうとしているものを、言葉一つでたやすく暴き立ててしまう。変化を恐れて纏っていた拒絶すら、彼の手によってゆっくりとやさしく取り払われていく。歓迎すべきものなどではないのに、触れ合う先から伝わる熱が温かくて振り払うことが出来なかった。
 怖いものだと思っていた。自分に影響を与えるものすべてが。特に人は、何を考えているか分からなくて。理解されることがどうしようもなく怖かった。自分がいかにちっぽけで、価値のない人間だと思われてしまうことに。
 飢えていた。恐れていた。人のこころに、彼らに手を伸ばすことに。今度こそ必要ないと言われてしまったら、自分はもう、なにも感じられなくなってしまいそうで。

 君だけじゃない、そう言われてどれだけ安心したか、彼はきっと知らないに違いない。
 




「いよいよ次ね」
 舞台袖でヴァイオリンを手に持ったレイの言葉に、シンジは緊張によって強張った顔のまま頷いた。
「なぁーにアンタ、緊張してんの? こんなのただのお遊びみたいなもんじゃない。楽勝楽勝!」
 それを馬鹿にするようにシンジを笑ったアスカは、観客席をこっそりと伺ってまあまあね、と肩をすくめた。栗色の綺麗な髪が揺れる。
「こんなので緊張するなんて、シンジもまだまだ経験が足りてない証拠よ」
「仕方ないじゃないですか。僕は先輩と違ってコンクールなんて縁がなかったんだから」
「慣れれば大したことないわよ。みーんなカボチャやじゃがいもみたいなもんね」
 シンジはアスカの軽口に応えながら、緊張に詰めていた息を軽く吐き出した。
 顔を合わせて約一ヶ月、学内外でも有名な渚カヲルと、才色兼備との呼び声高い惣流・アスカ・ラングレー、同じクラスの綾波レイと共に練習を重ねながら時を過ごした。
 シンジに対して最初から意味あり気だったカヲルはもとより、開口一番「あたしにしっかり合わせなさいよ! あんた年下なんだから!」と、腰に手を当ててびしっと言い放った傍若無人なアスカ。あまり言葉数は多くないが、レイとは同じクラスであり、たまにペアを組んでいたので今回の四重奏の話を持ちかけた。まさか了承されるとは思わなかったので、話を持ちかけたシンジのほうが逆に驚いてしまった。
 一学年上の二人は音楽に対して妥協を許さない性なのか、個々の性格かぶつかり合うことが多くて、よく意見が衝突した。それにより練習が出来ないことも多くあり、巻き込まれる事だって少なくなかった。
 目立つけれど、変わり者。カヲルやアスカ、レイは、たしかに人が言うようにそれぞれ優秀だけれど、だからといってすべてに優れているわけではないことをシンジはその喧嘩じみた言い争いの中で初めて知った。
「じゃがいも、ね……」
「惣流の美的感覚はともかく、彼女の言うことも一理ある。緊張しないのもダメだけど、しすぎるのもね。リラックスして普段どおりに弾けばいいんだよ」
 いきなり背後から抱きつくように腕を回してきたカヲルに目を白黒させているシンジを視界に入れて、レイが言う。本番前だというのに普段の表情のままだ。
「……それが一番難しいと思うわ」
「そうかな?」
「碇君はあなたたちと違って図太い神経していないもの。緊張を解こうとしてさらに緊張するタイプだから」
「なんですってぇッ!? どーいうことよ!」
「……綾波、それは……フォローなの?」
 憤慨するアスカの横で、レイのフォローともつかない言葉にシンジは何とも言えなくなる。言うことが一々当たっているからまた反論しづらい。
「シンジ君は繊細だからね」
「嬉しくないんだけど」
「褒め言葉だよ」
 するりと腕を放して微笑むカヲルにムッとする。ふい、と顔を逸らすとクスクスと笑われて顔が赤くなる。からかわれている。
「そろそろ出番ね」
「フン、いっちょやってやろーじゃないの」
 舞台の様子を窺っていたレイの一言に意識を集中させる。ふしぎと、今までの緊張はどこかへ行っていた。
「行こうか、シンジ君」
「……ああ」
 演奏が終わって拍手が満ちるステージへ、シンジたち四人は歩き出した。





「変な顔をしてる」
「馬鹿にしてるの?」
 無事にステージを終えた後、シンジはカヲルに誘われるまま校内に留まっていた。やり遂げた満足感と達成感で、心地よい疲労に浸っているところをカヲルにからかわれる。
 情けないところばかり目にするカヲルに眉を寄せるが、すぐにほどいて青い空を見上げた。秋が深くなった空は、澄んでいて雲が高い。
「ありが、と」
「え?」
「なんか、すっきりしたから。今日の演奏も、父さんが来てるのに全然緊張しなくてさ。……君のおかげかなって、思ったから」
まばらに漂ういわし雲を視界に入れながら、シンジはそっと礼を言った。隣に立つカヲルを見ながら言うのはなんだか気恥ずかしかったので、目線は過ぎていく雲をずっと追ったままだ。
「僕はべつに何もしていないよ。この話を持ちかけたのも僕のほうだからさ」
「それは、そうだけど」
「でもまぁ、君の力になれたならよかった」
 第三音楽室には二人だけが残っていて、つくづく自分たちは音楽室に縁があるのかもしれないとシンジは思う。最初に会った旧校舎で初めて話したときも、この音楽室で口論したときも、まさかこうやって穏やかに話ができるようになるとは思っていなかった。
「さっきも、さ。ついててくれたし」
 会場から出た廊下の途中で、電話をかけてきたリツコに会った。待ち構えていたのかどうかはわからない。崩さずにきちっと着たスーツは、彼女の性格を現しているように皺もなく、名の張りそうな物だった。
 立ち止まったシンジに、彼女は近づくことなく今日の演奏を褒めた。お世辞を言うような人間ではなかったから、複雑に思いながらも礼を言った。いつも彼女に接するような冷静さをその時保っていられたのはきっと、カヲルが隣に立っていたからだとわかっていた。父親のことを言われれば、少なからず動揺していた筈だった。彼女は一緒にいるカヲルを見てすこし驚いたような表情をした後、シンジに「友達?」と尋ねた。
 首を振る前に、「ええ」と頷かれてしまったので、納得した彼女の手前それを否定することもできなかった。以前の自分だったらきっと、なにを言われたところでごまかしていただろう。それをする気にならなかったのはきっと。
(それでもいいか、って、思っちゃったんだよな……)
 先程のことを思い出しながら、自分の心境の変化に驚く。数ヶ月前では考えられないほど、自分は他者を、ほんの少しずつ受け入れ始めている。澱んでいた感情を吐き出してしまったからだろうか。
あの時、泣いてしまったことがとても情けなくて仕方なかったのに、カヲルはそんなシンジを笑ったりしなかった。強いだけの人間なんていないよ、と教えてくれた。そうなのだろうか、と考えながら、踏み込めなかった一歩をためらいながらも進めるようになった。カヲルのおかげで。
「これ、あげるよ」
「なに?」
「キャンディ。前にもらったやつ、おいしかったから。たまに食べるんだ」
 ポケットから二つ取り出したのは、カヲルが好きなイチゴ味のキャンディーだ。口寂しいとき、煙草ではなくこの飴を舐めるようになった。
 カヲルはすこし驚いて、ゆっくりと表情を緩めた。ありがとう、と受け取って口に放り込んだ。シンジもそれに習って口に放り込む。ころころとした丸い飴玉を、まさかこの年になって食べるようになるとは思わなかったが、悪くないと思う。
「シンジ君さ、最近煙草を吸わなくなったよね」
「え? まあ」
「なんで?」
「そりゃ……誰かさんにキスされたら困るからね」
 そっと触れてきた柔らかな感触を、簡単に忘れることなんか出来ない。気まぐれにされたキスが、どうしてか心に残った。彼も自分も男だと言うのに。気持ち悪いと、普通なら思うはずなのに。
 シンジは目を伏せてキャンディーを舐める。ほんの少し熱を持った顔が忌々しい。こんなことになるなら言わなきゃよかった。
「僕、さ。初めて会ったときからずっと……違うか、君のチェロの音を聞いたときからずっと、君のことが好きなんだけど」
 唐突に告げられた告白に呆然とする。
「は……? なに、言ってんの」
「君が好きだよ」
 カヲルはシンジに近づいて、黒い瞳をまっすぐに見つめながらもう一度言った。睨みつけられているわけではないのに、そのまなざしから逃れることが出来なくてシンジは押し黙る。これは、友達として好きだということで、いいのだろうか?
「好きって……僕も好きだけど。……一応」
「ほんと!?」
 それなら、と、少しためらいがちに頷き返したシンジに、カヲルは瞳を輝かせた。え? と思うまもなく力いっぱい抱きしめられ、シンジは混乱する。
「ちょ、ちょっと!? なにしてんだよ!」
「よかった。ずっと嫌われてるのかと思ってたから」
「……。まあ、嫌いだったし」
 ぎゅう、っと強い力で抱きしめられ、囁かれた一言に目を泳がせながらも否定はしない。最初の頃、自分を乱そうとするカヲルが嫌でたまらなかった。今は、そうでもないけれど。
 人に接することに対して自分がずっと不安だったように、カヲルもまた、不安だったのだろうか。
「いいよ、今は違うなら。そんなの。大切なのはこれからだし」
「前向きだなぁ」
「じゃないと前に進めないからね。ね、シンジ君」
「ん……?」
「僕とつきあってよ」
「どこに? って、聞くところなのか、これは」
 さっきから反応に迷うようなことを言われるばかりで戸惑う。カヲルはシンジから腕を放さぬまま、「ボケてるなぁ」と小さく呟いた。
「聞こえてるぞ」
「僕は君のことが好きって言ってるんだから、この場合はイエスしかないだろ」
 不平を言うと、あきれたように返されて動揺した。すれすれの友情かと思っていたが、この場合はもしかして。
「君、僕にキスしたいとか、その……色々したいって思うほうの好きって、こと?」
「そうだけど」
 おそるおそる尋ねたことに平然と返されて、そういう対象として、恋愛感情として好きと言われていたことに気づいて顔が熱くなる。鏡で見たら、きっと情けないほど赤くなっているに違いない。
「ねぇ、シンジ君」
「なんだよっ」
「なに怒ってんの?」
「君が恥ずかしいことばっかりぺらぺら喋るからだ!」
 恥ずかしさに染まった顔を見られないように、腕を放そうとしたカヲルにしがみつく。シンジのその態度に驚いてカヲルが見下ろすと、うつむいて見えない顔が赤くなっていることを示すように、髪に隠れるようにして、ほんの少し覗いている耳と顔が真っ赤に染まっている。
 うつむいて顔を見られないようとしているのに、頬に触れたカヲルの手にそっと持ち上げられてしまう。恨みがましいように睨むと、同じように頬を染めたカヲルが嬉しそうに微笑んだ。
「シンジ君は、僕が好きなんだろ?」
「そ、れは……」
「僕も好きだ。君が好き」
 そっと降りてくる顔から逃れるように目を閉じる。だが、決して逃げたいわけではなくて。自分のものではない、やわらかな感触が唇に触れた瞬間、シンジは自分のわけのわからない気持ちの正体を知った。
 この気持ちは多分。

「君が、すき」










end.



あとがき
 なつなつさまリクエストの「天才と馬鹿の境界線」後の二人です。シリアスかと思ったら違う方向に転がって、最後はイチゴキャンディのように甘くなってしまいました。
 プロット段階でそんな長い話になる予定はなかったんですが、三話あわせて結構な量になってしまいまし…た。なつなつさまのみお持ち帰り可能です。リクエストありがとうございました!